『Remain in Light』 Talking Heads ☆☆☆☆☆
Talking Headsが1980年に発表した傑作。ブライアン・イーノも参加している。とにかくこのアルバムが発表された時は衝撃だった。こんな音楽それまでなかったのである。
まず、それまでトーキング・ヘッズといえばバリバリにニューヨークの香りがする知性派ニューウェーヴ・バンドで、そのロックはポップ・アートのようにクールで先鋭的、そしキッチュだった。大抵のニューウェーヴ・バンドと同じく、ペラペラしたパンキッシュだな音だった。とにかくインテリって感じで、そういう彼らのパブリック・イメージは名曲『サイコ・キラー』によってあますところなく体現されている。前作『Fear of Music』でもそれは同じで、今聴くと1曲目の『I Zimbra』で来たるべきアフリカン・ビートの導入が予感されるものの、薄っぺらい音でキッチュなインテリ・ロックをやるバンドというイメージには変わりなかった。そこへきて、この大胆なファンク/アフリカンビート、ループする楽器音で曲を構成するシャーマニズム的手法の全面的な導入である。みんなぶっとんだのも無理はない。
パーカッションの導入は言うまでもないのだが、注目すべきは各楽器の音がすべてビートに奉仕するパーカッシヴな音になっており、演奏全体でワールド・ミュージック的なノリになっていること、それから、それぞれの楽器が曲の間中同じフレーズを延々と繰り返すことによって曲が構成されている、という点である。つまり、それまでトーキング・ヘッズが(そして他のすべてのロックバンドが)やっていたように、コード進行やアレンジの変化によって曲が展開しないのである。じゃあ曲に展開というものがないのかというとそんなことはなく、ちゃんとサビのメロディがあって、それまでのトーキングヘッズ楽曲同様独特のキャッチーなメロディなのだが、ただAメロだのサビだのいう変化はヴォーカルのメロディやバックコーラスでもたらされるのみで、楽器の演奏は曲の間中ずーっと同じなのである。プレイヤー達はさぞ退屈か、あるいはトリップして気持ちよくなるかどっちかだろう。
それぞれの楽器のフレーズはシンプルなものばかり。旋律を奏でるのではなく基本的にベキッ、ドンとか、シャカシャカとか、トテテテとか、要はパーカッシヴなエフェクトに近い断片的な音をひたすら繰り返す。これらが精巧なモザイクのように組み合わさることによって曲全体としてのうねりが生まれ、シャーマニズムの儀式のような独特の音空間が構築される。
とはいえ、従来のトーキングヘッズらしさが失われたわけではなく、むしろその延長線上にあるというのがまた凄いところだ。原始的なビートの導入によりどの曲も不気味な生命力に満ち溢れているが、かといって民族音楽色に染まっているかというとそうではなく、やはりきっちりとモダン・アートのフィルターがかかっている。プリミティヴなワールド・ミュージック的要素がニューウェーヴ・ロックに見事にコンパイルされている。
冒頭の『Born Under Punches』は新しい音楽の誕生を告げるまさに象徴的な曲である。本作中この曲が一番良いと思う。シンプルなノイズが組み合わさったモザイクの精緻さ、ジャングルに迷い込んだような不気味なサウンド・スケープ、横溢する原初的な生命力、ものすごいうねりを生み出しながらも非常にクールな曲の印象、デビット・バーンのシャーマン的なヴォーカル。最初から最後まで持続するテンションの高さ。最後にはAメロ、サビ、コーラスのすべてが重なってフェードアウトとなる。この曲を聴いていると、延々と続く催眠的なビートに金縛りにされるような感覚に襲われる。それからエンドリアン・ブリューのとんでもないギター・ソロ。これをギター・ソロと呼んでいいのかどうか良く分からないが、まるで暴走したシーケンサーのような妙ちきりんな音がひとしきり続く。最初聴いた時はこれがギターの音だとは気づかなかった。
それから有名な『Once in a Lifetime』。このモザイク手法でキャッチーな曲も作れるという証明だ。明るい曲である。サビの部分だけにギターのカッティングが入ることで曲の展開感を出している。
最後の『Overload』は重々しい不気味な曲である。あのブルブルブルという音はどうしてもヘリコプターの音を連想してしまう。
ところでこのアルバムは発表と同時に絶賛されたが、音楽評論家の渋谷陽一氏は何を思ったかロッキンオン誌上で「トーキングヘッズはゴミじゃ」とかいう記事を書いてこれをこき下ろした。なかなか面白いので、それについて明日また続きを書く。
Talking Headsが1980年に発表した傑作。ブライアン・イーノも参加している。とにかくこのアルバムが発表された時は衝撃だった。こんな音楽それまでなかったのである。
まず、それまでトーキング・ヘッズといえばバリバリにニューヨークの香りがする知性派ニューウェーヴ・バンドで、そのロックはポップ・アートのようにクールで先鋭的、そしキッチュだった。大抵のニューウェーヴ・バンドと同じく、ペラペラしたパンキッシュだな音だった。とにかくインテリって感じで、そういう彼らのパブリック・イメージは名曲『サイコ・キラー』によってあますところなく体現されている。前作『Fear of Music』でもそれは同じで、今聴くと1曲目の『I Zimbra』で来たるべきアフリカン・ビートの導入が予感されるものの、薄っぺらい音でキッチュなインテリ・ロックをやるバンドというイメージには変わりなかった。そこへきて、この大胆なファンク/アフリカンビート、ループする楽器音で曲を構成するシャーマニズム的手法の全面的な導入である。みんなぶっとんだのも無理はない。
パーカッションの導入は言うまでもないのだが、注目すべきは各楽器の音がすべてビートに奉仕するパーカッシヴな音になっており、演奏全体でワールド・ミュージック的なノリになっていること、それから、それぞれの楽器が曲の間中同じフレーズを延々と繰り返すことによって曲が構成されている、という点である。つまり、それまでトーキング・ヘッズが(そして他のすべてのロックバンドが)やっていたように、コード進行やアレンジの変化によって曲が展開しないのである。じゃあ曲に展開というものがないのかというとそんなことはなく、ちゃんとサビのメロディがあって、それまでのトーキングヘッズ楽曲同様独特のキャッチーなメロディなのだが、ただAメロだのサビだのいう変化はヴォーカルのメロディやバックコーラスでもたらされるのみで、楽器の演奏は曲の間中ずーっと同じなのである。プレイヤー達はさぞ退屈か、あるいはトリップして気持ちよくなるかどっちかだろう。
それぞれの楽器のフレーズはシンプルなものばかり。旋律を奏でるのではなく基本的にベキッ、ドンとか、シャカシャカとか、トテテテとか、要はパーカッシヴなエフェクトに近い断片的な音をひたすら繰り返す。これらが精巧なモザイクのように組み合わさることによって曲全体としてのうねりが生まれ、シャーマニズムの儀式のような独特の音空間が構築される。
とはいえ、従来のトーキングヘッズらしさが失われたわけではなく、むしろその延長線上にあるというのがまた凄いところだ。原始的なビートの導入によりどの曲も不気味な生命力に満ち溢れているが、かといって民族音楽色に染まっているかというとそうではなく、やはりきっちりとモダン・アートのフィルターがかかっている。プリミティヴなワールド・ミュージック的要素がニューウェーヴ・ロックに見事にコンパイルされている。
冒頭の『Born Under Punches』は新しい音楽の誕生を告げるまさに象徴的な曲である。本作中この曲が一番良いと思う。シンプルなノイズが組み合わさったモザイクの精緻さ、ジャングルに迷い込んだような不気味なサウンド・スケープ、横溢する原初的な生命力、ものすごいうねりを生み出しながらも非常にクールな曲の印象、デビット・バーンのシャーマン的なヴォーカル。最初から最後まで持続するテンションの高さ。最後にはAメロ、サビ、コーラスのすべてが重なってフェードアウトとなる。この曲を聴いていると、延々と続く催眠的なビートに金縛りにされるような感覚に襲われる。それからエンドリアン・ブリューのとんでもないギター・ソロ。これをギター・ソロと呼んでいいのかどうか良く分からないが、まるで暴走したシーケンサーのような妙ちきりんな音がひとしきり続く。最初聴いた時はこれがギターの音だとは気づかなかった。
それから有名な『Once in a Lifetime』。このモザイク手法でキャッチーな曲も作れるという証明だ。明るい曲である。サビの部分だけにギターのカッティングが入ることで曲の展開感を出している。
最後の『Overload』は重々しい不気味な曲である。あのブルブルブルという音はどうしてもヘリコプターの音を連想してしまう。
ところでこのアルバムは発表と同時に絶賛されたが、音楽評論家の渋谷陽一氏は何を思ったかロッキンオン誌上で「トーキングヘッズはゴミじゃ」とかいう記事を書いてこれをこき下ろした。なかなか面白いので、それについて明日また続きを書く。
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