アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

大聖堂

2009-05-13 21:26:25 | 
『大聖堂』 レイモンド・カーヴァー   ☆☆☆☆☆

 『愛について語る時に私たちが語ること』に続く短編集にして、短篇作家カーヴァーの誰もが認めるマグナム・オプスである。村上春樹が言うように、初期の作風からはっきりした変化が見られる。まずスタイルの点では一つ一つの短篇が長くなり、文章も息が長くなっている。スケッチ的な、あるいは一筆書き的なプロットは減少し、物語は複合的な展開を見せる。奇をてらったような意味ありげなタイトルや、突き放すようなトリッキーな結末が姿を消し、シンプルで直截なものになる。そして内容的には初期の荒涼とした絶望、出口の見えない閉塞状態ばかりでなく、ひとかけらの希望が見えるようになる。初期の短篇が舌に突き刺さるキチキチに冷えたウォッカだとしたら、本書の作品は芳醇な香りのワインのようだ。

 カーヴァーの文体はとにかく素晴らしく、切れ味とスピード感こそ初期のミニマリスム・スタイルに一歩譲るが、透明な抒情性と的確さは更に磨きぬかれてもはや至高の域に達している。難解さのかけらもないシンプルな言葉の連なりがきらめく結晶体と化している。どの短篇も素晴らしい出来だが、私のフェイバリットを挙げると『羽根』『ささやかだけど、大切なこと』『ぼくが電話をかけている場所』『熱』『大聖堂』あたりということになるだろう。

 まずしょっぱなの『羽根』がいきなり、目がくらむほどに素晴らしい。「私」が田舎の友人宅を訪れる話で、庭には醜い声で鳴く孔雀がいて、部屋には奥さんの矯正前の歯型が飾ってあり、赤ん坊は驚くほど醜い。「私」と妻はいちいち動揺する。これは果たしておぞましい話なのか、あるいは心温まる話なのか、最初は方向性がよく分からない。とにかくコミカルなシチュエーションに惹きつけられて読み続けると、だんだんとこの奇妙な家族が真の愛情で結びついていることが分かってくる。そしてその愛情が実に美しく、感動的なので、読んでいてほとんど涙が出そうになる。この家族が奇妙で、素朴で、普通に人々が憧れるようなお洒落な家族でなく結構かっこ悪いというところが余計にその素晴らしさを際立たせている。いわゆる勝ち組負け組なんていう価値感の対極にある家族の姿だ。そしてそれはシニカルだった「私」の妻の心も動かすが、その後の「私」たちは結局うまくいかない。カーヴァーの登場人物たちの普遍的な運命である、あの暗い崩壊に呑みこまれていく。

 『ささやかだけど、大切なこと』は『風呂』のロング・バージョンだが、単に引き伸ばされているのではなく続きが書かれている、というのが非常に重要だ(というか正しくはロング・バージョンから後半が削除されて『風呂』になった、というのが真相らしい)。ほとんど別の短篇と化している。パン屋の役割が大きく変わっているのはもちろんだが、『風呂』では描かれなかった少年の死がはっきり描かれている。初めてこの短篇を読んだ時はそれが衝撃的だった。カーヴァーはもはや不幸を暗示するだけでなく、真正面から見据えることができるようになったのである。そしてもちろん、その不幸の果てに現れる、ほんのささやかな癒し、ひょっとしたら希望のようなもの。焼きたてのパンの香りの良さ、そして美味というのはちょっと類を見ないものがあるが、この短篇ではそのイメージが最大限に活かされている。

 『ぼくが電話をかけている場所』は後期カーヴァーの特徴である複合的な語りの見事な一例である。アル中の矯正施設に入っている私と友人たちの、痛々しくてどこかおかしい物語だが、私の話やJPの話など複数のエピソードが時系列に沿わない形で、一見ランダムに、しかし実際はきわめて巧みに配置されていることに注目。この緩い構成がこの短篇の魅力をさらにアップしている。ここでも煙突掃除する美女というカーヴァーらしいオフビートなモチーフが現れる。

 表題作の『大聖堂』は「私」の家に妻の友人である盲人がやってくる話で、このシチュエーションがもう見事にカーヴァーだが、盲人と「私」が一緒に大聖堂の絵を描く、という奇妙な行為のおかしさ(その前に一緒にマリファナを吸ったりする)、その奇妙な行為が終盤で劇的に変化するその転調の見事さ、そして「私」が最後に到達する境地の素晴らしさ、とどこを取っても非の打ち所のないマスターピースである。前半、私の妻の昔の話(自殺未遂)や盲人の妻がガンで死んだ話などはカーヴァー初期の痛ましさのにおいがするが、盲人が「私」の前に現れてからはオフビートなユーモアが全開になる。「列車のどちら側におかけになりました?」みたいな会話や、食事の前のお祈り、そしてなぜかものすごい勢いで食べ物を平らげる「私」たち三人など、予想もできない生き生きしたディテールが次々と繰り出される。なぜこの短篇が『大聖堂』なの、と不思議になってきた頃おもむろに「大聖堂」が現れ、その後の展開もまったくユニークだ。結末は実に感動的だが、これがまたとても不思議な感動である。しんみりするでもなく、涙腺が緩むでもなく、元気をもらう、というのともちょっと違う。なんだか頭の上の風通しが良くなって宇宙につながっていくような、不思議な爽快感にみちている。ちょっとこれと似たような短篇は思いつかない。そして『大聖堂』というタイトルがまた、いいのである。

 それにしても、どうして表紙のイラストは大聖堂じゃないんだろう?


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