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『浮世の画家』 カズオ・イシグロ ☆☆☆☆☆
イシグロの初期作品を読了。これはデビュー作『遠い山なみの光』に続く二作目である。タイトルから連想される通り日本が舞台で、画家の話だ。といっても浮世絵画家ではない。タイトルの「浮世」には違う意味がある。
アマゾンの内容紹介にはこう書かれている。「戦時中、日本精神を鼓舞する作風で名をなした画家の小野。多くの弟子に囲まれ、大いに尊敬を集める地位にあったが、終戦を迎えたとたん周囲の目は冷たくなった。弟子や義理の息子からはそしりを受け、末娘の縁談は進まない。小野は引退し、屋敷に篭りがちに。自分の画業のせいなのか…。老画家は過去を回想しながら、みずからが貫いてきた信念と新しい価値観のはざまに揺れる―ウィットブレッド賞に輝く著者の出世作。」まあ、間違ってはいない。が、なるほどそういう小説か、と思って読むと印象が違うので驚くことになる。はっきり言って、全然こういう小説ではない。
一人称の「私」が主人公である。「私」は引退した画家で、過去にかなりの業績を残したらしい。今は淡々と穏やかに暮らしている。が、何かがおかしい。娘の縁談が壊れる。家族の会話もぎくしゃくしている。読者がただちに察知するのは、書き手は何かを隠している、ということだ。それが何かはすぐには分からない。だんだんと分かってくる。
語り手が信頼できない、というのがポイントである。はっきり覚えていない、間違いなくこうだったと思う、考えてみるとこうだった、云々という文章が頻繁に出てくる。彼は一見誠実なようだが、読者にしてみれば自己正当化、隠蔽、歪曲、などを行っている可能性が捨てきれない。イシグロがそういう書き方をしているのである。これは気持ち悪い。読者はこの気持ち悪さを抱えて読み進めなければならない。
ネタバレにならないように曖昧に書くと、要するに語り手の画家・小野は戦時中の画業で名声を得たものの、敗戦によってその思想が間違いだったとされ、今では人々の冷たい視線にさらされているのである。彼に対しては色んな人が色んな反応をする。娘たちもそう、娘婿もそう、娘の見合い相手もそう、かつての弟子たちもそうだ。人から冷たくされるだけでもなく、語り手の小野も疑心暗鬼になっていて、この人のこの反応はやはりあのせいか、などと気を回したりするので余計気持ち悪い。このぎくしゃくした、不穏な、居心地の悪い感じ、得体の知れないスリルがまずは本書のムードを支配している。特に事情がよく分からない前半は娘の態度が妙に冷たかったりするのが妙で、後の異色作『充たされざる者』に似た感じがある。
訳者はあとがきで、小野が自分の過ちを認め、良心の呵責を克服して新しい価値観に希望を託す感動的な話だと書いているが、私にはあんまりそうは思えなかった。小野が過ちを犯したのは歴史の経緯を見れば明らかだが、それを責める若い世代も結局同じ過ちを犯しているように思えるのである。これはつまり作中であからさまに小野を批判する三宅二郎や素一をはじめとする人々のことだが、時勢に合わせて態度を変える小野の弟子・信太郎なども含まれる。つまり過去の思想が間違っていたとして断罪する行為と、戦争中に愛国心がない非国民だと断罪する行為は、どちらも同じくらいに愚かしいように思える。イシグロもそういう書き方をしていて、たとえば暴行を受けた平山の坊やのエピソードなどがそうだ。彼は軍歌を歌うしか能がない知恵遅れの男だが、戦時中は歌を歌って周囲から喝采を受けていたので、今も歌う。すると今度はボコボコに殴られるのである。
この「イデオロギーによる村八分状態」はもっと小さなサークルでも観察されるが、イシグロはそれを、森山先生のサークルにおける「裏切り者」の排斥エピソードで明示している。つまり浮世の情緒を追い求める森山サークルから、小野は「裏切り者」として追放される。その追放ぶりはまさに「いじめ」そのもの。醜く、愚かしい。やがて小野は成功し、森山は評価を下げる。小野はわが世を謳歌し、勝利感に酔いしれる。やがて戦争が終わり、今度は小野が「戦犯」となる。人の世は無常、めぐりめぐる糸車である。人間の愚かしさはメリーゴーランドのようにぐるぐる回りながら続いていく。
つまり、この小説における「現在」の若者たちは新しい価値観を持っているように見えるが、実のところは「イデオロギーによる村八分状態」を繰り返す愚かしさの中に留まっている、という含みがないだろうか。もちろんイシグロははっきりそうは書かないが、私にはそんな風に思えた。非常にシニカルだ。
さらに言うと、終盤にクローズアップされる節子の言い分と小野の言い分の食い違いも気になる。人々から責められている、という認識のかなりの部分が小野の錯覚なのだろうか。ひょっとすると、彼は自分の重要性を過大評価しているのかも知れない。この部分は解釈の余地がありそうだ。やっぱり本書も、他のイシグロ作品同様、謎と多義性に満ちた一筋縄ではいかない作品である。
ところで、あちこちで小野は孫の行動を観察して書いているが、この孫の一郎の言動がかなりおかしい。笑える。こういうところにもちょっと『充たされざる者』の匂いがする。
イシグロの初期作品を読了。これはデビュー作『遠い山なみの光』に続く二作目である。タイトルから連想される通り日本が舞台で、画家の話だ。といっても浮世絵画家ではない。タイトルの「浮世」には違う意味がある。
アマゾンの内容紹介にはこう書かれている。「戦時中、日本精神を鼓舞する作風で名をなした画家の小野。多くの弟子に囲まれ、大いに尊敬を集める地位にあったが、終戦を迎えたとたん周囲の目は冷たくなった。弟子や義理の息子からはそしりを受け、末娘の縁談は進まない。小野は引退し、屋敷に篭りがちに。自分の画業のせいなのか…。老画家は過去を回想しながら、みずからが貫いてきた信念と新しい価値観のはざまに揺れる―ウィットブレッド賞に輝く著者の出世作。」まあ、間違ってはいない。が、なるほどそういう小説か、と思って読むと印象が違うので驚くことになる。はっきり言って、全然こういう小説ではない。
一人称の「私」が主人公である。「私」は引退した画家で、過去にかなりの業績を残したらしい。今は淡々と穏やかに暮らしている。が、何かがおかしい。娘の縁談が壊れる。家族の会話もぎくしゃくしている。読者がただちに察知するのは、書き手は何かを隠している、ということだ。それが何かはすぐには分からない。だんだんと分かってくる。
語り手が信頼できない、というのがポイントである。はっきり覚えていない、間違いなくこうだったと思う、考えてみるとこうだった、云々という文章が頻繁に出てくる。彼は一見誠実なようだが、読者にしてみれば自己正当化、隠蔽、歪曲、などを行っている可能性が捨てきれない。イシグロがそういう書き方をしているのである。これは気持ち悪い。読者はこの気持ち悪さを抱えて読み進めなければならない。
ネタバレにならないように曖昧に書くと、要するに語り手の画家・小野は戦時中の画業で名声を得たものの、敗戦によってその思想が間違いだったとされ、今では人々の冷たい視線にさらされているのである。彼に対しては色んな人が色んな反応をする。娘たちもそう、娘婿もそう、娘の見合い相手もそう、かつての弟子たちもそうだ。人から冷たくされるだけでもなく、語り手の小野も疑心暗鬼になっていて、この人のこの反応はやはりあのせいか、などと気を回したりするので余計気持ち悪い。このぎくしゃくした、不穏な、居心地の悪い感じ、得体の知れないスリルがまずは本書のムードを支配している。特に事情がよく分からない前半は娘の態度が妙に冷たかったりするのが妙で、後の異色作『充たされざる者』に似た感じがある。
訳者はあとがきで、小野が自分の過ちを認め、良心の呵責を克服して新しい価値観に希望を託す感動的な話だと書いているが、私にはあんまりそうは思えなかった。小野が過ちを犯したのは歴史の経緯を見れば明らかだが、それを責める若い世代も結局同じ過ちを犯しているように思えるのである。これはつまり作中であからさまに小野を批判する三宅二郎や素一をはじめとする人々のことだが、時勢に合わせて態度を変える小野の弟子・信太郎なども含まれる。つまり過去の思想が間違っていたとして断罪する行為と、戦争中に愛国心がない非国民だと断罪する行為は、どちらも同じくらいに愚かしいように思える。イシグロもそういう書き方をしていて、たとえば暴行を受けた平山の坊やのエピソードなどがそうだ。彼は軍歌を歌うしか能がない知恵遅れの男だが、戦時中は歌を歌って周囲から喝采を受けていたので、今も歌う。すると今度はボコボコに殴られるのである。
この「イデオロギーによる村八分状態」はもっと小さなサークルでも観察されるが、イシグロはそれを、森山先生のサークルにおける「裏切り者」の排斥エピソードで明示している。つまり浮世の情緒を追い求める森山サークルから、小野は「裏切り者」として追放される。その追放ぶりはまさに「いじめ」そのもの。醜く、愚かしい。やがて小野は成功し、森山は評価を下げる。小野はわが世を謳歌し、勝利感に酔いしれる。やがて戦争が終わり、今度は小野が「戦犯」となる。人の世は無常、めぐりめぐる糸車である。人間の愚かしさはメリーゴーランドのようにぐるぐる回りながら続いていく。
つまり、この小説における「現在」の若者たちは新しい価値観を持っているように見えるが、実のところは「イデオロギーによる村八分状態」を繰り返す愚かしさの中に留まっている、という含みがないだろうか。もちろんイシグロははっきりそうは書かないが、私にはそんな風に思えた。非常にシニカルだ。
さらに言うと、終盤にクローズアップされる節子の言い分と小野の言い分の食い違いも気になる。人々から責められている、という認識のかなりの部分が小野の錯覚なのだろうか。ひょっとすると、彼は自分の重要性を過大評価しているのかも知れない。この部分は解釈の余地がありそうだ。やっぱり本書も、他のイシグロ作品同様、謎と多義性に満ちた一筋縄ではいかない作品である。
ところで、あちこちで小野は孫の行動を観察して書いているが、この孫の一郎の言動がかなりおかしい。笑える。こういうところにもちょっと『充たされざる者』の匂いがする。
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