ストックホルム症候群(Stockholm syndrome)とは、誘拐事件や監禁事件などの犯罪被害者が生存戦略として犯人との間に心理的なつながりを築くことをいうらしい。悲しむべきことに、中学時代の理不尽不条理凄惨に起因して私自身がそうだったから、よくわかる。十代、二十代の私はずっとこれに罹患していた。いまの日本社会、日本国民全体の病理もこれかもしれない。
昨晩は、歌誌『塔』2020年4月号p116~119の小林幸子先生のお書きになった評論「『歩く』・断想」の一言一句を、深き遠き淵に引き込まれるように読み耽った。河野裕子先生の歌集『歩く』を、小林幸子先生のお言葉を知った後で開いたらきっと、一首一首いままでとは違う読みが出来そうな気がする。例えば、歌集『歩く』巻頭の有名な一首〈捨てばちになりてしまへず 眸(め)のしづかな耳のよい木がわが庭にあり〉についても、如何様に読もうとも読み手の自由で、この〈庭〉を河野裕子先生の現実のお宅の庭として思い浮かべてもよいのだけれども、あるいは、そうではなくて、大江健三郎氏の連作短編集『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち」(新潮文庫)の中の、「『雨の木(レイン・ツリー)』は僕にとって様ざまな役割をもつものだが、ついには僕がどうにも生きつづけがたく考える時、その大きい樹木の根方で首を吊り、宇宙のなかに原子として還元される、そのための樹木でもある。」のフレーズを思い出して、この上の一首の〈庭〉の景色として思い浮かべても許される。しづかな夜の読み手の部屋。この〈木〉のある〈庭〉こそが、河野裕子先生の内なる豊饒なる創作の淵源の風景であったのかもしれない、と唐突に気付いてしまったひとりの読み手は、眸(め)で聴いて耳で視(み)ることのできる内なる生命樹・宇宙樹の佇まいの永遠性に心を掴まれ、そして深くしづかに揺さぶられる。いつしか知らず知らずのうちに心は感応して涙に濡れてしまうのだ。
今朝は、ミーシャ・マイスキー氏の奏でるブルッフ『コル・ニドライ』をしみじみ傾聴。白眉は、ハープがしづかに鳴って木管がやわらかく神秘的に和音を奏でる第二部冒頭の、神仏が顕現される箇所。この部分がいちばん好きだ。
https://youtu.be/XGzOozXt4ek
緊急地震速報はいつでも心臓に悪い響き。コロナ禍のこんな世情ながら、千葉辺りが震源の緊急地震速報がよく鳴るようになって不気味さ増すこの頃。誰かが不用意に鯰石を動かしてしまったか、あちらの神仏がいよいよ本気で世直しのためのガラガラポンを考えられ始めたか、理由はわからねども、とにかく気を付けねば。
地震で目が覚めてしまったため、Twitter記事に目を通していると、何人かのお医者さまたちのツイートが目に入った。
自分が原因で感染してしまった人が亡くなるのでは、という恐怖を国民に植え付けて経済活動を止めることが政府の目的です。感染対策をしていない人を責めてはいけません。そちらの人のほうが、メディアに惑わされず真実を見極めている人である可能性が高いです。コロナで騒ぐと多くの人が死にます。
メディアやネットが本当に目指しているものは何かを考えると良いです。単純に死者だけで比較すれば日本では毎年インフルエンザで1万人の人が亡くなりますが不思議なくらいその事は報道されません。毎日50人がインフルエンザで亡くなっていますがコロナは感染者が1人出ただけでも大騒ぎです。
お仕事本当にお疲れ様です。私は小児科医ですが、貴方の言う通りです。PCRは感染症を診断するのではなくウイルスの痕跡を見つけるもので、胸部CTの陰影も咳がある人に行えば高率に見つかります。今回の騒動は普通の風邪をPCRとCT、それにウイルス感染の治療経験のない専門家が大事にしてしまったのです。
すべてのことの裏には大きな企みがあるやもしれぬ。企みは大がかりであればあるほど、それが企みに見えない特性があるから、とにかく冷静沈着賢明な注意が肝要。新薬やワクチンの認可承認の話も然り。上から言われるがままでなく、ひとりひとりの情報見極めの眼が大事、と思う。
高校時代、学校図書館の書棚の右隅に、翻訳家田口俊樹先生のサイン入りのハヤカワ・ポケット・ミステリーのきれいな背表紙が並んでいる一画があった。入学した当初、まさか、英語教科担当の田口俊気先生が翻訳家田口俊樹先生とはついぞ思わず、へええ、と思って、一、二冊手に取ってパラパラ読みした記憶がある。時々職員室へ勉強の質問に行くと、田口先生は剥ぎ取り式のA4版の原稿用紙束を机に開いて鉛筆で文章の推敲をされていることがあった。英文を和訳するときは、貧しい日本語で直訳するのではなくて、正しい美しい日本語として語彙を尽くしてニュアンスまで汲み取って読み応えあるように豊かに深く訳すことが大事ということを先生から教えて頂いた。いまでも先生の翻訳書を手に取るとき、あの頃の先生の教えが蘇ってくる心地がする。
鳥の啼(な)く昏(くら)きを森と呼ぶならば森をいくつも孕(はら)む教室 梶原さい子
一首の導入部「鳥が啼いている昏いところを仮に森と呼ぶならば」という上句が非常に魅力的です。最初一読して思わず、ダンテの『神曲』の冒頭部分の語り口を想起しました。ここで詠われている「森」は、勿論実景としての森ではなくて、河野裕子先生の歌集『桜森』の一首「わが胸をのぞかば胸のくらがりに桜森見ゆ吹雪きゐる見ゆ 河野裕子」にあるような「森」のこと、つまり、教室にいる作中主体と女生徒さんたち(*梶原さんは女子高校の先生をなさっているそうです)が持っている母胎としての女性が抱えねばならない、未生のいのちを孕む昏さのことではないかと思いました。ちょうど、作家中沢けいさんがかつて小説『海を感じるとき』の中で描きとったような、女性が抱えているという「海の昏さ」と、この「森の昏さ」は似ているかもしれません。
がたがたと鳴りとよまねば春は来ず小熊呉服店看板の赤 梶原さい子
この一首については、四句「小熊呉服店」の字面、音がじつに効果的です。結句のおしまいに「赤」というイメージを持ってこられているところも魅力的です。〈鳴り響(とよ)む〉は鳴り響くの意味の古語。看板の赤がしずかに佇む小熊呉服店が、冬眠から覚めた森のなかの小熊のようにがたがたと賑やかに開店準備を始めるようにならなければまだ春は来ないのだなと、作中主体が看板を眺めているところを掬(すく)われているのかもしれません。
白紙(しらかみ)に描かれし白き鳥ほどにのみ自由なり花曇りの日は 梶原さい子
かの歌人若山牧水に「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(歌集『海の声』)」という名歌がありますが、それを踏まえた歌ではなかろうかと思います。「ほどにのみ自由なり」という措辞の細やかさにもすごく惹かれます。
喫水の線くきやかにひたひたと春のひとひが満ちてゆきたり 梶原さい子
非常に音楽的な作品と思った一首です。「くきやかにひたひたと」や「春のひとひが満ちてゆきたり」という措辞が、一首の中で室内楽的に響いていると思います。
夕暮れの朱(あけ)を呑み込むひとすぢの泥の川ありまた酸匂ふ 梶原さい子
「夕暮れの朱(あけ)を呑み込むひとすぢの泥の川あり」というと、なんとなく作家宮本輝氏の、太宰治賞を受賞した小説『泥の河』のことを思い出します。淡々としたリズムの中で「夕暮れの朱を呑み込む泥の川」が時間経過とともに視覚的に描かれています。次いで「また酸匂ふ」とあります。嗅覚が不快な臭気を感ずるときの「臭ふ」ではなくて「匂ふ」なので、温泉地の川沿い辺りなのかもしれません。このように視覚から嗅覚へスムーズに展開されていることで、一首の世界が豊かに膨らんでいくようです。