カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

温泉旅館くらさか

2010-02-10 13:01:56 | Weblog
 町医者のような堅気な商売をやっている身からすると、探偵稼業はいたって気楽でヤクザな職業に見える。なおさら私の患者さん、秋原康三を見ていると、探偵稼業は気楽でいいなと思えてくるときがある。そんな彼がどういうわけからかうちを気に入ってくれている。それが、私の病院、いや私にとって、有り難いことなのか厄介なことなのか、朝の診察室の鉢植えへの水遣りのときなどにふと考えてしまうことがある。

 秋原康三は困った患者である。なぜ、医者である私が、しかも、探偵という看板をついぞ掲げたことのない私が、毎度毎度彼に事件現場まで呼び出されて、彼を担架で私の病院まで搬送し、診察・治療・入院の処置にてんてこ舞いさせられなければならないのか。私は怖くて秋原本人に確認したことはないが、どうやら秋原は私の病院に入院することを別荘で静養することと同義と心得ているらしい。救急隊員も救急隊員だ。事件現場で秋原の姿を見つけると、すぐに私の病院に一報を入れてくる。電話が鳴って、「先生、いつもの緊急出動要請です」と看護師が私を呼びに来るとき、私はパブロフの犬、いや、アキハラの犬よろしく、野外外科道具一式を突っ込んである往診鞄に手を伸ばす。
「はい、いま行くから。救急車のキーを用意しておいて。それからね、矢嶋先生に連絡しておいて。診察室が無人になったら患者さんが困るからね。」
 矢嶋先生というのは、私の大学の後輩にあたる男だ。父親も医者なら兄貴も医者という医者一家の次男坊で、本人も家の定めで医師免状は取ったものの、小説家志望とやらで、私の家の近所にある自分の家の医院の手伝いをちょこちょこしてはいるらしいが、そろそろ免状に埃が積もってきているという噂のある男だ。
 後輩思いの優しい先輩である私は、時々私の病院を手伝ってもらうことで彼の医術の腕が衰えないように、と配慮しているわけだ。
 奥で電話を掛けている看護師が、「はーい。矢嶋先生、オッケーでーす。いますぐ来るそうでーす」と叫ぶ。「よっしゃ」と私は車庫に走る。

 ハンドルを握りながら、助手席の看護師がカーナビに秋原のいる現場を打ち込んでくれるのをチロチロと見る。どうやらまわりに人家のなさそうなところだ。
 しばらく走っていくと周囲に人家がなくなった。見えるのは森と赤く焼けた夕焼け空ばかりだ。やがてトンネルが見えてきた。つぶら野トンネル。この近辺では幽霊トンネルの別名がある。霊感のない私にはちっとも関係のないことだけれども、背筋がなんとなくぞわぞわしてくる。隣の看護師を横目で見ると、彼女は福山雅治なんぞを口ずさんでいる。前後左右、私の車以外には後続車も対向車もまったく来る様子がない。トンネルに入ると、照明がやけに薄暗いようなのは私の気のせいだろうか。やっとこさトンネルを抜けると、そこは「地蔵谷温泉入口」。半分朽ちかけた看板と客寄せの案山子がのっそりと道路わきに立っている。
 「先生、今回の現場の『温泉旅館くらさか』はもう少し先を左ですね」カーナビを覗いていた看護師が鼻歌をやめて報告する。道なりにすこし進むとやや薄汚れた木製の看板『くらさかはこちら』が見えた。看板の矢印に従い、左側の森の中に車を進めていく。(つづく)
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