雑誌『ユリイカ』(青土社)、2008年5月号の特集は「ラフマニノフ」です。。。
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A5%E9%A5%D5%A5%DE%A5%CB%A5%CE%A5%D5
***
アメリカ合衆国ニューヨーク州のケンシコ墓地にあるラフマニノフ墓所
http://www.kensico.org/historic-scenic-tour-27.asp
***
ラフマニノフが大好きなえみさんのホームページより。
[ラフマニノフのお墓を訪ねて]
http://www.geocities.jp/emirya/
所在地:
The Kensico Cemetery
273 Lakeview Avenue, P.O. Box 7
Valhalla, New York 10595
電話番号:
(914)949-0347
(718)655-4800
e-mail:kensico2@bestweb.net
***
[ラフマニノフの里、イワノフカ探訪記]より
http://tambov.seesaa.net/
【ノヴォデヴィッチ修道院】
(前略)
ノヴォデヴィッチ修道院を訪れると、まず公園がある。公園内にある池は、チャイコフスキーが『白鳥の湖』を書いた場所と言われている。
(中略)
今回の旅のテーマはロシアの作曲家セルゲイ・ラフマニノフ。ロシア革命を逃れて欧州へ、さらには米国へと渡り、その後ロシアに戻ることはなかった。しかし、米国で年齢を重ねて、「もし自分が死んでしまったら、ノヴォデヴィッチ修道院の構内に埋葬されたい」と言っていたそうだ。
修道院の中には、大きな建物を囲むように通路が作られている。その通路を時計回りにゆっくりと散策した。
(後略)
***
[大村 英堯さん執筆記事:『ラフマニノフ・メモリーズ~悲しみの収穫』について思うこと]より
http://mic.itconsult.co.jp/lw/lw311-oomura.htm
(前略)
10月18日にNHK・BS2で放送されたドキュメンタリー番組 「ラフマニノフ・メモリーズ~悲しみの収穫~」について私が思いついたことを書きとめます。
(中略)
歴史の流れは、ラフマニノフの「一時の避難」を「生涯にわたる国外放浪」に変えてしまったのです。彼の場合は公式にビザを得ての出国だったので、家族を含めて生命の安全は一応確保されていましたが、故国を捨てた国外脱出者とみなされ、イワーノフカの別荘は没収、屋敷にあったピアノも作曲中の楽譜もすべて失うという悲運にあっています。とくにスターリンが政権を掌握した後は、亡命者の祖国への帰国は絶望的になり、ラフマニノフの作品はソ連では反動的とみなされ、演奏は禁止されました。
この辺りの事情を、ドキュメンタリーは次のように伝えています。背景に流される彼の作品・・・交響詩「死の島」(1909年)、歌曲集「夢」(1916年)、交響曲第1番(1897年)、前奏曲ロ短調作品32第10・・・・とともに、彼の悲痛な叫びが胸を打ちます。
「・・・・戦争が始まろうとしていた。私はそう感じた。誰もがそう感じていた。曲のアイデアが浮かんだ。渡し舟の船頭が人を“死の島”へ送り届けるのだ。」《0:37:09-》
「・・・・いまや戦争が始まり親しんできたものが何もかも破壊された。・・・・」《0:40:26-》
「・・・・戦争が革命をもたらした。イワーノフカが虐殺され焼け払われたと聞いて私たちの心は砕けた。私と家族が乗った列車は国境までしか行かず、ソリで冬の旅を続けた。漸くストックホルムについたときは凍え、住む家もなく、孤独だった。疲れきって泣くこともできなかった。クリスマス・イヴだった。」《0:42:04-》
「・・・何をしようと私たちが一番欲しいものは返ってこなかった。 祖国。自分の音楽的ルーツを破壊された亡命者には、もはや自己表現の欲求は残っていない。」《1:01:33-》
「スターリンとその一味は私たちが愛したロシアを破壊した。1931年、ニューヨーク・タイムズに手紙をだした。その中で私はこう述べた。
~いかなる時代にも国にも、ボルシェヴィキが犯したほどの多くの残虐行為や大量殺人や犯罪行為に責任をもつ政府が存在したためしがない。共産主義の圧制者たちは13年間にわたりロシア人民を言語に絶する拷問にかけてきた。彼らは殺人集団以外の何者でもない。~
いまや私がその昔通ったモスクワの音楽院や、現在レニングラードと呼ばれているサンクトペテルブルグの音楽院では私の作品は禁じられている。 これでロシアへの道は永遠に閉ざされてしまった。」《1:07:40-》
「芸術は自由でなければ意味がない。喜びに溢れたものは自由から生まれる。ロシアには自由な芸術家はいない。いるのは(自由を表現する)権利のない犠牲者だけだ。」《1:09:00-》
(後略)