カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

歌人長塚節の通夜の家

2008-05-12 14:09:03 | Weblog
 私の家から音羽の護国寺の方に抜けるとき、小布施坂をあがると便利です。小布施坂は、明治期の豪商小布施新三郎の広大な屋敷が隣接してあったことから付けられた名称だそうです。歌人長塚節が亡くなったとき、その通夜をこちらの「小布施新三郎」の屋敷で行ったそうです。つい最近まで知りませんでした。今でも小布施坂の周辺には「小布施」の表札の家があり、もしかしたらご親類や子孫の方なのかもしれません。小布施新三郎の暮らした屋敷は、今では日本女子大学付属豊明小学校敷地になり、当時の屋敷の様子を偲ばせるものは残念ながらありません。

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 (前略)

 中央の、やや左手に見えている大きな西洋館が石本邸。そのさらに左手には、小布施邸がかすかに見えている。いまでも目白台には、小布施坂という名称が残っているが、この屋敷に住んだ小布施新三郎の名前にちなんだものだ。のちに小石川区となったこの屋敷で、歌人で小説家だった長塚節(たかし)の通夜が行われた。

 (後略)

以上、《下落合はミステリーサークルだらけ。》より
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-03-21

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《長塚節の部屋》より
http://www013.upp.so-net.ne.jp/karotousen/takasi.html

(長塚節年譜)
大正4年ー37歳ー1月「鍼の如く(五)」発表。★4日南隔離病棟第六號室に入院、8日「苦しきこと限りなし。然し咳は出でず。便所に立つに足のふらふらに驚く」として日記絶える。9日弟順次郎来る。2月8日午前8時昏睡状態になり父源次郎・順次郎・久保博士・主治醫曾田共助・高崎學士(中村憲吉友人)等に見守られて午前10時死去。9日市内崇福寺にて焼香荼毘、戒名「顯節院秀嶽義文居士」。11日弟の養家先である小石川小布施邸にて在京知友、アララギ関係者にて通夜。3月14日天台宗無量院住職主導にて郷里国生での葬儀、共同墓地へ埋葬。百穗・秀眞等会葬。6月「長塚節追悼號」として『アララギ』刊行。

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《小布施新三郎碑のこと》
http://www.minoriyaki.com/tanken/page.php?_id=163

長野県須坂市高梨公会堂前にその碑は建っています。

「小布施新三郎」は弘化3年(1846)に須坂市高梨町に生まれました。十歳にして江戸に出て丁稚奉公<デッチボウコウ>を勤めます。その後、横浜上海銀行の蔵番を勤め上げ、その忠実な勤務さから「古金銀売買主任という大抜擢をうけるのです。
横浜上海銀行で古金銀売買のノウハウを学んだ新三郎は、東京の日本橋に「古金銀売買」を開業し、成功を修め、「東京株式取引所仲介売人」にもなるのです。
その後、小布施新三郎は全国高額納税議員を歴任するなど社会公共のために尽くしたのです。
現在も東京都文京区の旧小布施邸付近には「小布施坂」という名の付いた坂が残されています。

☆文京区教育センター「小布施坂」紹介ページ
http://www.bunkyo-tky.ed.jp/kiki/saka/107kobus.htm

また、郷土須坂への気持ちを厚く、郷里発展のために多大な財産を寄せ続けたのですよ。
大正13年に高梨区民は、郷里への功績を称え「小布施新三郎碑」を建立したのです。
(後略)
コメント
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