『アニマル・キングダム』をTOHOシネマズシャンテで見ました。
(1)予告編で見て、何かとても凄まじい映画だなと思っていたのですが、実際にも想像以上の凄さにあっけにとられてしまいました。タランティーノ監督が、一昨年(2010年)の映画の第3位に上げているの頷けます(尤も、第1位が『トイ・ストーリー3』なのはまだしも、第4位が『ミラノ、愛に生きる』ですから、はたしてどんな基準で選んでいることやら:とはいえ、その影響力はものすごく、だからこの映画を見たという人がかなりいるようです)(注1)。
舞台は、メルボルン。主人公は17歳のジョシュア。母親が、麻薬の過剰摂取で死んでしまったため、祖母に引き取られます。
ところが、祖母の家(コディ家)というのがとんでもない悪の巣窟。3人の息子(ジョシュアにとっては伯父さん)は、銀行強盗や麻薬取引で得た収入で暮らしている有様。
彼らに対しては、警察も手段を選びません。映画が始まってそれほど経ってはいないにもかかわらず、ちょっとしたことを口実に、長男の友人(注2)を射殺してしまいます。
すると、長男たちも対抗して報復行為に及び、2人の若い警察官を殺してしまい、警察とコディ家は全面戦争に突入します。
その際に、警察が手掛かりにしようとしたのが、警察官殺しに何らか関与しているに違いないと踏んだジョシュア(注3)。コディ家の2人の息子の裁判において、証言台に彼を立たせようと警察側はいろいろ画策しますが(注4)、それがわかると、コディ家の方では、逆にジョシュアを消してしまおうと企みます(注5)。果たして、その結果は、……。
こうした展開に、ジョシュアの恋人・ニコールも絡んできます。ジョシュアは、彼女と高校で知り合い、次第に深い仲になっていきますが、コディ家の方では、ジョシュアに彼女と別れるように迫り、また彼女の行動をも見張るようになり、そして……(注6)。
とはいっても、いくら一家の結束が強かろうが、やはり組織には勝てず、コディ一家は一人減り二人減りとなっていきます。そうした流れを断ち切ろうと、コディ家の人間が激しく動き回り、そんな中で若いジョシュアはうまく生き抜いていけるのだろうか、と見る者を酷くハラハラドキドキさせて、さすがの出来栄えと言えるのではないでしょうか。
それにしても、コディ家の面々ははたしてアニマルなのでしょうか?むしろアニマルたちの方が、彼らよりもずっと冷静に理性的に行動するのではないでしょうか(注7)?
主役のジョシュアに扮するジェームズ・フレッシュヴィルは、実際にも撮影時に17歳で、かつまた映画初出演だったにもかかわらず、母親とか親族の死にも冷静に対処しつつも恋人を強く思うといった大層難しい役柄を、これ以外にはあり得ないというほどうまく演じています。
本作には、『ハート・ロッカー』で爆死してしまうトンプソン軍曹約を演じたガイ・ピアースが、警察のレッキー刑事に扮し、果断な決断をする一方で、ジョシュアにベトナム料理の作り方を教えるなどして足を洗わせようとする面をも持つ男を巧みに演じています。
(2)コディ家の息子たちは、実際は小心者がいたりして、決して極め付きの悪党ばかりとはいえないものの、彼らを背後で操っているのが、実は祖母のジャニーン(ジャッキー・ウィーヴァー)なのです。
最後の方では、警察に捕まった2人の息子を取り戻すべく、弁護士ともどもジョシュアに圧力をかけたりします(注8)。
さらにまた、息子が釈放された後、スーパーで遭遇したレッキー刑事に対し、嵩にかかったことを言うのですがと、レッキーの方も、「いつか泣きを見るぞ」と応じます(注9)。
こんなところを見ると、こちらは決して犯罪物ではありませんが、『ザ・ファイター』に登場する母親が思い浮かびます。なにしろ、ボクサーの主人公(マーク・ウォールバーグ)とそのトレーニングを取り仕切る兄(クリスチャン・ベール)の背後には、主人公のマネジメントを担当する母親(メリッサ・レオ)がしっかりと立っているのですから(そればかりか、男たちの働きを当てにしている7人の異父姉妹までいるのです!)。
あるいは、どこまでも自分の子供を守ろうとする『母なる証明』の母親(キム・ヘッジャ)でしょうし、『フローズン・リバー』の母親レイ(『ザ・ファイター』のメリッサ・レオ!)でしょうか、さらには、『ウィンターズ・ボーン』でジェニファー・ローレンスが扮する17歳の長女リーでしょうか?
ここでさらに飛躍しますと、今、府中市美術館で開催されている「石子順造的世界展」(~2月26日)が取り上げている評論家・石子順造(1928年~1977年)は、例えば、次のように述べています。
「男性は、父性の原理である知性と論理の世界(すなわち近代の文明)から、わずかに逃れようとし、非合理で永遠の母性につこうとする。そこに文化の必然がある。それは、ナルチシズムに媒介されることによって、いっそう増福される。もはや回復不可能な、<おふくろ>=<故郷>が、文化として求められる」。
この文章は30数年前の論考のもので(注10)、かつまたそうした点に石子順造は日本文化の特質を求めてもいますが、昨今の映画を見ると、欧米においてもそうした傾向がうかがえるのでは、とも思えてきます(注11)。
(3)小梶勝男氏は、「異様に感じるのは、非日常であるはずの暴力が、日常として描かれているからだろう。直接的な暴力描写がふんだんにあるわけではない。一家の暮らしは、犯罪以外は普通の人々と変わらない。だが、家族の普通のやりとりの中に暴力の臭いが漂い、狂気が潜む。理不尽な暴力と日常は、どこまでも表裏一体だ。しかも、描写に映画的な美化がなく、生々しい。それがスリリングで実に面白い」と述べています。
(注1)クマネズミは、劇場用パンフレットに掲載されているのを見て初めて知りました。ちなみに、第2位は、『ソーシャル・ネットワーク』。
(注2)長男の友人ながら、これまで頭脳の面で一家の犯罪に加わっていたところ、そろそろ強盗といったものから足を洗って株式投資の方にウェイトを置くと言っていたのですが。
(注3)警察官殺しに使われた車は、長男に命じられてジョシュアが盗んだのです。
(注4)証人保護プログラムによって、証人であるジョシュアを、秘密のアジトに護衛付きで匿います。
(注5)祖母のジャニーンは、警察の麻薬班の一員ながら一家に通じている警官を脅して、アジトに隠れているジョシュアを殺しに行かせます。ジョシュアを守らなくてはいけない護衛らは、警察の同僚が防弾チョッキ姿で銃を構えながらアジトに近づいてくるのを見て、とても仲間を撃つことはできないとお手上げ状態になってしまいます。この有様を見たジョシュアは、なんとか裏口から逃れ出ようとしますが、……。
(注6)結局、ニコールは、警察に告げ口をしたと疑われて、長男によって覚醒剤を注射された後、殺されてしまします。これを知って、ジョシュアは、……。
(注7)タイトルからは、ジョージ・オーウェルの『Animal Farm(動物農場)』(1945年)を思い出させますが、決してそれが持つ社会諷刺的な要素が本作に見られるわけではありません。
(注8)ジョシュアのきちんとした証言がありさえすれば、警察に捕らえられていたコディ家の長男と3男(それまでに次男は、警察によって射殺されています)を有罪にできたはずながら、おそらくは弁護士の言う通りにしたのでしょう、2人は無罪となって釈放されます。
(注9)生き残った3男はもう使い物にならない感じですから、これから先は、ジャニーンは、孫のジョシュアを盛りたててコディ家の再興を図っていこうとするのでしょうか?
(注10)1975年の「男と文化―まず男装の麗人と瞼の母を犯せ」〔『マンガ/キッチュ 石子順造サブカルチャー論集成』(小学館、2011年12月)に収録(P.340)〕。
(注11)極めて僅かな例から大風呂敷を広げすぎて恐縮ながら、もしかしたら、日本が通り過ぎたところを欧米が今になって通過しつつあるようにも見え、逆に、『ステキな金縛り』の面白さとか、弁護士の大量生産といった状況を目の当たりにすると、日本は、欧米が通り過ぎたところを通過中のようにも思えます(これは明治の昔からソウだったのでしょうが!)。
★★★☆☆
象のロケット:アニマル・キングダム
(1)予告編で見て、何かとても凄まじい映画だなと思っていたのですが、実際にも想像以上の凄さにあっけにとられてしまいました。タランティーノ監督が、一昨年(2010年)の映画の第3位に上げているの頷けます(尤も、第1位が『トイ・ストーリー3』なのはまだしも、第4位が『ミラノ、愛に生きる』ですから、はたしてどんな基準で選んでいることやら:とはいえ、その影響力はものすごく、だからこの映画を見たという人がかなりいるようです)(注1)。
舞台は、メルボルン。主人公は17歳のジョシュア。母親が、麻薬の過剰摂取で死んでしまったため、祖母に引き取られます。
ところが、祖母の家(コディ家)というのがとんでもない悪の巣窟。3人の息子(ジョシュアにとっては伯父さん)は、銀行強盗や麻薬取引で得た収入で暮らしている有様。
彼らに対しては、警察も手段を選びません。映画が始まってそれほど経ってはいないにもかかわらず、ちょっとしたことを口実に、長男の友人(注2)を射殺してしまいます。
すると、長男たちも対抗して報復行為に及び、2人の若い警察官を殺してしまい、警察とコディ家は全面戦争に突入します。
その際に、警察が手掛かりにしようとしたのが、警察官殺しに何らか関与しているに違いないと踏んだジョシュア(注3)。コディ家の2人の息子の裁判において、証言台に彼を立たせようと警察側はいろいろ画策しますが(注4)、それがわかると、コディ家の方では、逆にジョシュアを消してしまおうと企みます(注5)。果たして、その結果は、……。
こうした展開に、ジョシュアの恋人・ニコールも絡んできます。ジョシュアは、彼女と高校で知り合い、次第に深い仲になっていきますが、コディ家の方では、ジョシュアに彼女と別れるように迫り、また彼女の行動をも見張るようになり、そして……(注6)。
とはいっても、いくら一家の結束が強かろうが、やはり組織には勝てず、コディ一家は一人減り二人減りとなっていきます。そうした流れを断ち切ろうと、コディ家の人間が激しく動き回り、そんな中で若いジョシュアはうまく生き抜いていけるのだろうか、と見る者を酷くハラハラドキドキさせて、さすがの出来栄えと言えるのではないでしょうか。
それにしても、コディ家の面々ははたしてアニマルなのでしょうか?むしろアニマルたちの方が、彼らよりもずっと冷静に理性的に行動するのではないでしょうか(注7)?
主役のジョシュアに扮するジェームズ・フレッシュヴィルは、実際にも撮影時に17歳で、かつまた映画初出演だったにもかかわらず、母親とか親族の死にも冷静に対処しつつも恋人を強く思うといった大層難しい役柄を、これ以外にはあり得ないというほどうまく演じています。
本作には、『ハート・ロッカー』で爆死してしまうトンプソン軍曹約を演じたガイ・ピアースが、警察のレッキー刑事に扮し、果断な決断をする一方で、ジョシュアにベトナム料理の作り方を教えるなどして足を洗わせようとする面をも持つ男を巧みに演じています。
(2)コディ家の息子たちは、実際は小心者がいたりして、決して極め付きの悪党ばかりとはいえないものの、彼らを背後で操っているのが、実は祖母のジャニーン(ジャッキー・ウィーヴァー)なのです。
最後の方では、警察に捕まった2人の息子を取り戻すべく、弁護士ともどもジョシュアに圧力をかけたりします(注8)。
さらにまた、息子が釈放された後、スーパーで遭遇したレッキー刑事に対し、嵩にかかったことを言うのですがと、レッキーの方も、「いつか泣きを見るぞ」と応じます(注9)。
こんなところを見ると、こちらは決して犯罪物ではありませんが、『ザ・ファイター』に登場する母親が思い浮かびます。なにしろ、ボクサーの主人公(マーク・ウォールバーグ)とそのトレーニングを取り仕切る兄(クリスチャン・ベール)の背後には、主人公のマネジメントを担当する母親(メリッサ・レオ)がしっかりと立っているのですから(そればかりか、男たちの働きを当てにしている7人の異父姉妹までいるのです!)。
あるいは、どこまでも自分の子供を守ろうとする『母なる証明』の母親(キム・ヘッジャ)でしょうし、『フローズン・リバー』の母親レイ(『ザ・ファイター』のメリッサ・レオ!)でしょうか、さらには、『ウィンターズ・ボーン』でジェニファー・ローレンスが扮する17歳の長女リーでしょうか?
ここでさらに飛躍しますと、今、府中市美術館で開催されている「石子順造的世界展」(~2月26日)が取り上げている評論家・石子順造(1928年~1977年)は、例えば、次のように述べています。
「男性は、父性の原理である知性と論理の世界(すなわち近代の文明)から、わずかに逃れようとし、非合理で永遠の母性につこうとする。そこに文化の必然がある。それは、ナルチシズムに媒介されることによって、いっそう増福される。もはや回復不可能な、<おふくろ>=<故郷>が、文化として求められる」。
この文章は30数年前の論考のもので(注10)、かつまたそうした点に石子順造は日本文化の特質を求めてもいますが、昨今の映画を見ると、欧米においてもそうした傾向がうかがえるのでは、とも思えてきます(注11)。
(3)小梶勝男氏は、「異様に感じるのは、非日常であるはずの暴力が、日常として描かれているからだろう。直接的な暴力描写がふんだんにあるわけではない。一家の暮らしは、犯罪以外は普通の人々と変わらない。だが、家族の普通のやりとりの中に暴力の臭いが漂い、狂気が潜む。理不尽な暴力と日常は、どこまでも表裏一体だ。しかも、描写に映画的な美化がなく、生々しい。それがスリリングで実に面白い」と述べています。
(注1)クマネズミは、劇場用パンフレットに掲載されているのを見て初めて知りました。ちなみに、第2位は、『ソーシャル・ネットワーク』。
(注2)長男の友人ながら、これまで頭脳の面で一家の犯罪に加わっていたところ、そろそろ強盗といったものから足を洗って株式投資の方にウェイトを置くと言っていたのですが。
(注3)警察官殺しに使われた車は、長男に命じられてジョシュアが盗んだのです。
(注4)証人保護プログラムによって、証人であるジョシュアを、秘密のアジトに護衛付きで匿います。
(注5)祖母のジャニーンは、警察の麻薬班の一員ながら一家に通じている警官を脅して、アジトに隠れているジョシュアを殺しに行かせます。ジョシュアを守らなくてはいけない護衛らは、警察の同僚が防弾チョッキ姿で銃を構えながらアジトに近づいてくるのを見て、とても仲間を撃つことはできないとお手上げ状態になってしまいます。この有様を見たジョシュアは、なんとか裏口から逃れ出ようとしますが、……。
(注6)結局、ニコールは、警察に告げ口をしたと疑われて、長男によって覚醒剤を注射された後、殺されてしまします。これを知って、ジョシュアは、……。
(注7)タイトルからは、ジョージ・オーウェルの『Animal Farm(動物農場)』(1945年)を思い出させますが、決してそれが持つ社会諷刺的な要素が本作に見られるわけではありません。
(注8)ジョシュアのきちんとした証言がありさえすれば、警察に捕らえられていたコディ家の長男と3男(それまでに次男は、警察によって射殺されています)を有罪にできたはずながら、おそらくは弁護士の言う通りにしたのでしょう、2人は無罪となって釈放されます。
(注9)生き残った3男はもう使い物にならない感じですから、これから先は、ジャニーンは、孫のジョシュアを盛りたててコディ家の再興を図っていこうとするのでしょうか?
(注10)1975年の「男と文化―まず男装の麗人と瞼の母を犯せ」〔『マンガ/キッチュ 石子順造サブカルチャー論集成』(小学館、2011年12月)に収録(P.340)〕。
(注11)極めて僅かな例から大風呂敷を広げすぎて恐縮ながら、もしかしたら、日本が通り過ぎたところを欧米が今になって通過しつつあるようにも見え、逆に、『ステキな金縛り』の面白さとか、弁護士の大量生産といった状況を目の当たりにすると、日本は、欧米が通り過ぎたところを通過中のようにも思えます(これは明治の昔からソウだったのでしょうが!)。
★★★☆☆
象のロケット:アニマル・キングダム