映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

東京公園

2011年09月18日 | 邦画(11年)
 『東京公園』を吉祥寺のバウスシアターで見ました。

(1) この映画は、『EUREKA』(2000年)以来できるだけその作品を見ようとしてきた青山真治監督が制作したものですから、公開されたとき是非見てみようと思ったものの、上映された映画館が少ない上に、どうしても時間の都合がつかず、とうとう見逃してしまったところ、期間限定でレイトショーながら近くで上映されるとわかり、喜び勇んで出かけてきたところです。

 物語は、歯科医の初島高橋洋)の診察風景から始まります。
 初島はそれを途中で打ち切って、医院を出て公園に向かいますが、その公園では、大学生の光司三浦春馬)が、乳母車をひきながら散歩している女性(井川遥)の姿を、隠れて撮影しています。



 初島は光司に向って、盗み撮りを咎め立てしますが、それは狙いがあってのこと。
 別の日に光司を呼び出して、自分の指示するようにその女性を追いかけて写真に収めてもらいたいと頼みます。暇であり、報酬ももらえるとの話なので、光司もその要請を受け入れます。

 光司は、初島からの連絡に従ってその女性を尾行しますが、どうも彼が幼い時分(小学2年生の時)に亡くなった母親によく似ていることに気が付き出し(なにしろ、光司の部屋にある写真の母親も井川遥なのです!)、単なる被写体とは思えなくなってきます。

 これを傍で見ていてイライラし出したのが、光司の姉の美咲小西真由美)。光司に向かって、被写体の人妻をどう思うの、大事な弟が自分と同世代の人妻に翻弄されているのを見るに見兼ねてね、などと言います。でも、光司の方は、そういう美咲の心情など何も気が付きません。



 そこで、乗り出してきたのが、光司の親友ながら事故で死んでしまったヒロ染谷将太)の彼女だった富永榮倉奈々)。血のつながらない姉の美咲が光司のことを心底愛していながらも、それはダメなのだと自分に言い聞かせようとしているのだと、光司に縷々説明するのです。
 それに対して、光司の方は、美咲は9歳も年上の姉なんだよ、などとぼけたことを言うので、富永の方も、あんたは美咲の目をまっすぐに見たことがあるのか、と言い募ってしまいます。




 でも、何かにつけて美咲のことを言い出す富永の方は、どうも光司を憎からず思っているようです。ある時は、おでんを持って、光司が住んでいる家にやってきます。炬燵に入って食べながら2人で、映画の話などをしたりします。
 ただ、その家には死んだはずのヒロも住んでいて、富永には見えないものの、光司にはありありと見えるばかりか会話までしているのです。

 途中、母が倒れたという知らせを受けて、美咲と光司は、大島に一緒に行くところ、2人の関係は目立った変化は起こりません(注1)。
 また、一度、光司は美咲の住む家を訪れ、その料理する姿などを写真に収めたりします。
 その際に、2人はキスにまで至るものの、「姉さんが姉さんでよかった」、「私も光司が弟でよかった」と言って別れています。

 その後、美咲の方は、父親に電話して、少しでも母さんと一緒に過ごしたいから暫くそっちで暮らしたい、と告げます。
 光司の方も、初島歯科医師のアルバイトを止めることにします。
 その光司のもとに、富永が「部屋が空いているはずだよね」などと言いながら荷物を持ってやってきて、……。

 ごく普通の大学生が、ごく普通の人々に囲まれて、映画は大した事件も起こらず淡々と展開していきながらも、そんな中に、死んだ人間の姿がさりげなく嵌め込まれたり、ゾンビ映画までもが地続きになっていたりして(注2)、不思議な雰囲気を醸し出していて、実に面白い作品だなと思いました(注3)。

 俳優の中では、とらえどころのない光司の役を巧みにこなしている三浦春馬を見直しました。



 また彼以上に重要な存在と思える冨永に扮している榮倉奈々も、これまでクマネズミはあまり見かけなかったものの、若いながら得難い女優だなと思いました。

(2)映画の中で、東京は、真中に公園があり、またそれを取り巻くように公園が置かれている、と誰かが述べる場面があります。
 真ん中の公園とは、皇居のことでしょうし、映画の中で井川遥が乳母車をひいて歩く公園(代々木公園、錦糸町駅に近い猿江恩賜公園、船の科学館のある潮風公園、東京北部の光が丘公園など)は、皇居を大きく取り巻くように、東京の周縁部に配置されているといえるでしょう(注4)。

 こうした点から見ると、皇居を中心とする東京は、その周縁部に配置されている公園で取り囲まれていて、実に暖かな関係性の下にあると考えられます。
 映画でも、主人公の光司自身にギスギスしたところがなく、彼を中心にして取り巻く人間関係にも、全体として暖か味が感じられるところです。

 ただ、この皇居については、フランスの批評家ロラン・バルトが『表徴の帝国』(宗左近訳、ちくま学芸文庫)において、次のようにも述べています(P.54~.55)。
 「わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、≪いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である≫という逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、……、その中心そのものは、なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく、都市の一切の動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するために、そこにあるのである。このようにして、空虚な主体にそって、〔非現実的で〕創造的な世界が迂回してはまた方向を変えながら、循環しつつ広がっているのである」。

 周囲の人間が自分のことをどう見ているかについて実に鈍い感受性しか持ち合わせていない光司は、もしかしたらここでいう「空虚な中心」なのかもしれません。
 その光司の親友だったヒロは、事故で死んでいるのですが、その姿を光司だけは見ることができるのです。これも、「空虚な主体」だからこそ可能なのでは、と言えないでしょうか。
 さらには、この映画で、ゾンビ映画が映画の中の映画として映し出されることにも関係してくるのかもしれません。
 光司に好意を持っている冨永がゾンビ映画マニアでもあり(「私にとってホラー映画こそが宗教映画」などと言います)、『吸血ゾンビの群れ』とのタイトルで映画の中で映し出されるものは、倉庫の裏手で何体ものゾンビが人間にとりついて血を吸うシーンなのです。
 これも「空虚な中心」である光司に、「生命なき死んだ体」のゾンビが関係している、と言えないでしょうか(注5)。

(3)渡まち子氏は、「青山真治監督らしからぬ、ふわふわした浮遊感に最初は違和感を覚えるが、物語の中にはファンタジックな演出で死者が紛れ込み、生と死を同じフィールドで考えさせる演出に“らしさ”も感じた。秋のやわらかな日射しに包まれた公園が魅力的で、美しいカメラワークが見所。静かなストーリーだが、じんわりと染みてくる。三浦春馬が、青年期の揺れる心情を自然体で演じていて好演だ」として65点をつけています。
 他方で、福本次郎氏は、「いまだに将来の行き先を決めきれずにいる大学生が、彼女たちとの関わり合いの中で本当に己の人生に必要なものは何かを問いかけていく。ところが、あまりにも曖昧で思わせぶりなシーンの連続は、答えなどないことをごまかすための手段にしか見えない」などとして40点をつけています。




(注1)父親は、釣りをして暮らしていると言ってアッケラカンとしていますが、母親の方は、なれない島暮らしで疲れがたまったのだ、と言います(どうも、光司が大学に入った頃に両親は大島にやってきて、それから4年弱経過しているようです)。

(注2)雑誌『群像』の本年7月号における蓮實重彦氏と青山真治氏の対談「「混沌」から「透明」へ」では、例えば、蓮實氏が「私は随分ここには幽霊がいるような気がしてね。実は、ほとんどの人が幽霊ではないか」と言うと、青山氏は「つまり、その意味でだれも彼も複製=幽霊に見えるような作り方をしてしまった、ということなんでしょう」などと答えたりしています(P.216)。
 そんなことなら、前日の『日輪の遺産』は、高女の生徒のみならず、真柴少佐達も皆幽霊でしょうし(前日の記事の「注5」をも参照)、『ゴーストライター』も、問われるまでもなく幽霊=ゴーストのオンパレードといった有様です!

(注3)だからといって、前記注で取り上げた対談で、蓮實氏が「普通、我々がバストショットと言っているもので人物をことごとく構図の真ん中に置いた、これには本当に感動しました」(P.207)などといっていることに賛同するわけのものでもありません(そんな小難しい評価は、プロの評論家にお任せいたします!)。

(注4)そうした公園の配置がアンモナイトのように渦を巻いているという理由で、初島歯科医師は、妻が自分との出会いの頃のことを大事にしているとわかったと言って(大学の考古学サークルで出会い、彼は妻にアンモナイトをプレゼントしたとのこと)、彼の家庭内の騒動はひとまず落ち着くのですが、果たしてそこまでの形状をなしていると言えるのでしょうか?

(注5)興味深いことに、ほぼ同じ時期に公開された『スーパーエイト』においても、登場する少年たちはゾンビ映画『The Case』を撮影していて、その映像がエンドロールで流されるのです。
 なお、『東京公園』のゾンビ映画の場合は、ゾンビがいくつも現れて血を吸う場面が描かれているのですが、『The Case』の場合は、一応のストーリーがあり、かつラストで監督のチャールズが登場すると、解毒剤で正常に戻ったはずのアリス(エル・ファニング)のゾンビに襲われてしまうというオチまで用意されています。



★★★★☆




象のロケット:東京公園


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4 コメント

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TBありがとうございます (はつゆき)
2011-09-18 22:18:53
「ゼロから」のはつゆきです。gooへのTBが弾かれてしまうので、コメントにて失礼させていただきます。小西真奈美の演技を久しぶりに見ました。今後も期待しています。
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お礼 (クマネズミ)
2011-09-19 07:32:51
「はつゆき」さん、わざわざお断りのコメントをいただき恐縮です。
おっしゃるように、この映画における小西真奈美の演技を見ると、今後の一層の活躍を期待できそうです。
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またまたこんにちは! (愛知女子)
2011-09-19 14:41:03
クマネズミさん、拙ブログにTLとコメントありがとうございました。
対談を読んでおりませんので幽霊の発想はよく分かりませんが…。
玄人さん達の対談の一部の紹介を読んで益々分からなくなりました(笑)

私は常にカメラのファインダー越しに物語を覗いているような心境でした。
1人ひとり合わないピントを調整して行きながら見ているようで、ぼんやり感から抜け出したと思ったら話が終わってました…。
個人的にはちょっとぼんやり感が長い気がします。
小説では話がハッキリと書かれているみたいでしたので。普通ならちょっと疲れてしまう所ですが公園の景色や井川遥ら被写体が良かったので癒やされました。
最後の心温まるエピソードはツボです。

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幽霊 (クマネズミ)
2011-09-20 20:32:54
「愛知女子」さん、TB&コメントをありがとうございます。
原作小説ではけっして幽霊ではないヒロが、映画では光司しか見ることのできない幽霊とされているのですから、映画に登場する他の人達についても幽霊と見なしてかまわないのかもしれません。
特に富永は、「高校の時に一度死んだことがある。象の足で踏まれた」など話しているくらいですから(小説でも同じことを言っていますが)!
まあ、映画では「ゾンビ映画」までも映し出されるので、幽霊ばっかりという気分になってしまうのかもしれませんが。
なお、映画で映し出される公園が、大部分小説に登場するものと違っている点も面白いなと思いました(小説では、日比谷公園とか井の頭公園といったおなじみの公園が描かれています)。
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