映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

チェンジリング

2009年03月01日 | 洋画(09年)
 有楽町の TOHOシネマズ 日劇で「チェンジリング」を見てきました。

 クリント・イーストウッド監督の作品は、このところどれもこれも頗る好調ですが、この映画も非常に面白いと思いました(アカデミー賞候補になぜならなかったのか不思議です)。

 単に母親と息子との濃密な情愛を描いた作品というだけでなく、大量殺人事件がからむサスペンス劇でもあり、またロス市警の腐敗振りを暴く社会派劇でもあって、それらをアンジェリーナ・ジョリーという大層魅惑的な女優がつないでいるのですから堪えられません(1930年代のファッションが実によく似合っていると思いました)。2時間を超える長尺ながら、アットいう間にラストになってしまいます。

 なお、見ているときは気が付かず〔タイトルの「チェンジリング」は“change-ring”辺りかなと思い込んでいたために〕、家に戻ってから実際のタイトル「changeling」を英和辞典で調べたら、「取り替え子」とあったので、そういえばと思い出したのが、大江健三郎氏の長編小説『取り替え子 チェンジリング』 (2000.12)です。
書棚の奥から当該小説を引っ張り出してくると、出版直後に読んだことのわかる印が付いているものの、大半は忘れてしまっています。そこで、挟み込まれていた新聞書評(東大教授・沼野充義氏による)を読んでみたら、大江氏の義兄に当たる伊丹十三の自殺を巡る話が中心的となっている小説だとあり、そういえばとある程度中身を思い出しました(沼野氏によれば、この作品は「哀しみを新生につなげる驚くべき小説」とのことですので、再度読んでみたところです)。

 それにしても、沼野氏によれば、「取り替え子」とは、「美しい赤ん坊が要請に連れ去られ、その後に替わりに残される醜い妖精のこと」だそうで、そうだとすると、むしろ、今回の映画の方にヨク当てはまるように思われます(そして、そのお話が「true story」とされていることには驚かざるを得ません)。

 なにしろ、一方で、クリント・イーストウッド監督の映画においては、突然失踪した息子が見つかったとの知らせを受けて駅に出迎えた母親が、警察によって引き合わされた子供は自分の息子ではないと強く言い張るところからストーリーが展開していきます。他方、小説については、はじめのうちは「タイトルが内容とどうつながるのかよくわからない」と沼野氏自身が述べているのですから(勿論、最後まで読めば、“changeling”にいろいろな意味が与えられていることが分かります)!

 さらに、大層興味深いことに、大江氏の小説中には、「将来、日本語で書く人間で、本当に偉大な作家が現れるだろうか」などと、8年後の水村氏の『日本語が亡びるとき』を先取りしているとも受けとれる文章が見い出だされたり、「ルネ(・シャール)は、「レヴォリューション」という言葉は、〔革命ではなく〕天文学者たちの意味〔公転〕に解さねばならないことを確認していた」といった大江氏の文章を基点にすると、例のディカプリオ主演の映画のタイトル「レヴォリューショナリー・ロード」というのも、固有名詞としても、住宅街を循環する道路のことをも意味するのではないか、と思えてきたりします!

 さらには、同小説の末尾の方には、精霊や妖精の百科事典の挿絵に見られる“changeling”は、「どれも狡猾そうな老人の顔をした赤んぼう」とありますが、ここから例の映画「ベンジャミン・バトン」についても、この妖精の“changeling”という観点から見直すことが出来るのかもしれません(映画は、老人ホームの入口に置かれた籠の中の赤んぼうから始まりますが、それはまさに“取り替え子”そのものではないでしょうか?そして、ラストで、失踪した本来の美しい赤んぼうに戻るのでしょう!)。

 大江健三郎氏については、様々に言う向きが多いところ、確かにその社会評論にはなかなかついていき難い点が多いものの、小説ではかなりの高みに達しているのではないか、と今更ながら思っているところです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿