『月光ノ仮面』を渋谷のシアターNで見ました。
(1)前作の『板尾創路の脱獄王』がなかなか面白かったものですから、この映画もまたと期待して映画館に向かいました。
そういえば、前作も、吉本の喜劇人が作る映画だからと思って見たら、なかなか一筋縄ではいかない仕上がりになっていたので、あまりお笑いの面を期待すべきではないかもしれないとは思っていました。
実際に見てみますと、なるほど落語の「粗忽長屋」を踏まえた作りになっているものの、随分とシリアスな映画です。
物語は、終戦から暫くして南方の戦場より引き揚げてきた男が主人公(板尾創路)。兵隊服を着て、顔に繃帯を巻いた姿で街中を歩き、そのまま寄席(「神田橘亭」)の中に入り高座まで上がるものの、何も喋らず、結局、寄席芸人達によって外に放り出されてしまいます。
でも、彼が持っていたお守りを見た女性(石原さとみ)が、これは戦死したはずの「森乃家うさぎ」(注1)だと言ったことから、騒動が持ち上がることになります。
彼女は一門の師匠の娘で、以前「森乃家うさぎ」と結婚の約束をしていたのです。その彼女がそういうのならばと、主人公を師匠・森乃家天楽(前田吟)の元に連れ帰り、森乃家小鮭という名前を与えて、なんとか昔の姿に戻そうとします。ですが、主人公は一向に何も喋りません。
そうこうしていたら、もう一人の復員兵(浅野忠信)が、同じような兵隊服姿で寄席に現れ、むしろこちらの方が「森乃家うさぎ」ではないかと皆が思います。でも、この男もまた一言も喋りません。
最初の男は、そのうちに、落語をぶつぶつつぶやくようになりますが、後の男は、喉をやられていてトテモ喋れそうにはありません。
師匠が考えついた解決策は、最初の復員兵をもとどおり「森乃家うさぎ」として高座にあげる一方で、後から現れた復員兵を岡本太郎として娘・弥生と結婚させるというものでした(注2)。
サア、うまくいくでしょうか、……?
落語の「粗忽長屋」の「抱かれてるのは確かにおれ(死体の熊さん)だけど、抱いてるおれ(生きている熊さん)はいったい誰だろう」を踏まえて、“いったい俺は誰なんだろう”というわけですが、一人の人間(熊さん)がそう考えるのではなくて、二人の人間(板尾と浅野)がどうやら考えているようなので、話がこんぐらがってきて、またラストにトテモ考えられないような展開があり、『脱獄王』ヨリも一段と扱いにくい作品になっています。
例えば、板尾創路が女郎と女郎屋の床下を掘り進んでいったら、なんとタイムスリッパーのドクター中松に遭遇する、といった話の意味は、なんとも解釈しようがありません〔あるいは、そこからタイムマシンに乗って、今マサニ戦っている南方の戦場に行き着いて、本物の「森乃家うさぎ」(浅野忠信:本作で描かれているところからすると、爆弾の破片にやられて戦死してしまったように見えるのですが)(注3)をこちら側につれてくるいうことなのでしょうか〕。
また、そのラストは、森乃家小鮭から森乃家うさぎとなった最初の復員兵(板尾創路)が、高座に上がって、風呂敷に包んであった機関銃を取り出して、客席で笑い転げる客を撃ち続ける場面となります。この場面は暫く続き、また板尾創路自身が、劇場用パンフレットで、この場面をまず撮りたくて映画制作を思いついたなどと述べています。
ですから、そこには深い意味が込められているのかもしれません。
ですが、クマネズミは単純に、森乃家うさぎが矢継ぎ早に高座で繰り出す話がどれもコレも物凄く面白く、客席の皆が笑い転げている様を象徴的に表している、と見たらどうかなと思っています。
その様子を見て、もう一人の復員兵(浅野忠信)は、彼が森乃家うさぎとして大成したなと喜びつつも、彼が森乃家うさぎだとしたら、この俺はいったい誰なんだ、と考え込む、というところでオシマイ、というのではどうかな、と思いました。
いくら顔面が繃帯で覆われているからと言って、師匠の娘(石原さとみ)が、恋人を間違えるなんてことはありえない(注4)、師匠の天楽にしても、下稽古も何もやらないでいきなり高座にあげてしまうことは考えられないのでは、などなどいろいろな問題点はスグに指摘できると思います。
でも、そんなことは百も承知で板尾創路は映画を作っているのではないでしょうか?
としたら、見ている方も、その映画作りの方向に乗っかって楽しめば良いのではと思いました。
観念的な面が色濃い落語「粗忽長屋」をさらに観念的にしたような作りのため、一般の評判は余り高くはありませんが(人違いにもほどがあるとか、監督の一人よがりではないか、など)、私はこういうもの(人にいろいろと解釈を迫るような作品)も作られて良いのじゃないかなと思っています。
板尾創路は、最近では『太平洋の奇跡』にも出演したりと活躍しているところ、松本人志監督の『さや侍』で、主人公の野見に様々の芸を教える役割を持った牢番を演じていたのが印象的です。そして、それを越える者を自分で作ろうとしたのかもしれませんが、前作の『脱獄王』同様、殆ど何も喋らない役柄ながら、その存在感は否定すべくもなく、また第3作目が期待されるところです。
また、浅野忠信は、このところ海外作品にウエイトを置いているようにも見えながらも、邦画でも重要な役柄を演じていて、『乱暴と待機』とか『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』などで好演しています。本作でも、彼が出演したことで、随分と画面が締まったのではないかと思いました。
(2)映画評論家の中野豊氏は、「俺はいって~誰なんだ……。板尾はいって~何者なんだ……。映画を「落語」で綴る怪作」として80点をつけています。
また、渡まち子氏は、「観た人が「ワケがわからない」思いを抱いて劇場を出ることが目的と語っていた板尾監督。その目論見はとりあえず成功している。無論私も“ワケがわからない”のだが、監督の、不条理なものへの憧憬を感じた」として50点を付けています。
(注1)天楽師匠の弟子の話によれば、「真打ち寸前で、そりゃあ物凄い人だった」とのこと。
(注2)その後、弥生と岡本(浅野忠信)は祝言をあげるのですが、その前に、岡本が池で溺れたときに、弥生は、そばにあったロープを投げて岡本を助けようとしませんでした。あるいは、既に、体を許した板尾創路の方に惹かれていて、岡本を余計な者と考えたかったのかもしれません。
(注3)板尾創路が、「森乃家うさぎ」の故郷に行って母親に会うと、母親には、「自分の息子は、お国のために戦死したんだ、誰だあんたは?」と言われてしまいます。
(注4)天楽師匠が、娘の弥生に、何か覚えはないのか、と聞くのですが、彼女は「自分としては、生きていてくれただけでいい」などというものですから、皆も余り詮索しないで「森乃家うさぎ」だと決めつけてしまいます。
★★★☆☆
象のロケット:月光ノ仮面
(1)前作の『板尾創路の脱獄王』がなかなか面白かったものですから、この映画もまたと期待して映画館に向かいました。
そういえば、前作も、吉本の喜劇人が作る映画だからと思って見たら、なかなか一筋縄ではいかない仕上がりになっていたので、あまりお笑いの面を期待すべきではないかもしれないとは思っていました。
実際に見てみますと、なるほど落語の「粗忽長屋」を踏まえた作りになっているものの、随分とシリアスな映画です。
物語は、終戦から暫くして南方の戦場より引き揚げてきた男が主人公(板尾創路)。兵隊服を着て、顔に繃帯を巻いた姿で街中を歩き、そのまま寄席(「神田橘亭」)の中に入り高座まで上がるものの、何も喋らず、結局、寄席芸人達によって外に放り出されてしまいます。
でも、彼が持っていたお守りを見た女性(石原さとみ)が、これは戦死したはずの「森乃家うさぎ」(注1)だと言ったことから、騒動が持ち上がることになります。
彼女は一門の師匠の娘で、以前「森乃家うさぎ」と結婚の約束をしていたのです。その彼女がそういうのならばと、主人公を師匠・森乃家天楽(前田吟)の元に連れ帰り、森乃家小鮭という名前を与えて、なんとか昔の姿に戻そうとします。ですが、主人公は一向に何も喋りません。
そうこうしていたら、もう一人の復員兵(浅野忠信)が、同じような兵隊服姿で寄席に現れ、むしろこちらの方が「森乃家うさぎ」ではないかと皆が思います。でも、この男もまた一言も喋りません。
最初の男は、そのうちに、落語をぶつぶつつぶやくようになりますが、後の男は、喉をやられていてトテモ喋れそうにはありません。
師匠が考えついた解決策は、最初の復員兵をもとどおり「森乃家うさぎ」として高座にあげる一方で、後から現れた復員兵を岡本太郎として娘・弥生と結婚させるというものでした(注2)。
サア、うまくいくでしょうか、……?
落語の「粗忽長屋」の「抱かれてるのは確かにおれ(死体の熊さん)だけど、抱いてるおれ(生きている熊さん)はいったい誰だろう」を踏まえて、“いったい俺は誰なんだろう”というわけですが、一人の人間(熊さん)がそう考えるのではなくて、二人の人間(板尾と浅野)がどうやら考えているようなので、話がこんぐらがってきて、またラストにトテモ考えられないような展開があり、『脱獄王』ヨリも一段と扱いにくい作品になっています。
例えば、板尾創路が女郎と女郎屋の床下を掘り進んでいったら、なんとタイムスリッパーのドクター中松に遭遇する、といった話の意味は、なんとも解釈しようがありません〔あるいは、そこからタイムマシンに乗って、今マサニ戦っている南方の戦場に行き着いて、本物の「森乃家うさぎ」(浅野忠信:本作で描かれているところからすると、爆弾の破片にやられて戦死してしまったように見えるのですが)(注3)をこちら側につれてくるいうことなのでしょうか〕。
また、そのラストは、森乃家小鮭から森乃家うさぎとなった最初の復員兵(板尾創路)が、高座に上がって、風呂敷に包んであった機関銃を取り出して、客席で笑い転げる客を撃ち続ける場面となります。この場面は暫く続き、また板尾創路自身が、劇場用パンフレットで、この場面をまず撮りたくて映画制作を思いついたなどと述べています。
ですから、そこには深い意味が込められているのかもしれません。
ですが、クマネズミは単純に、森乃家うさぎが矢継ぎ早に高座で繰り出す話がどれもコレも物凄く面白く、客席の皆が笑い転げている様を象徴的に表している、と見たらどうかなと思っています。
その様子を見て、もう一人の復員兵(浅野忠信)は、彼が森乃家うさぎとして大成したなと喜びつつも、彼が森乃家うさぎだとしたら、この俺はいったい誰なんだ、と考え込む、というところでオシマイ、というのではどうかな、と思いました。
いくら顔面が繃帯で覆われているからと言って、師匠の娘(石原さとみ)が、恋人を間違えるなんてことはありえない(注4)、師匠の天楽にしても、下稽古も何もやらないでいきなり高座にあげてしまうことは考えられないのでは、などなどいろいろな問題点はスグに指摘できると思います。
でも、そんなことは百も承知で板尾創路は映画を作っているのではないでしょうか?
としたら、見ている方も、その映画作りの方向に乗っかって楽しめば良いのではと思いました。
観念的な面が色濃い落語「粗忽長屋」をさらに観念的にしたような作りのため、一般の評判は余り高くはありませんが(人違いにもほどがあるとか、監督の一人よがりではないか、など)、私はこういうもの(人にいろいろと解釈を迫るような作品)も作られて良いのじゃないかなと思っています。
板尾創路は、最近では『太平洋の奇跡』にも出演したりと活躍しているところ、松本人志監督の『さや侍』で、主人公の野見に様々の芸を教える役割を持った牢番を演じていたのが印象的です。そして、それを越える者を自分で作ろうとしたのかもしれませんが、前作の『脱獄王』同様、殆ど何も喋らない役柄ながら、その存在感は否定すべくもなく、また第3作目が期待されるところです。
また、浅野忠信は、このところ海外作品にウエイトを置いているようにも見えながらも、邦画でも重要な役柄を演じていて、『乱暴と待機』とか『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』などで好演しています。本作でも、彼が出演したことで、随分と画面が締まったのではないかと思いました。
(2)映画評論家の中野豊氏は、「俺はいって~誰なんだ……。板尾はいって~何者なんだ……。映画を「落語」で綴る怪作」として80点をつけています。
また、渡まち子氏は、「観た人が「ワケがわからない」思いを抱いて劇場を出ることが目的と語っていた板尾監督。その目論見はとりあえず成功している。無論私も“ワケがわからない”のだが、監督の、不条理なものへの憧憬を感じた」として50点を付けています。
(注1)天楽師匠の弟子の話によれば、「真打ち寸前で、そりゃあ物凄い人だった」とのこと。
(注2)その後、弥生と岡本(浅野忠信)は祝言をあげるのですが、その前に、岡本が池で溺れたときに、弥生は、そばにあったロープを投げて岡本を助けようとしませんでした。あるいは、既に、体を許した板尾創路の方に惹かれていて、岡本を余計な者と考えたかったのかもしれません。
(注3)板尾創路が、「森乃家うさぎ」の故郷に行って母親に会うと、母親には、「自分の息子は、お国のために戦死したんだ、誰だあんたは?」と言われてしまいます。
(注4)天楽師匠が、娘の弥生に、何か覚えはないのか、と聞くのですが、彼女は「自分としては、生きていてくれただけでいい」などというものですから、皆も余り詮索しないで「森乃家うさぎ」だと決めつけてしまいます。
★★★☆☆
象のロケット:月光ノ仮面