映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ヒミズ

2012年02月07日 | 邦画(12年)
 『ヒミズ』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)本作は、昨年、『冷たい熱帯魚』と『恋の罪』で鮮烈な印象を残した園子温監督の作品ですから、やはり大いなる期待を持って映画館に出向きました。
 園監督は、このところ随分と短いインターバルで衝撃作を次々に公開してきているところ(注1)、本作品も、期待にたがわず素晴らしい出来上がりだと思いました。

 原作は古谷実氏の同タイトルのマンガ(講談社)(注2)。物語の主人公は、中学生の少年・住田染谷将太)で、ヒロインは、同じクラスの女生徒・茶沢二階堂ふみ)。
 住田少年は学校になじめず、大体は、とある川べりに設けられた貸しボート屋で過ごしています。そんな彼に、クラスメートの茶沢は恋い焦がれ、住田少年から大層邪険な扱いを受けても、幾度となく貸しボート屋に押し掛けます。
 初めのうちは、母親(渡辺真起子)がボート屋で同居していたのですが、書置きを残してプイと消えてしまいます。他方、父親(光谷研)も時折現れるものの、暴力を振るうばかりで、これまたすぐにどこかへ立ち去ってしまいます。
 ただ、何かと力になってくれるのが、貸しボート屋のそばでテントを張って暮らしている夜野渡辺哲)らの面々(注3)。かれらは、どうやら東日本大震災で被災した人達のようです。



 そう思ってボート屋の前を見ると、川の中には、津波で流されと思われる家が傾いたまま浮かんでいます。
 そうしたなか、父親に600万円の債権があるといって、高利貸(でんでん)が部下と一緒にボート屋を訪れ、素直に従わない住田少年をぼこぼこにします。
 その後で再び現れた父親は、相変わらず住田少年に暴力を振いますが、逆にブロックで殴り返されて死んでしまいます。
 この先、住田少年はどうなってしまうのでしょうか、それに茶沢は、……?

 一見すると、家庭内暴力の悲劇を描いたものと思えますが、暫くすると、これまでの園子温監督作品同様、一筋縄では捉えきれない複雑な内容を持っているのでは、と思えてきます。

 その際の手がかりの一つになるのが、やはり原作のマンガとの違いでしょう(言うまでもありませんが、原作と映画とは全く別のものと考えます)。
 一番大きな違いは、映画が、3.11の東日本大震災を舞台として大胆に取り入れていることだと思われます。
 そのためもあるのでしょう、例えば夜野は、原作では住田少年のクラスメートで親友(従って、中学生)ですが、本作では中年過ぎとされ、3.11の被災者という設定になっています。



 そして、原作マンガで夜野少年は、飯島テル彦(映画では窪塚洋介が扮します)と強盗殺人事件を引き起こしますが(注4)、映画の場合はそれに加えて、夜野が、3.11で荒涼となった被災地に呆然と立ち尽くすシーンが繰り返し描かれます。

 こうしたことを踏まえて考えてみると、映画における住田少年や茶沢たちは、3.11でこれでもかと苦しめられている被災者を象徴しているといえるかもしれません。
 なにしろ、映画に登場する住田少年は、あちこちで滅多矢鱈と暴力を振るわれるのです。確かにマンガでも、住田少年は高利貸にぼこぼこにされますが(注5)、父親はまったく暴力を振るいません。それに、茶沢の家の話は、ほとんど原作では取り上げられないところ、本作では、なんと彼女を吊す予定だという絞首台を両親が制作中という映像が映し出されたりします。
 結局、住田少年は、自分に激しく暴力を振う父親を殺してしまいますが(注6)、そして暫くはそれをひた隠しにしていますが、茶沢らの献身的な努力もあって(注7)、警察に自首した上でこれからも頑張って生き抜こうとします(注8)。

 これは、被災者に対するメッセージ(どんな大変な事態であろうとも、頑張っていきさえすれば、希望がみえてくるはずだ、などといった)となっているのでしょう。

 とはいえ、そうした方面からだけでこの映画を割り切ってしまうのは、余りに直接的過ぎる感じもします。そういったことは映画の背景であるとして普通に解釈すれば、本作は、現代の格差社会の底辺層で蠢く若者たちの姿、ドン詰まりのところにきてしまい(ボート屋を突き抜ければ川に落ちるしかありません!)、なんとかそこから這い上がろうとする動き(「立派な大人になろう」として)を描き出そうとしているともいえるでしょう。
 というのも、本作において、すべてが3.11絡みに塗り替えられてしまっているわけではなく、原作漫画で強調されていること(注9)に従った映像が挿入されているからです(注10)。

 こうした「悪い奴」が現代の社会の底辺のあちこちに隠れ潜んでいる様が描き出され(結局は、酷く「悪い奴」はなかなか見つからないのですが)、そんな中で、若者が愛を育んで生き抜いていくというのはどういうことなのか、といったことが本作では描かれている、と言えるかもしれません。

 とはいえ、そうにしても、本作で住田少年は、原作マンガの第24話で言われている「四つの選択肢」(注11)のうちで、原作マンガとは異なって、極めて真っ当なものを最後に選び取るわけで、そうしたところからも、本作ではやはり3.11のことが重視されているように思われるところです。

 本作の主演の染谷将太は、最初『パンドラの匣』で見たのですが、その後『東京公園』や『アントキノイノチ』でも難しい役を好演し、ついにこの映画でヴェネチア国際映画祭最優秀新人俳優賞を受賞したわけで、これからの活躍がますます期待されるところです。



 同じ賞をダブルで受賞した二階堂ふみは、クマネズミは見るのが初めてながら(注12)、若いながらも堂々たる演技を披露していて、彼女もまた今後の活躍が期待されます。




(2)その二階堂ふみが扮する茶沢を見ると、なんだか『ハラがコレなんで』の主人公光子仲里依沙)のような感じを受けてしまいます。
 すなわち、その映画の光子は、何でも「粋だね」、「OK」とか「大丈夫、大丈夫」とか言って、自分なりの考え方でドンドン前に行こうとするのですが、本作の茶沢も、住田少年に、「もう帰れ。二度と来るな」などと言われても全く意に介せず、何度もやってきては「大丈夫、私がついているから」などと言いながらいろいろちょっかいを出して、「頑張れ」と住田少年を励ますのです(注13)。

 その背景には、茶沢によって、映画の冒頭から何度も読み上げられる『ヴィヨン詩集』の中の「バラード」があるのかもしれません(むろん、原作には、ヴィヨンの詩など出てきませんが)(注14)。
 すなわち、ヴィヨンの「バラード」では、「俺には何だってわかる、自分のこと以外なら」というフレーズが繰り返されるところ、わかっているといってもつまらないことばかりで肝心のことがわかっていないという意味なのでしょうが、あるいは、自分にはあんたのことがよくわかっているよ、と言いたいのかもしれません。それで、茶沢は、住田少年に対して、「キミは、5月7日以前にお父さんを殺した。絶望したキミは、どうせならこの命を世直しに使おうと立ちあがって。それで立派な大人になるために」などと言い放ったのかもしれません(注14)。

 住田少年は、自分を縛りつけようとするものから抜け出ようと色々動き回るのですが、結局のところは、茶沢の手の中で飛び跳ねているだけのことのようにも見えてきます。

(3)映画評論家の前田有一氏は、「あくまで個人的には、この映画の被災地の映像は到底受け入れられないものであった。それらの景色が発する断固たる現実の重みが、その手前で繰り広げられる芝居じみた(実際芝居なのだが)やりとりのあまりの軽薄さを断固拒否しているように見えた。厳しい言い方になるのは承知だが、この程度の事を語るためにわざわざ被災地を持ち出す必要があったのか、観客も批評家も議論する必要があるだろう。……結果的に下手に震災をからめたのは、本作にとって大失敗だったと私は考える」として25点しか付けていません。

 しかしながら、3.11の被災状況がとても考えられないような酷い有様だとしても、(直接的な被災者ではない)各人がそれに向かい合う姿勢は様々であっていいのではないか、どんな格好でもいいからそれに向かい合うこと自体が大切なのではないかと考えられるところで、より深いかどうか(「それらの景色が発する断固たる現実の重み」>「芝居じみたやりとりのあまりの軽薄さ」)などといったところで競い合うのは全く意味がないと思います。

 例えば、作家・高橋源一郎氏の『恋する原発』(講談社、2011.11)はどうでしょう。同書の扉に「不謹慎すぎます。関係者の処罰を望みます―投書」と記載されているところからもうかがえるように、ある意味でとんでもない内容です(注15)。
 ですが、全国民が東日本大震災に対して同一歩調をとるなどといったおぞましい事態に陥ることなく、こういう最中にこうした小説が出版されること、それ自体がとても重要なことなのではないでしょうか。

 「それらの景色が発する断固たる現実の重み」などと言いたてて、園子温監督の奮闘ぶりを批判できたと思うのは酷く不遜なことではないのか、と思ってしまいます。

(4)青森学氏は、「これは生きることへの希望をテーマに扱った映画ではなく、絶望の中からでも生を選び取る覚悟、「誓い」の映画なのである。それが震災後の廃墟とオーバーラップして非常にメッセージ色の強い作品となっている」として80点をつけています。
 また、渡まち子氏は、「原作から変更されたのは、設定を東日本大震災後の日本にしたこと。終わらない平和な日常など、もはやない。私たちは終わりなき“非日常”を生きていかねばならない。だからこそ希望が必要なのだ。走り、叫び、全身で愛を求める住田と茶沢のように」などとして75点をつけています。




(注1)クマネズミは、『ちゃんと伝える』以前は、DVDで『自殺サークル』と『紀子の食卓』、『愛のむきだし』しか見てはおりませんが。
 なお、このサイトの記事によれば、今春にも、次回作『希望の国』が公開される予定とのこと。園子温監督の驀進は、どうにも止まらないようです。

(注2)原作のマンガは、元は雑誌『ヤングマガジン』で連載されていましたが、全4巻の単行本となり、今回の映画化に合わせて上下2巻本の新装版が講談社から出されています。

(注3)『冷たい熱帯魚』や『恋の罪』で華々しく活躍した神楽坂恵は、本作では、こうした大人達の一員〔田村(吹越満)の妻〕として、相変わらずエロチックな雰囲気を出しながらも、極く極く地味に登場するに過ぎません。

(注4)夜野少年は、住田少年には黙って、奪ったお金で彼の父親の借金600万円を返済してやるのです。

(注5)原作では、高利貸が中国人の「王」で、用心棒が「金子」になっているところ、本作では、高利貸が「金子」(でんでん)で、用心棒は「谷村」(村上淳)とされています。

(注6)原作マンガの場合、親に捨てられて、挙げ句に親の借金の返済を迫られて、住田少年は、父親について、「お前のせいで オレの人生は ガタガタだ」、「いつも みじめな気持ちで いっぱいだ」、「お前は オレの 悪の権化だ」、「死んで責任をとれ」と叫んだところに出現した父親を殺してしまいます。
 他方、本作の父親は、住田少年に対して暴力を振るった上で、「あの時お前さえいなければ、こんなにならなかったのに」とか、「あの時、お前が溺れて死ねば保険が下りたのに」と言ったりします。
 最後には、「ズーッと昔から、お前要らねえんだよ」とか、「しぶとく生きてるなー、お前」、「本当に死にたかったら、死ね。俺のことも母ちゃんのことも大丈夫だから」などと言いたい放題に言って立ち去ろうとしますが、その後を追った住田少年がブロックで殴りつけます。

(注7)原作漫画と同じように(上記の「注4」参照)、夜野(渡辺哲)は、自分が奪い取ったお金で住田少年の父親が抱える借金を返済しますが、その際、何でそんなことをするのかと言う高利貸(でんでん)に対し、「俺は一旦死んだが、住田少年には未来がある。俺は日本の過去です。いつ野垂れ死にするか分からない」などと必死に叫んで、そのお金を受け取ってもらいます。

(注8)原作漫画のラストでは、住田少年は、高利貸の用心棒の金子が洗濯機の中に置いていった拳銃を取り出して自殺してしまいますが(ただ、単行本化される際に、ラストが連載時と違っているという指摘があります)。
 他方、本作のラストでも、夜中に住田少年は、寝ていた蒲団からソッと抜け出して拳銃を洗濯機から取り出し、それを持って川の方に行き、その後銃声がし、それを聞いて起きた茶沢が泣き崩れます。しかしながら、その後で住田少年は、何事もなかったように川から上がってきて、茶沢に対して、「一緒に警察に行こう」と言い、茶沢も、「住田頑張れ、死ぬな!」と応じます(そこに被災地の光景も重なってきます)。

(注9)父親を殺してしまった後、住田少年は、世の中のためになろうと、「悪い奴」を捜して殺そうとして毎日歩きまわっています。
 原作マンガの住田少年は、元々「普通の人間」になろうとしていたところ、父親を殺して埋めたことから、「普通」になれないことになり、絶望の挙句そのように考えているようです(映画でも、「ゴミ以下の命でも、1回くらい有効に使いたい」などと言っています)。

(注10)例えば、バスの中で、妊産婦に席を譲らないこと非難された男が相手を刺してしまう事件。尤も、原作マンガでは、この事件は住田少年の妄想として描かれていますが。

(注11)原作マンガの「四つの選択肢」とは、①「自首をする」、②「自殺」、③「このまま1年幸運を探し続ける」、そして④「今からでもがんばれば……立派な大人になれるんじゃないだろうかって事」です。
 原作マンガでは、結局②を選択してしまいますが、本作では④を選び取ります。
 ただ、その場合、原作マンガでは、「あんなクズ男の頭を割った」という「罪は心の奥底にしまいこみ、一生懸命がんばればいい」という「妥協案」とされていますが、映画では、住田少年は①の「自首」をした上で、将来的に④を望むことになります。

(注12)よく言われることながら、劇場用パンフレットに掲載されているヴェネチュア映画祭での写真を見ると、宮崎あおいそっくり!

(注13)なんと、茶沢は、住田少年が不在のおりに、ボート屋の側で生活している人達を動員して、ボート屋をリニューアルすべくペンキの塗り直しを行ったりします。

(注14)ヴィヨンの詩と言えば、第一には鈴木信太郎訳『ヴィヨン全詩集』(岩波文庫)でしょうが、映画の中で読み上げられているのは、ハッキリとはしないものの、口語体であるところから、あるいは、天沢退二郎氏の『ヴィヨン詩集成』(白水社)に収められているものかもしれません。
 でも、鈴木信太郎訳では「わし自身の事の外、何も彼もわしには解る」となっているところが、天沢訳では「私は見わけられる、私自身以外なら何でも」とされていて、映画のなかでのように、「俺にはわかる……」となっていないところを見ると、別の訳を使っているのでしょう。
 何よりも、使われている詩のタイトルが、鈴木訳では「バラッド(あるいは、零細卑近事のバラッド)」となっていますが、天沢訳では「枝葉末節のバラード」とされています。
 なお、もう一つの訳がネットに掲載されています。
 静岡大学名誉教授・佐々木敏光氏によるもので、タイトルは「軽口のバラード」、該当のところは、「何だってわかる、自分のこと以外なら」と訳されています。

(注14)直接的には、ラジカセに録音された住田少年の話を聞いたからに過ぎないのかもしれませんが、そればかりでもないでしょう。

(注15)なにしろ、この小説の大部分は、「作品の売り上げをすべて、被災者の皆さんに寄付」する「チャリティーAV 恋する原発」を撮影する監督の語りになっていて、卑猥な言葉が溢れ返っている一方で、「その時だった。2001年3月31日、午後2時半過ぎ。/「揺れてる」会長が言った。/「揺れてますね」社長が言った。/「なんか」とおれはいった。「やばくないですか」」などと書かれてもいるのですから(P.75)!
なお、この書評などを参照してください。




★★★★☆




象のロケット:ヒミズ