映画的・絵画的・音楽的

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灼熱の魂

2012年02月18日 | 洋画(12年)
 『灼熱の魂』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)随分と地味な映画ながら良い作品だと耳にしたものですから見に行ってきました。
 確かに衝撃的な良作に違いありませんが、それにしても大層重厚な作品(注1)で、それも2時間11分もの長尺ですから、見る方もかなりくたびれます。
 ただ、全体がミステリー仕立てになっていますから、最後まで興味が持続します(従って、本作を未見の方は、以下でのネタバレに注意していただきたいと思います)。
 とはいえ、クマネズミにとってなかなか難解な作品でした。

 物語は、突然、母親のナワル(中東からカナダに移住していました)が亡くなって、遺された双子の姉弟(ジャンヌシモン)が、公証人ルベル(母親を秘書として雇っていました)より母親の手紙を渡されるところから始まります。



 その手紙は彼らの父親と兄に宛てたもので、二人に彼らを探し出して渡してほしいというのが母親の願いでした。
 二人は、母親より、父親はすでに死亡していると言われており、かつまた兄のことなど聞いたことがなかったため、腑に落ちないままに、母親の若い時分の一枚の写真を手がかりに、中東に行って調査を始めます(初めは、専らジャンヌが調査にあたりますが、途中からシモンも加わります)。
 おそらく舞台をレバノンに想定しているのでしょう、キリスト教徒とイスラム教徒との激しい対立が、物語の背景に置かれています(注2)。

 この映画をわかりにくく複雑なものにしているのは、現在における双子の姉弟による調査行の間に、その調査で分かった母親の過去のこと(注3)が、映像として次々に挿入されるせいでもありますが(注4)、それだけでなく、この母親が随分と強い信念を持った女性として描かれていて、たびたび驚くような行動(注5)に出ることにもよるのではと思われます(見ている方は、甚だ強いインパクトを受けるのですが)。
 それに、元々、中東情勢の複雑怪奇なところが背景に控えていることにもよっていると思われます(注6)。

 そんな母親の後を追って自分たちの父親や兄を探し出そうとするのですから、二人が見つけ出す真実(注7)も、実に苦いものとなります。
 とはいえ、それを知った双子の姉弟が、それで強く生きていこうとするのであれば、見ている方は励まされるというものでしょう。
 でも、それが母親の願いだとしても、果たして彼らは、知ってしまった事実の重みに耐えて生きていけるのでしょうか?
 それにしても、よくもこんな重たい映画を制作したものだ、と思わずにはおられません。

 主役の母親ナワルに扮するルブナ・アザバルは、何度も危機的な目に遭う大変な役を説得力を持って好演しています(なお、『ワールド・オブ・ライズ』においてゴルシフテェ・ファラハニー(『彼女が消えた浜辺』)の妹役で出ているとのことですが記憶にありません)。

(2)この映画で語られたことの一つは、母親ナワルの類い稀なる強い意志力と思われます。
 自分が引き起こした事件によるものとはいえ、地獄より酷いとされる刑務所に15年間も入っていたのですから。
 そして、出所後も、そこでの出来事を胸にしまいこんでじっと耐えて生活してきたのですから。

 ですが、最後になって、その時のことを二人の子供に調査するよう頼んでしまいます。その結果として、ジャンヌとシモンは、知らなくてもいい陰惨な事実にぶち当たるわけです。
 映画においては、それまでのジャンヌとシモンは、かなり変わった母親(注8)の手によって育てられたにせよ、根本的に解決しなければならないような危機的な状況に置かれているわけでもなさそうに思われます。
 それがいきなり母親の死に直面し、遺された母親の手紙で要請されていることを忠実に実行したら、知らなくてもいい事実を突然否応もなく頭から被せられてしまった、ということになるのではないでしょうか?

 普通だったら、余りの予想外の事柄に直面して、とても精神的に持ちこたえられないのではないでしょうか?
 何より母親自身が、あること〔下記(4)参照〕でそのおぞましい事実を知ったことが原因で、放心して倒れてしまい、ついには死に至るのですから!

(3)そもそも、なぜ母親ナウルは、ジャンヌとシモン、それに彼らの兄ニハドに宛てた手紙を遺したのでしょうか?
 ナウルがジャンヌとシモンに宛てた手紙によれば(注9)、母親は、刑務所で自分を襲った男を、寛大にも許すだけでなく愛するとまで言っています。
 確かに、この男は、キリスト教徒とイスラム教徒との間に生まれた人間ですから、二つの宗教の融和の象徴と言ってもいい存在でしょう。
 ですが、母親に対して振る舞った行為は、どちらの宗教から見ても許されざる行いではないでしょうか?
 それに、いくら母親が許すといっても、その行為の結果としてこの世に生を受けたジャンヌとシモンはその男を許せるのでしょうか?
 母親に代わって復讐を遂げる行動に出てもおかしくはない感じもします。

(4)母親ナワルは、プールで、ある男性の踵に3つの点が刺青されているのを見、さらにその男性の顔を見て、すべてのおぞましい事実を知るに至ります。



 これが、本作の物語の発端であり、ジャンヌとシモンが突き止めるべき事実となるわけですが、酷くご都合主義的な点はさて置くとしても、この「3つの点の刺青」とは何なんでしょうか?
 中東の地ではなく遠くカナダにおいて、「3つの点の刺青」を見ただけで人を判別できたということは、彼女の祖母が行ったこの方法が、決して土地の風習で誰にでも施すといったものではなく、極めて特異なことだとわかります。
 その背後にあるのは、やはり、劇場用パンフレットに掲載された映画評論家・きさらぎ尚氏のエッセイが指摘するように、ギリシア悲劇『オイディプス王』なのでしょう(注10)。
 そして、本作の「3つの点の刺青」は、同悲劇におけるオイディプス王の「足の踵の腫れ」に対応しているのでしょう(注11)。

 とすると、本作は、調査を進めることによって事実を暴いていくという構成をとっていることから、まるでドキュメンタリー作品のような雰囲気を持っていますが、随分と作為性が強いフィクションだと思われます。
 ではなぜ、本作の製作者は、わざわざギリシア悲劇を現代に蘇えらせようとしたのでしょうか?母親のナワルの数奇な生き方を描くのであれば、なにもここまで重い話にする必要があるのでしょうか?
 あるいは、宗教的対立を融和の方向に導かせようとの願いを込めているというのでしょうか?
 でも、『オイディプス王』で描かれているのは、オイディプスによる父ライオス王の殺害であり(注12)、オイディプスの子供たちが遭遇するであろうこれからの苦難といったものです(注13)。
 むしろそういった苦難の方が、ジャンヌとシモン(オイディプスの子供たちに相当するでしょう)やその兄ニハド(オイディプスに相当するでしょう)の将来に待ち構えている状況ではないかと考える方が、常識的ではないかと思えるところです。

 ただ、この映画は、全部で4部作となっている舞台の真中だけを取り出したからそう思えるのであって(注14)、あるいは、その前の戯曲とその後の戯曲に密接につながりを持っていて、それを見れば以上で申し上げたいくつかの違和感も、もしかしたら拭えるのかもしれません(注15)。

(5)金原由佳氏は、「『サラの鍵』同様、過去の傷を自分の痛みとして現代人に共有させる手法が鮮やか。これは知るべき痛みである」として★4つの満点をつけています。



(注1)原作は、レバノン出身でカナダ・ケベック在住の劇作家ワジディ・ムアワッドの「Incendies」(「約束の血」4部作のうちの第2作目)。また、本作の監督・脚本は、カナダのドゥニ・ヴィルヌーヴ。

(注2)レバノン内戦を巡るアニメ『戦場でワルツを』を見たことがあります。

(注3)母親のナワルは、キリスト教系の家で育ちながら、異教徒の青年と深い仲になるも、その青年はキリスト教系の仲間に殺され、身籠っていた子供は産みますが、祖母に取り上げられてしまいます。
 その後ナワルは、街に出て大学に通うものの、内戦が激しくなって大学が閉鎖されてしまいます。
 息子の安否が気がかりとなって、ナワルは南部に探しに行ったところ、彼がいた孤児院は、イスラム教徒によって破壊されてしまったとのこと。
 ナウルは絶望しますが何とか立ち直り、その後紆余曲折を経た挙げ句、カナダに移住したというわけです。

(注4)映画は、全部で10章から構成され、各章は「双子」、「ナワル」、「ダレシュ」などのタイトルが付けられています。

(注5)ナワルは、イスラム系のテロリストになってキリスト教右派の指導者を射殺するに至り、捕らえられて刑務所に15年間閉じ込められることになります。



(注6)ナワルのような過去を持った女性が、どうしてイスラム系のテロリストになってキリスト教右派の指導者を射殺するに至るのか、いまいち分からない感じです(バスに乗っていた自分以外の者が、キリスト教系の兵士によって皆殺しにされたためなのでしょうか?)。
 また、ナワルをレイプする男は、シャムセディンというイスラム系武装勢力のリーダーによって訓練されて優秀な狙撃兵になっていたのではないでしょうか?そんな男が、どうしてナワルが囚われているクファリアット監獄に現れるのでしょうか?というのも、そこはナワルを監禁する刑務所であり、キリスト教右派の勢力下にあると考えられますから。
 こうした疑問を持ってしまうのも、クマネズミが、中東を巡る情報など不十分にしか持たないためなのでしょう!

(注7)自分たちは、閉じ込められていた刑務所におけるナワルに対する拷問(レイプ)の結果として生まれたのであり、決して両親に祝福されて生まれたのではないこと、それになにより、父親は自分たちの異父兄であることまでわかってしまったのです(刑務所でレイプした男が、なんとナワルの実の息子なのでした)!

(注8)若い時分は、学生新聞の編集に携わったりして活発だったようですが、カナダ移住後は、キチンと描き出されているわけではないものの、大層寡黙な人間になってしまっていたようです(特に、シモンにとっては、不可解な母親という感じが強かったように見受けられます)。

(注9)手紙には、次のように書かれていました(劇場用パンフレットの裏表紙に掲載されているものよっています)
 「どこから物語を始める?/あなたたちの誕生?―それは恐ろしい物語。/あなたたちの父親の誕生?―それはかけがえのない愛の物語。/あなたたちの物語は約束から始まった。怒りの連鎖を断つために。あなたたちのおかげで約束は守られ、連鎖は断たれた。/やっとあなたたちを腕に抱きしめ、子守歌を歌い、慰めてあげられる。共にいることが何よりも大切……。/心から 愛してる」。

(注10)「その母性の強さはこの映画をソフォクレスのギリシア悲劇に昇華させる」。

(注11)「子供はといえば、生まれてまだ三日もたたぬとき、ライオスが留金で両の踝を刺し貫いたうえで、人手に托して人跡なき山奥に捨てさせてあったのでございます」〔『オイディプス王』(藤沢令夫訳、岩波文庫)P.72~P.73〕。

(注12)ニハドの父親は、『オイディプス王』のようにニハドによって殺されるわけではありませんが、ニハドが所属するであろうキリスト教勢力によって射殺されてしまいますから、ある意味では『オイディプス王』をなぞらえているともいえるのではないでしょうか?

(注13)オイディプスと母親イオカステとの間には、男の子2人と女の子2人が生まれましたが、男の子について、オイディプスは、「男の子のほうについては、何も心配しないでくれ、彼らは男だ。いずこにあろうと、生きるにこと欠くようなことは、よもやあるまい」と述べる一方で(P.128)、2人の娘については、「おもえば、何というつらい人生が、お前たちにのこされていることだろう。世の人びとからどんな目を向けられながら、お前たちは生きていかねばならぬことだろう」云々と、酷くその行く末を案じています。
 実際には、ソフォクレスによる悲劇『コロノスのオイディプス』や『アンティゴネー』を見ると、オイディプスの息子や娘のその後が分かります。
 結局、2人の息子については、「二人の兄弟、それが1日のあいだに、おいたわしくも、我からと互いの手に身を斬り裂いて、いっしょに討死なさっ」たし〔『アンティゴネー』(呉茂一訳、岩波文庫)P.11〕、娘の一人アンティゴネーについても、閉じ込めた「墓穴のいちばん奥に、あの娘御が頸を吊って下がっているのが眼につきました」という結果となってしまいます〔『アンティゴネー』P.81〕。

(注14)本作は、ニハドやジャンヌとシモンが、自分たちの誕生の秘密を知るところで終わっていて、そうした事実を知った上で、今後彼らが動向どうするかという肝心の点は描かれていないのではないかと思われます(いわば前提が明らかになっただけで、本格的な話はこれからという感じがするのですが)。
 そうではなくて、本作は、『オイデプス王』におけるイオカステをクローズアップしようとして作られたのかもしれません。
 『オイデプス王』においては、「使者」がする踝の傷の話から、イオカステはおぞましい事実を直感し、オイディプスには、「ご自分が誰であるかを、どうかけっして、お知りになることのありませぬように!」と言って奥に引っ込み、首をくくって自殺してしまいます〔『オイディプス王』(岩波文庫)P.99〕。
 本作におけるナウルも、プールで遭遇した男からすべての事実を直感し、余りのことに放心状態となり、遂には死んでしまいます。
 こうした類似性はあるにせよ、そしてイオカステを主人公にすることも考えられるにせよ、一連の話の中心は、本来的にはやはりニハドであり、ジャンヌとシモンではないかと思えるのですが。
 ただ、ニハドについては、本作の冒頭で、兵士になるべく幼いながら頭を坊主にされている場面が映し出され、ラストでは、ナワルの墓に花を捧げるシーンが描かれていて、そこからすれば本作はニハドを巡るものといえなくはないかもしれません。
 でも、それなら、もっとニハドの内面の動きが分かるように描かれる必要があるでしょう。

(注15)そういえば、掟の厳しい地域で暮らしていた若いナワルが、どういう経緯で、こともあろうに異教徒の青年を恋するようになり、その子供まで身籠ってしまうのか、という重要な点についても、本作では描かれてはいないようです。



★★★☆☆