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死刑台のエレベーター

2010年11月06日 | 邦画(10年)
 昔見たことのある有名な映画のリメイク作だというので、『死刑台のエレベーター』を新宿の角川シネマ館で見てきました。

(1)この作品は、出演する俳優陣が豪華ですから、サスペンス物とは扱わず細かな詮索などしなければ、娯楽映画としてそこそこ楽しむことはできます。
 なにより、愛人である阿部寛に自分の夫(津川雅彦)の殺害を唆す吉瀬美智子は、吹石一恵ほどではないにせよ上背もあって、なかなか魅力的だと思いました〔ただ、殺人を犯してしまうほど男の理性を失わせる魔力を持つ女と言ったら、暴力団親分(平泉成)の情婦となった「りょう」の方が、より適役ではないかと思いましたが〕。



 また、阿部寛はその身長から見ても、吉瀬美智子の相手役としてはまさにうってつけと言え、加えて、自分では何もできないだろうと津川雅彦に詰られると、カッとしてピストルを発射してしまうのも、彼ならそうしかねないと観客を納得させるものがあります。

 ただ、この映画の配役で問題なのは玉山鉄二ではないでしょうか?吉瀬美智子と阿部寛が綿密に立てたはずの計画をめちゃめちゃにしてしまう重要な役柄にもかかわらず、とらえどころがない茫洋とした感じで、こんな訳のわからない雰囲気を持った男が警察官の中にいるとはとても思えないところです。
 としても、その彼と親密な女を演じる北川景子の方は、『花のあと』や『瞬 またたき』とはまただいぶ違った面を見せてくれて、これからの活躍が楽しみとなります。

 このほか、『悪人』で殺された佳乃の父親役を好演した柄本明が刑事役として出演しています。

(2)さて、この映画では、玉山鉄二と北川景子のコンビが、突拍子もないことをしてしまうという要素もありますが、阿部寛が乗ったエレベーターさえ途中で止まってしまわなければ、殺人計画はあるいはうまくいったかもしれません。 
 津川雅彦の検死結果が出るまでには、海外に逃亡できていたでしょうから、ある意味で完全犯罪が成立する可能性がないわけではないでしょう。
 オリジナルの作品でもこの映画でも、ストーリーの中心になるのは途中で停止してしまうエレベーターだといえます。

 ただ、元の映画が作られた時代ならばともかく、現在の時点ではこの映画のような状況にはまずならないのではと思われます。
 下記(4)で触れますが、渡まち子氏が言うように、今やチョットしたビルであれば、エレベーターの内部を映し出す監視カメラが設置されているはずで、その中に取り残された人がいれば、直ちにガードマンが分かるはずです(そのビル内にモニターはなくとも、ガードマン会社の方にはモニターが置かれていると思います)。
 それより何より、現在ではどのエレベーターの上部にも緊急用のバッテリーが置かれていて、停電の場合には最寄りの階まで移動した上で止まるようにセットされているはずです。
 とすると、今回の映画の重要な前提(エレベーターの停止)自体がかなりアナクロということになってしまいます。

 なお、仮にエレベーターが停止せずに、阿部寛はすぐに自分の車に戻ることができ、その後も計画通りに事が運んだとしても、津川雅彦の死とほぼ同時に、その妻の吉瀬美智子と阿部寛とが失踪したとあれば、捜査当局に疑いの目で見られるのは必定で、結局は、検死結果と合わせて国際手配されてしまい、そんなに遠くない時点で御用となることでしょう。

(3)エレベーターの話が出たところで、すでにあちこちのブログでなされているでしょうが、念のためオリジナル作品とリメイク映画とを比較してみましょう。



 ですが、なんといってもジャンヌ・モローが他に代え難いほど素晴らしいとか、マイルス・デイビスのトランペットにとって代わるような映画音楽など考えられない、ルイ・マルという25歳の新進監督の映画に対する新鮮な取り組み方がよかったのだ、そもそも映画が公開された1958年という時代、それにその時代のパリという点が重要なのであって、そこを外したら話にならない、などなどと訳知りに言ってみても始まりません。そう言うくらいなら、無理してこのリメイク作など見なければいいのです。

 ここでは、『十三人の刺客』についての記事の(2)と同じような視点から、ごく簡単に見比べてみることといたします。

a.現代性の取り込み
 1950年代のパリから今の日本(横浜)に舞台を移していますから、まさに現代化を行っていると言えるでしょう。
 ただそのことによって、他の点でも変更せざるを得なくなってきます。
 たとえば、が重要な凶器となるために、主な登場人物はその扱いに慣れている者とする必要があります。まず、オリジナル映画のジュリアン(主人公カララの愛人)はインドシナ戦争から帰還した元兵士ですが、今回の時藤隆彦(阿部寛)は、国際的に活躍する医師という設定です。
 また、車を盗む若いカップル(元の映画では、チンピラと花屋の店員)の職業も、今回の作品では警察官と美容師に変更されています。
 日本では、一般人が銃に手を触れることは先ずあり得ませんから、これらの改変はどうしても必要でしょう。
 ただ、時藤は、海外の危険地帯で銃に触れたことはあるにせよ(オリジナルのジュリアンほど慣れているはずはないと思われますが)、日本において日常的に銃を所持しているわけがありません。そこで、「魔女からのプレゼントだ」として拳銃を阿部寛に手渡す役目の第三者がどうしても必要になるのでしょう。ただこうすることによって、完全犯罪が綻びかねない要素が予め計画に取り込まれているわけで、見る者には酷く不自然な印象を与えます。
 また、警察官という設定は、もうひとつの犯罪を構成する上で打って付けと言えますが、それを重大なものとするために、頭の壊れた酷くおかしな警官に仕立て上げる必要が出てきてしまいます。
 すなわち、一人で複数のチンピラに立ち向かうことによって拳銃を奪われ、その拳銃を奪い返すために、時藤の車を盗むだけでなく、チョットしたことでキレて暴力団の親分とその情婦を射殺してしまいます。これらはどう見ても警察官の行動としては常軌を逸していると思えます。

 なお、渡まち子氏は、「彼らの存在が、やがて完全犯罪を突き崩すきっかけになっていく展開になるためには、車を盗むというシンプルなアイデアだけで良いのに」と述べています。確かにそうに違いありませんが、この作品は、吉瀬美智子と阿部寛によるものと、玉山鉄二と北川景子によるものとの二つの類似する殺人事件が必要不可欠であって、それぞれの事件の特質が、二つの事件が並行して起きることによって浮き彫りになるという点が重要なのだと思われます。単に、前者の事件の全容を解明するだけというのであれば、至極凡庸なサスペンス物にしかならないのではないでしょうか。

b.より合理的なものに
 元の映画のジュリアンも今回の映画の時藤も、手すりから垂れ下がったままになっているロープを取りにビルに戻りますが、元の映画の場合は、それがなぜか自然に落下してしまうのに対して、今回の映画では、阿部寛がきちんと取り外してから、エレベーターに戻ろうとします。
 錨付きのロープが、自然に外れることはあまり考えられないことから、今回の映画の方がヨリ合理的と言えるでしょう。
 それに、オリジナルでは、朝になってエレベーターの電源が入ると、ジュリアンはロープのことなどなかったかのように、スグニ1階に下りて待ち合わせ場所となっていたカフェに急ぎます。
 リメイク作では、阿部寛は、手にしていたロープを通りかかった川に投げ捨てます。この点もオリジナルよりもずっと合理的な行動と言えるでしょう。

 とはいえ、重要な役割を果たすカメラについては、今時、フィルムの入ったものが時藤の車においてあるとは考えにくく、ただそれがデジタルカメラだとしたら、ストーリー展開で必要な写真屋のシーンが不要になってしまいます。 まあその点はさて置き、フィルムの入ったカメラだとしても、今時の写真屋が、お客から頼まれたにすぎないフィルムを、あのようにわざわざ大きく引き伸ばした上で定着液に浸したりして現像するでしょうか?

c.面白さ・迫力の増加
 今度のリメイク作は、できるだけ忠実にオリジナルを再現しようとしていますから、面白さとか迫力が著しく増加するなどといったことはありません。
 ただ、元の映画では、フランス映画に疎いせいで、『突然炎のごとく』などに出演しているジャンヌ・モローくらいしか分かりませんが、今回の映画では、阿部寛に射殺される会長役の津川雅彦と言い、暴力団親分とその情婦を演じる平泉成とりょうと言い、刑事役の柄本明と熊谷真実と言い、著名な俳優がふんだんに登場し、映画を盛り上げています。
 としても、津川雅彦と平泉成、また玉山鉄二とりょうとがお互いによく知る中だったという複雑な設定にまでする必要があったのか、という点に関しては疑問です。

(4)映画評論家は、この映画に対して総じて辛めです。
 前田有一氏は、「オリジナルのルイ・マル監督のご子息が協力し、それを受けたスタッフもきっと原版のムードを忠実に再現しようと苦心したのだろう。舞台となる古びた建物も見事な建築だし、それなりにいい雰囲気は出している。しかしながら、いかにもお芝居でございといった古典的な演技は、サスペンス映画にスリルを求める人には物足りない。殺人まで決意する男女の情念のようなものも、美しい画面構成と様式美に隠れて見えてこない。優等生が古典を器用に再現したような、おとなしい映画になっている」として40点を、
 渡まち子氏は、「この映画の最大の失敗は、時代設定を現代に置き換えてしまったことだ。携帯電話は置き忘れることで、オールドスタイルのエレベーターがある建物は、横浜に実在する風情あるビルを利用することで何とかクリアしている。だが監視社会の現代で、こんなセキュリティの建物があるだろうか?エレベーターの中も社長室にも、ビルの入口にも、どこにもカメラがないというのは、いくらなんでもありえない。無理に現代に置き換えることとオリジナルに忠実であることは、この犯罪では両立しない」として30点を、
それぞれ与えています。





★★★☆☆




象のロケット:死刑台のエレベーター


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2 コメント

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時代と設定 (KGR)
2010-11-06 09:15:47
毎々TBありがとうございます。
さて、設定上の無理と言うかこじつけと言うか、いちいちごもっともですが、映画のような古いビルで渋ちんオーナーであれば、カメラも付けず、おそらくは電気系統も古いまま、主電源断で全館停電もありうると思えます。
また写真の件も、殊更カメラ好きを強調し、マニアックなカメラ屋にしていますので、お客に内緒で引き伸ばしすることは十分あり得ます。
しかし、いずれも説明不足で拳銃の件もそうですが、ストーリーに合わせて無理やり設定した感は否めません。

肝心のストーリーについても全体にやや情念が希薄な感じがします。

エレベーターが止まらなかった場合の犯罪露呈については、警察の初動捜査次第でしょう。

最近の新潟県警のひき逃げ見逃し、神奈川県警の風呂での溺死殺人の見逃しを考えると「ばれない」可能性は十分ありますが、そんな設定や展開の映画、小説を作ったら大ブーイング必至でしょう。
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考えの浅さが目に着く展開 (なにか深度らー)
2010-11-11 23:16:36
  もとの映画はフランスの名作だそうですが、とくに観ておりません。これを観ようと思ったのは、ほかに見る映画がなかったのと、「yahoo!!映画」での評価があまりにも低く、どうしてそのように低いのだろうと思う、逆の意味での野次馬根性があったからです。
   私は、原作の映画や小説がある場合、これらを原作と比較するような気はまったくなく、新作をなるべくそのまま素直に受けとめてということを基本的に考えています。本作についていえば、実のところ、まぁまぁそれなりに楽しめたし(テレビ・ドラマならまぁまぁか)、総じて結構、豪華な配役であって、北川景子たんも登場したのですが、登場人物の行動があまりに計画性がない、刹那的な判断で闇雲に動きすぎ、それら動きの殆どが悪い方向に関わっていきますから、登場人物の皆が、「頭が悪すぎ」と評価できるかもしれません。主人公は曲がりなりにも知識階級に属するのです。どうして、重大犯罪に対して、もっと考え抜いた行動を取らないのでしょうか。
   ということは、シナリオライターないし映画製作者の頭が悪いということにもつながりそうです。折角、よい原作があったということであれば、その内容を十分練り直して現代風にアレインジをして、仕上げてほしいものです。吉瀬さんも、もう少し魅力的な悪女になれないのでしょうか。
   舞台が横浜になっており、横浜港の古い建物も少し映ったように感じ、上記問題点もなるべく善意に是認すれば、あとは自分も少しバカになって、娯楽映画として楽しんだと言うことでしょうか。
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