駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

怒りを忘れたカナリヤは

2011年06月21日 | 政治経済

 

 歌を忘れたカナリヤは象牙の舟に銀の櫂と随分暖かく丁重に遇され、忘れた歌を思い出すようであるが、怒りを忘れたカナリヤ(民衆)は冷たく粗雑に扱われ、仮設住宅に入れば食糧支援は打ち切られ、義捐金を貰えば生活保護が打ち切られる木に竹を繋ぐ扱いで、歌を思い出すどころか息も継げない。

 諸外国が東北被災民の粛々とした従順な振る舞いに賛嘆の声を上げたが、それは怒りを忘れたからではないはず、賢明だったからだと推測する。

 安全な対岸に座して打ち出される現状に合わない杓子定規で非効率な対策や、壊れた原発で放射能を浴びる作業員の杜撰な健康管理に、怒りの声を上げなくては復興が上滑りになってしまうし、今後の安全対策もおざなりなものになってしまう。マスコミはもっともっと、こうした実情を大きく粘り強く報道しなければ、存在意義が薄れる。経団連会長に遅れを取るようでは二流の業界紙以下と申さねばならない。

 草の根の民に依る汗の滲んだ復興を、俺の頑張りの効果が出たなどと菅に自画自賛されては鼻白む。国民の冷静な怒りの声を中央に響かせ、現状に則した合理的で抜本的な対策を後押ししたい。

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