与謝野大臣が原発事故は神の仕業で人事を尽くした東電には賠償責任はないと主張して枝野官房長官と対立したと報道されている。神様も迷惑しているだろう。悪魔の仕業と言うべきで、神の仕業と言うところに明らかな意図が透けて見える。これは東電に賠償責任が生じては困ると考えて導き出した飛躍免責言説で、悪魔の仕業と言っては効果が少ないため神様を持ち出したに過ぎない。結論から後付けされた飛躍理論に目眩まされてはならない。
そういえば菅総理も歴史の判断を待つなどと同様の目眩ましを連発している。歴史の判断を先取りする御仁には歴史が片腹痛いと笑っているだろう。
西岡参議院議長の直言にも内容をさておいた立場を弁えろ式の批判が閣僚から相次いだようだが、これも一種の飛躍批判で問題を避けている。参議院議長として異例な行動としても、正式な手続きで選んだ議長をないがしろにすることで、指摘された問題の内容を無視するのでは、政治家の職務放棄だ。ますます政治家の存在意義と信用がなくなる。尤も、元々大してあるとも思えないのだが。
政治家のはぐらかしと手前勝手には愛想が尽きる。神様を悪者にしたり、歴史を先取りしたり、手続き論に終始したり、ひょっとしたら政治家の半数は悪魔の使いなのかもしれない。