玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*秋の七草

2011年08月29日 | 捨て猫の独り言

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 梅雨明けに咲き始めた「おいらん草」は再生を繰り返しいまだにその容色は衰えることもなく咲き続けている。長く楽しめますよと教えてくれたのはこのことだった。それにくらべてほぼ同時に開花した隣りの「たいまつ草」の白い花はほどなく茶褐色に変色し葉を残すだけになって久しい。玉川上水の野草ゾーンにはワレモコウを多く見つけた。クルミの木の下で見上げると豊かに実ったクルミを確認できる。(写真はハギと蝶)

 秋になっても私のいまのところの関心事は囲碁といってよい。幸いにも私が習得すべき囲碁の基本事項は山ほど残っているから飽きるということはない。9月1日からは三大タイトル戦のひとつ名人戦七番勝負が始まるのも楽しみだ。勝負といえばマリナーズのイチローの200本安打の記録達成なるかどうか注目だ。29日現在では、これまでのペースで安打を重ねると仮定すればシーズン終了時は186本で記録は途絶えるという計算になる。残り30試合で49本の安打を打たねばならない厳しさだ。

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 「萩の花 尾花 葛花 なでしこが花 をみなへし また藤袴 朝顔が花」これは秋の七草の由来となった山上憶良の歌である。野山を駆け巡る子供達に秋の七草を教えるために作ったという。日めくり万葉集という番組において、この歌ではデジタルアーティスト季里さんが登場してつぎのように発言している。「花の名前がズラズラとあってなんとポップな歌でしょう。すごくカラフルな歌だと思いました。さらっと並べただけに見えてなかなか苦労した技巧的な歌だと思います。無邪気な作品といわれる私の作品とそのへんは共通していると勝手に思っています」(写真はアカボシゴマダラの産卵)

 玉川上水ではナデシコはすでに終わった。昨日の散策ではハギがぽつぽつ咲き始め黄色の蝶が蜜を吸っていた。オミナエシは今が盛りだ。クズの花はまだ見ることができなかった。そのあと白露にはススキ、最後は降霜にはフジバカマと続く。クズは繁殖力が強く山野のいたるところに繁茂している。根は太く長く多量のでんぷんを含んでおり葛粉が採れる。玉川上水では管理が進み樹木が伐採されるようになってクズが少なくなった。蔓は成長すると20メートルにもなるという。秋の七草の中で私はクズの花の印象が希薄である。まもなく咲き始める紅紫色のクズの花を捜して歩こうと考えている。

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美味しさの秘密は熟度

2011年08月25日 | ねったぼのつぶやき

 私の住む街は春はウド、夏はブルーベリィや梨の産地としてこの辺りでは知られている。ソロソロ梨の摘み採りが始まり、道路沿いの梨園も早朝から梨販売所が賑わい始めた。かぶりつけば、ジューッと瑞々しい果汁が口一杯に広がり私の大好物の一つだ。

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 そんな折、畑作を始めたという中学の同期生から「梨を送る」と電話があり、翌朝早速千葉より宅急便が届いた。同封のメモに〇〇農園と記されている。夕食後タマタマ来訪していた客人と共に戴いた。う~ん!なんと甘~く・旨い梨だろう!。早々にお礼の電話をし、「農園を始めたの?」と聞いた。美味しさの秘密は完熟度が増すのを待って摘果し、食べ頃に届けられるよう発送するのだいう。成程そうなんだ! 気分は農園だと笑い、3本限定のオーナーとなり消毒・受粉・摘果・発送など全てを自分で手掛け、丁寧に育てているという。何の苦労もなくその恩恵に預れる幸せに感謝である。

 別の健康志向の旧友は、今年になって自分が愛用している味噌・醤油・酢をワザワザ我家宛に配送してくれた。これ又有難い話である。私も貰い受けた雲南百薬を春先株分けして上げていたのだが、今日のメールにお浸し、お汁の実、納豆和えにして食べているとあった。それらを味わいながら「これこそ真の贅沢・旧友なればこそ」とその客人は痛く感じ入り、共に賞味したのだった。たまの集散に時折のメール、稀にこんな風な贈り物の往来は心がホッコリとなる。(この倍量送られてきた)

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*確実な進歩に注目

2011年08月22日 | 捨て猫の独り言

 昼間の熱風と寝苦しい夜の連続の日々が、激しい雨を境にして長袖の服を慌てて引っ張り出すほどの冷気に見舞われる日々に変わった。蝉の声もよわよわしくなった。今年は咲かないのかと心配していたサルスベリもやっと咲き始めた。ひとときの冷たい大気をありがたく感受しよう。例年通りだと厳しい暑さはまた確実に訪れる。晴れ間にバリカンで庭の芝刈りをした。この夏に私が注目した新聞記事が2つある。それをつぎに書きとめておきたい。 

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 銀河系の中の太陽系またその太陽系の中の地球、さらに宇宙とはそのような銀河系が数多く泡状構造で存在し、それらはなお膨張を続けているという、とてつもない話のうちの一つである。1977年に打ち上げられたNASAの無人探査機「ボイジャー1号」がまもなく太陽系を出る。太陽からは、陽子や電子からなる「太陽風」が吹きだしている。ボイジャー1号は今年2月に太陽風の「風速ほぼゼロ」を観測した。地球から34年の旅を経て、人工物としては初の「太陽系脱出」となる。20年ごろまでは通信が可能で、太陽系を出た後も星間空間の状態について貴重なデータを送ってくるとみられる。

 2つめは、マリアナ諸島沖で天然ウナギの卵の大量採取に成功の記事である。09年に初採取した卵は31個だったが、今回は一度に100個を超す卵が得られた。塩分の高い水塊と低い水塊とが接する「塩分フロント」のそばで産卵が行われると推定。塩分フロントが西マリアナ海嶺と交わる北緯13度、東経142度の海域に狙いを定めた。ウナギは新月の2~4日前に一晩だけでなく連日産卵するとみられる。研究チームは来年は有人潜水艇を使い、親ウナギが実際にどのように産卵しているのか観察すると話している。

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今日も私は此処に泊るの?

2011年08月19日 | ねったぼのつぶやき

 午後4時15分前になると私はハーモニカ伴奏をする。帰宅前のひと時、職員も利用者の皆さんと共に童謡・唱歌・ナツメロ満載の歌集を前に歌う。4時キッカリになると、送迎順に呼名されイヨイヨ帰宅だ。タマタマ見舞いにいらしてた娘さんも帰り支度を始めると、呼名されなかったその方は娘さんに上記のセリフを発し、更に物悲しげな表情を見せ「貴女ももう帰るの?」と問う。

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 私が手伝っているNPOが、小規模多機能施設(単純にいえばお泊りの出来るディサービス)を併設して2ケ月目に入った。そこは本家から分家したような形で開設されたので、双施設共に定員を割り、交流を深める意味もあって時に午後の1~2時間訪問し合同で過ごす。本家は古アパートの一階部分を改装した物だが、ここは平屋全体をリニューアルし、ユッタリしてモダンな建物でアメニテイ的には抜群なのだ。幾多の期待を背負って発足した新施設は、果してご本人・ご家族双方のニードを等分に満たしてゆけるのだろうか?

 介護保険制度がスタートして10年余。今やこの制度なしの日本は考えられないし、そもそもが近未来を見据えての発足で「歩きながら考える」システムとも言えた。今その恩恵に浴している世代は時代の波をモロに被った人々といえよう。彼等は「親世代を看取ったのに、私達は今他人の手に委ねられようとしている」と感じられているでわ?。かって私も、老い・病んだ母を看る為何度も故郷の病院や施設を往来した。帰り際私の心はいつも乱れた。その方の視線は宙を浮いた母のソレと重なって切なかった。しかしどう身構えようにも今の今を精一杯生く・行くことしか出来ない。

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*立秋

2011年08月15日 | 玉川上水の四季

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 鈴木忠司さんの玉川上水オープンギャラリーでは、二十四節気の最初の日曜日にはミニ観察会が開かれる。毎回10名前後が参加するが、私はそれを「鈴木教室」と呼んで欠かさず参加している。ほぼ2週間に1回の割合で開かれるのだが、テーマにこと欠くことはない。これは日本の季節の多彩な変化がいかに刺激的であるかを示している。鈴木さんは二十四節気の中では8月の「立秋」に最も違和感があるという。それでも8月15日頃に庭で「リッリッリッ」とコオロギが鳴き、その鳴き声を聞いて立秋であることを納得するという。(写真は鈴木さん)

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 立秋の鈴木教室の樹木は「クサギ」だ。白い花にはアゲハチョウが集まる。この季節に蝶に人気のあるのが、野草ではヤブガラシ、樹木ではクサギとアベリアになる。クサギは花が終わると、美しい藍色の果実がつき、その実で絹の布を瑠璃色に染色できる。(クサギ)

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 立秋になると蝉しぐれも後半に入る。ヒグラシは夜明けと日没に鳴く、クマゼミは早朝から昼まで鳴く。アブラゼミとミンミンゼミとツクツクボウシは朝から夕方まで鳴いている。クマゼミは日本で最も大きな蝉で西日本に多い。鈴木さんが東京にいないはずのクマゼミの「シャーシャーシャー」という鳴き声に出会ったのは平成5年頃である。当初は津田団地で、その後徐々に玉川上水に広がった。(クマゼミ)

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 津田団地の図書館と公民館は私もよく利用する。敷地内には多くの種類の樹木がある。その全ての樹木に名札がついているのは好ましい。西日本に多いヤマモモ、クスノキが多くある。鈴木さんは団地が高層に建て替えられ時に植えられたこれら西日本の樹木の根に幼虫が付いてクマゼミが移入されたと推理している。団地にはクマゼミの大合唱を聞くために訪れたのだが、期待通りに鳴いてはくれなかった。静かに木に止まっているメスのアブラゼミやクマゼミを発見した。予定外であったがキアゲハとナミアゲハの幼虫の発見もあった。私一人では発見できないことばかりだ。(キアゲハの幼虫)

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木霊すら打ち返さざり夏山は

2011年08月11日 | ねったぼのつぶやき

 タイトルは、兄が敗戦後30年もの間作戦任務解除の命令を受けることができないまま、自らの救出作戦すらも陥落を図る作戦だとして闘い続けている弟に向け、ジャングルに向かって呼びかけている様を、彼等の老父が詠んだものである。あの救出劇をTVで目の当たりにしてから37年が過ぎた。「わが回想のルバング島」は、救出15年後、残地諜報活動記録と、救出の発端となった鈴木紀夫氏(86年雪男発見のためヒマラヤ行きで雪崩に会い死去)を始めとして、多大な労力を惜しまなかった日・比関係者、ルバング島民に対して改めてお詫びと感謝が綴られている。

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 当時52才だった彼は6ケ月後には、日本の騒ぎをよそに次兄在住のブラジルに移住された。ブラジルでの生活も丁度37年になり、日本での生活より長い事になる。長らく日・ブラジル間を往来し、青・少年達を育む活動をされていたが、最近いかにお暮らしか? かって100余日にわたる船旅の途上、恐らく乗船客達が残していったと思われる小さな図書館で、「わがブラジル人生」だったか開拓にまつわる本と、夫人の著した本を借りた。その時は「この上、何もここまで苦労することもなからろうに」と思ったものだ。

 私達は3・11後余りにも多くを失い、長らく呆然自失の状態を引きずっている。被害は未だ途上にありどこまで、いつまで続くか計り知れない。全てが未だに茫洋としている。そんな折ツラツラ背表紙を見遣りながら手にしたのがこの一冊だった。全ては任務遂行の為神経を研ぎ澄ましていたゲリラ戦の日々から、いきなり遭遇せざるを得なかった帰国と歓呼の渦。自決用の短刀を母親に返し、「花の山 歓呼の木霊帰り来る」と詠んだ老父母を振り切ってのブラジル行きは、困惑の最中になされた熟慮した末の決断だったのではなかろうか。

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*2年目の夏

2011年08月08日 | 捨て猫の独り言

 トマトとキュウリの収穫は7月で終わりその残骸はすでに畑から撤去した。トマトもキュウリも例年を上回る収穫量だった。例年と違う場所に作った幅一間半のニガウリネットは現在は手のひらサイズのニガウリの葉で覆い尽くされている。2階部分の高さまで伸びるだけ伸びて行き場を失い、今度は込駈け下り始めている。緑のカーテンはまもなく緑のじゅうたんとなる勢いだ。市場に出回っている細長の品種と異なり、ずんぐりむっくりのニガウリだ。ニガウリはある大きさになるとすぐに黄色に変色するので収穫時期が遅れないように気をつけねばならない。

 昨年は不作だった柿の木は小さな実をかなりつけているようだが、その小さな実のままで落下しているのを多く見かける。垣根ごしに向こうの道路に落ちて車のタイヤで粉々に潰されている。今年の収穫も期待しない方がよさそうだ。柿の木はその若葉を愛でるためにそこに在ると観念すべきだ。今年は梅雨時に庭の紫陽花が咲かなかった。またいつもならこの時期すでに咲いているはずの庭のサルスベリも今のところ咲いていない。いずれも剪定の仕方が影響しているのだろうか。

 私は完全退職して2年目の夏を迎えた。1年目の昨夏は現在はアトランタに住んでいる孫娘2人の子守に追われていた。5月から7月にかけてほぼ70日の不思議な日々だった。子育て中の若い母親の気持ちをよく理解できた日々ともいえる。その時の孫娘の遊び友達だった近所の幼い子供たちも見違えるほどの成長している。93歳の親父が死去したのも去年の7月である。私が2人の孫娘を連れて鹿児島に行き、元気な親父と曾孫との面会をすませて私達が東京に帰った翌日に親父は危篤となりその後まもなく死去したのだった。

 つい先日7月末に親父の1年忌のために単身で帰省した。1年忌といってもごく内輪の者が集まった夕食会という簡素なものだ。昨年から始まったのだが、帰省すると早起きして鹿児島市内を一望できる城山展望台のラジオ体操会に参加するようにしている。そこは鹿児島を訪れた人なら誰もが知る場所である。6時になると有志によってクスノキやシイノキの大木のある展望台広場が掃き清められる。ほとんどの人が一礼して広場に足を踏み入れる。体操の始まる6時半頃は太陽は桜島の北岳の左に山より高く昇っている。昨年思わずお歳を聞いた上半身裸でベンチで腹筋運動するあの人に今年も会えた。80歳を過ぎてますますご壮健である。

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原田芳雄・大鹿村騒動記

2011年08月04日 | ねったぼのつぶやき

 俳優・原田芳雄氏は気になる一人であった。最近車椅子上の人となり、試写会に現れた写真をみてその衰弱ぶりに私は驚かされた。彼の訃報に接したのはその8日後だったから、何としても完成作を見届けたいという執念が彼の命を保っていたのだろう。

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 その映画を先週末見に行った。長野県のある村で300年にも及ぶ歌舞伎公演が迫っていた。今や全国的規模で悩んでいる幾多の問題をここでも抱え、しかもリニア新幹線の誘致問題でもめにもめていた。何としても歌舞伎を絶やすまいと、主役を張っていた鹿料理店の「善」が村人の説得に回っていた。そこへかつて女房と駆け落ちしたおさな友達の「治」が、「コレを返す。俺と駆け落ちしたことも忘れ、オレのことを善さんと呼ぶんだ!」と連れて来た。取っ組み合いのケンカをしている男達を、18年間離れていた故郷で貴子は無表情で見ているだけだった。

 認知症の出戻り妻を抱え込まざるを得ず、女形役の負傷もあってイヨイヨ公演を断念せざるを得ない・・・となった折、貴子の口から歌舞伎の口上が憑いて出て・・・ツイに公演の運びとなった。原田自身が持ち込んだという企画を、監督、脚本、出演者とベテラン級の役者を揃え、大人の楽しめる悲喜劇コモゴモの娯楽作品に仕上げていた。病身をおしての撮影であったろうが、紅葉織りなす風景の中に、サングラスとテンガロンハットのいつもと変わらぬニヒルな原田がいた。葬儀の際、喪主の長男は「祭りの好きな人だったから三本締めで・・」と参会者に請い、皆は三本締めで送ったという。

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*死とは何か

2011年08月01日 | 捨て猫の独り言

 死後の世界があり、そこではかつて死別した人々に再会できると信じている日本人はどのぐらいいるのだろう。「あの世あるいは天国で会える」などの言葉は、私たちの生活でごく普通に使われている。物語を創出することでなにがしか心の安定を得ようとしているものと考えられる。私たちにとって死は限りなく身近なものであるにもかかわらず、それをとことん追求することを避けたいのは人情というものだ。ここでは死に関連する記述の中から、これまでに私が興味を抱いたものをいくつか取り上げてみたい。

 人は自分の死は経験できない。死が存在するときは私は存在していないし、私が存在するときには死は存在していない。つまり一人称の死は無いことは明らかです。現象的には生きているものは必ず死ぬということだし、論理的には一人称の私は死なないということです。私たちは現象と論理のはざまで生きているわけです。自分は死なない、死ぬのは肉体だと言い方が出てきます。するとこれにつられて、つい魂が死後云々というふうに言いたくなりますが、死が存在しないのだから、死後が存在するわけがないですよね。(池田晶子)

 たとえばじぶんたちは日々不在を体験している。かつて友達であった人がなくなっているとき、かつて父親や母親であったとか肉親であった人がなくなって、今や不在である。またかつていった土地、もう二度といくことのない土地もじぶんにとって不在である。このようにかんがえていくと、人間の存在が世界における不在を絶えず体験しながら生きているようなものだ。そして不在がすべてをおおいつくしたとき、それが死なんだとかんがえるようになって、じぶんは死とか老いとかにたいする恐怖や悲しみを和らげられるようになった。(ボーヴォワール)

 誰がいつ、どこで、どういう病気で、どういう死に方をするかは一切わからないし、はたからわかるはずはないし、ご本人もわかるわけはない。だから、そういうことについていうのは無駄である。生死は不定である。(親鸞)

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