玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*年末雑感

2009年12月28日 | 捨て猫の独り言

 独居する福島の知人の山家から帰宅した夜、すぐに無事帰着の報告をしましたが、その後2日ぐらいして再び向こうから電話がありました。山に雪が積もったということでしたが、どうやら私ではなく20数年ぶりに家人と話がしたかったようです。そして一昨日はがきが届きました。「Now to live,Here to live,This time to be.今、此所、此時・・・・・・・・よくきらった、またきられ」 そして私も今日次のような良寛の漢詩の読み下し文を引用してはがきを投函しました。「七十年はながかったのう 人の心に あきあきしたよ 雪ふる夜は 人影もなく 線香一本 わしゃ座禅くむ」 知人の生活ぶりに重なるものがあると思ったからです。

 この師走はこれまで故障や不具合をそのまま放置していた我が家の家具が数多く復活しました。まずはエアーマッサージチェアを出張修理してもらいました。つぎは流し台の部品のステンレスゴミ籠を注文し新宿まで受け取りに出向きました。文字板面照明付掛時計これはネットで購入しました。全自動風呂釜(外付けの湯沸かし)は部品交換の方法もありましたが新品購入を決断しました。この出費はかなり多額になりました。そしてNTT東日本の回線でテレビのデジタル映像を見る工事が半日がかりでありました。昨年の今頃はのんびり九州への各駅停車の旅を楽しんでいたことが思い出されます。

 テレビの画像がきれいになり喜んでいますが、最近はラジオ放送を聞くことも多くなりました。最近の目覚めは4時から6時の間です。今朝4時のNHKラジオ深夜便心の時代に登場したのは細川佳代子さんでした。知的発達障害のある人のスポーツ大会であるスペシャルオリンピック日本理事長です。95年の阪神淡路大震災が日本のボランティア元年だといいます。それまでボランティアという文化が日本になかったということでしょう。元総理の細川護煕氏の夫人で42年生まれです。競争原理とは全く反対の価値観にもとずくボランティア活動に取り組んでいます。

 26日未明に神奈川県小田原市曽我の雄山荘が消失しました。太田治子とその母である太田静子が暮らしたこともある家屋です。ここ10年ほどは手入れもされず、出入り自由で放置されていたということです。神奈川県ではこの2年半の間に歴史的建造物が消失する火事が5件も続いているそうです。この火事のニュースで太田治子さんのコメントが音声だけで流れましたが、今年6月の講演会で身近に接していただけに、彼女の表情まで思い浮かべつつコメントを聞いていました。この事件の背景に重大な悪意などが秘められていないことを念じます。                   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霜柱を踏み踏み学校へ

2009年12月23日 | ねったぼのつぶやき

 キッパリと冬がやってきた。朝刊取りに出た足元でサクッツ・サクッツと霜柱が音を立てる。かって子供の頃、舗装など思いもよらない田舎道の霜柱を踏みつつ、その感触とサクッという音を楽しみながら登校していた頃をいつも思い出す。水溜りの表面に氷は張っていたが、ツララ迄は見られない寒さは知れていようが、囲炉裏や火鉢の暖房しかなったその頃はヤッパリ寒かった。

Creek

 町には小学校は一つ。登校路は遠回りと近回りの2本あった。近道は川越が含まれており子供の足で4~50分はかかったろう。自分達が発見した探検路もあった。プールなどない時代、体育の水泳にも使われていたその川は、川幅の割には橋もなく浅瀬の方の飛び石を飛んで通学していた。ある寒い冬の朝下級生たちと学校に向かった。冷気の中で川にはゆらゆらと湯気が立ち登り、飛び石は薄氷が張ってきらきらと光っていた。

 先頭の私は逡巡したがエイッ・エイッツとばかりに飛び石を飛び渡り川にドボン! 次いで渡ってきた弟もドボン!。そのままの登校はならず姉弟2人は濡らしたズボンのまま引き返した。学校に近かった川から自宅まで歩く内に濡れたズボンはガバガバに氷り、寒さと歩きにくさで悲しかった。凍ったズボンは直ぐに脱げず囲炉裏端に突っ立ったまま少し暖を取ってから脱いだ。ほんのこの前の事だけど、半世紀前の昔話になってしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*阿武隈高地を訪ねる

2009年12月21日 | 捨て猫の独り言

024

 福島県の南端にある鮫川村は大部分が標高400mから650mに位置しており全体の約58パーセントが山林で構成されています。その村に私より5歳年長の知人が東京の家族と離れて一人暮らしをしています。そのうち自家製の濁り酒をさげて小平の私を訪ねるかもしれぬと四年ほど前に葉書が舞いこみました。しかしその後はぷっつり連絡が途絶えていました。今年の夏に東京の奥さんと連絡を取り電話番号を知ることができました。師走になって電話すると驚いたようすでしたが、いよいよこの15日に私の方から出向くことになりました。

 日暮里から常磐線で水戸へ、水戸と郡山を結ぶ水郡(すいぐん)線で5時間半の各駅停車の旅です。瓜連という駅名を「うりづら」と知ることなども旅の途中のささやかな慰みの一つです。知人は駅まで出迎えてくれました。なんと十数年ぶりの再会でした。互いに違和感は感じなかったようです。車で20分ほど登った小川にかかる橋のたもとの一軒家に着くと出迎えてくれたのは白っぽい赤毛の柴犬でした。3歳の雌で名は「モモ」です。縄文時代から日本人と生活を共にしてきた小型の犬です。軒先にはホオジロとヒワの小鳥籠が2個と、干し柿とトウガラシが赤々と吊り下げられてありました。

017_2

 ここでは60歳後半は若い方で、新たな納税者は村では大歓迎されます。村役場はこの家屋を紹介し住めるように改修するまで親切に手助けしてくれたそうです。知人がこだわったのが囲炉裏と薪ストーブです。土間に入ると広い四角の囲炉裏があり、その横の細い土間をさらに奥へ進むと薪ストーブが据えられています。炭は購入していますが薪は近くに間伐材が無尽蔵にあります。たまに古老がここを訪ね来るとやっぱり囲炉裏はいいねなどと言うそうです。薪ストーブの横の勝手口を出ると野菜畑が広がり、大根や白菜がすぐに収穫できます。ストーブの上で泥つきの長ネギを焼いてみそだれで食べると何とも言えない甘みがあります。

 住んでいる標高450mの土地は150坪あり買うとすれば50万円だそうです。小川の向こうの丘にこれもまた借りている畑もあります。そこでは、かぼちゃ、スイカ、トマト、サツマイモなどの収穫があり年に何度か車で東京に運ぶそうです。まるで参勤交代だよと冗談を言います。薪ストーブの横の土間で鍋一杯の煮ものと辛めのきんぴらなど心づくしの料理が出て、これまた自分で焼いたという陶器でどぶろくがふるまわれました。夏には近くの小川を1か月以上にわたり蛍が飛び交うといいます。私は来年の夏は蛍を見るために再びこの地を訪れることになるでしょう。コクのある濁り酒を飲みながら碁盤を囲んでいるとつい飲みすぎてしまいます。目覚めて廊下を歩いていると痛いほどの冷気を足元に感じていました。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*図書館の講演会

2009年12月13日 | 捨て猫の独り言

 《『赤毛のアン』が生まれるまで~村岡花子の生涯~》と題する講演が小平市中央図書館で10日に開かれました。講師は1967年生まれの村岡恵里さんです。昨年マガジンハウス社から『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』を出版しました。翻訳家村岡花子のお孫さんに当たります。都合により予約していた家人に代わって私が出席することになりました。平日の午前10時開演ということもあって男の出席者はわずか2人だけでした。この一年を振り返ると私が参加した3回の講演会の講師は太田治子、松本侑子、村岡恵里とすべて女性で場所はすべて小平市でした。

 村岡花子は1983年生まれで旧姓「安中はな」です。偶然にも「安中はな」の中にアンがあります。父親の計らいで10歳からカナダのメソジスト派教会によって設立された東洋英和女学院の寄宿舎生活が始まります。カナダのオンタリオ州発行の教科書が使われていました。寄宿舎の本棚は原書ばかり、それを後輩に翻訳して読み聞かせ「英語の花さん」と一目置かれる存在でした。後に翻訳することになる小説の原作者モンゴメリとほぼ同世代のカナダ人宣教師に厳しく鍛えられます。日曜日にはカナダの生活を思わせるケーキの甘い香りがたちこめたりしました。英米文学ばかりでなく佐々木信綱に師事していた柳原白蓮や片山廣子らとの親交を通して日本の古典にも目を向けた時期もありました。

 結婚や関東大震災や疫病による6歳の長男の死などを経て花子は翻訳を中心にペンで家計を支えていきます。太平洋戦争の2年前にカナダ人宣教師ミス・ショーがモンゴメリの『Anne of Green Gables』を46歳の花子に贈って帰国します。それは花子が過ごした学院での思い出のつまった玉手箱のような一冊でした。翻訳は戦争中も続けられ、敗戦の年に訳了しています。そして1952年の59歳の時に三笠書房から「赤毛のアン」として出版されました。原題は直訳すると「緑の切妻屋根のアン」です。花子は「窓辺による少女」にする予定でしたが急遽編集者や娘の提案を受け入れて「赤毛のアン」にしたそうです。「ありふれた日常を輝きに変える言葉」がちりばめられていると言われるこの小説を私も読んでみたいと思います。

 花子の書斎には額装された林芙美子の詩が掲げられていました。花子より10歳下の芙美子はよく「花の命はみじかくて苦しきことのみ多かりき」と色紙に書いたそうですが、書斎の額の中の詩は最後の4行が「花の命はみじかくて苦しきことのみ多かれど風も吹くなり雲も光るなり」とポジティブなものでした。その大森の自宅に残る花子の書斎が「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」として月に2回定員10名の予約制でオープンされています。孫の村岡美枝と村岡恵里が運営しています。受け付けはファックスかHPからのメールですが、申し込みが多く断ることが多いといいます。また日加修好80周年記念映画「アンを探して」が有楽町のシネカノンで上映中であることが紹介されました。この日図書館の一角ではいろいろな作家による「赤毛のアン」の翻訳本の展示がありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*W杯対戦相手国

2009年12月07日 | 捨て猫の独り言

 サッカーW杯1次リーグの組み合わせが決まりました。日本との時差が7時間のアフリカ大陸での大会は6月に始まり決勝は7月12日です。日本は6月14日カメルーン19日オランダ24日デンマークと戦います。サッカーも文化の一つであり、それぞれのお国柄が滲み出ると言われます。その意味で私にとって、ことさら興味深い3カ国が揃いました。

 オランダは海抜0m以下の地帯が国土の4分の1を占める平坦な地形で、自転車の利用が盛んです。この国の優遇税制による自転車通勤奨励政策は私の関心事です。江戸時代に長崎の出島を介した貿易を通じ、欧州の近代文明を蘭学という形で日本にもたらしました。大麻、積極的安楽死、管理売春などが許容されるなど、何ごとに対しても寛容な国です。

 11月25日付朝日オピニオン面の 「私の視点」 に駐デンマーク大使近藤誠一氏の投稿がありました。「デンマークでは独特な労働市場システムを労働者、企業、政府の3者が話し合ってつくった。再生可能エネルギーの導入には電力インフラの地域分散が必要だが、これも地域の住民主導で行われた。自分たちが納得してつくったモデルだから誇りを持ち維持するために協力する。有権者の80%以上が選挙で投票し、高い税金をいとわないのはそのためだ。ここで学ぶべきはこうしたデンマークのモデルそのものではない。国民自らがそれをつくったということ」 デンマークでも自転車道路の整備が進み、自転車用の高速道路もつくられるそうです。コペンハーゲンではこの7日から気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)が開かれています。

 02年日韓大会でカメルーン代表のキャンプ地となったのは大分県旧中津江村(現日田市)でした。元村長は日本の初戦の相手がカメルーンと聞き 「運命のいたずらか」 と驚いたそうです。同国との交流が続いている大分地方では応援するチームはカメルーンだそうです。いずれにせよ私はこれから半年間は、折に触れこの3カ国の文化に注目していくことになるでしょう。インターネットの恩恵に感謝しつつ、海外で生活する日本人発信の 「オランダ生活日記」 などのブログにアクセスすることがそのための強力な手段の一つです。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする