玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

44)女性国際戦犯法廷

2006年06月30日 | ピースボート世界一周

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 渡辺美奈さんはヴィデオ上映に先駆けて、「この法廷が行われた事を知らない人は挙手を」の設問をし、粗全員の手が挙がったのを見た後、上映を始めた。

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 国際実行委員会主催の日本軍の性奴隷制を裁く民衆法廷「女性国際戦犯法廷」は2000年に東京で開かれた。その日世界の報道メディアが参加しこの事実を報道したが、日本のメディアは殆んどいなかったという。そういう理由から日本でこの出来事を知る人は少ないのも無理からぬ事であった。

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 アジアをはじめとする南洋諸島の被害女性達は、当時の悲痛な経験を自ら証言していた。証言の途中で余りの辛さに意識を失う人も出た。それ程に女性への性暴力は心身を傷つけ、後の人生にも重い後遺症を残していた。性暴力が正式に裁かれたのは今回が始めてであったという。

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 各国の裁判官が日本の「慰安婦問題」に出した判決は「日本の有罪」で、正式な謝罪と賠償責任、再発防止を求めた。つまり今も尚、世界中で行われている戦時下の女性への暴力を犯罪として規範化することが目的でもあった。民衆法廷は国際世論を喚起するために市民が行う裁判で、ベトナム戦争時米国を裁いた「ラッセル法廷」の先例もある。法的な拘束力は持たないが、その後のベトナム反戦運動に大きな影響を与えたという。今まで断片的に見聞きしていた知識が私の中で繋がり、ただ黙して見入るばかりだった。3は証言する女性達。4はモロッコの市場で。

 

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43)ジェンダーについて

2006年06月28日 | ピースボート世界一周

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 エジプトからカサブランカの中8日で「女性への暴力のない社会を目指して」と題して、ジェンダー・プロジェクトが立ち上げられ、ワークショップが4回講演が2回開かれた。ゲストはロイス(ケニアの医師)サイダ(モロッコ)渡辺(日本)さんで、進行はboatスタッフのロア(フランス)と国際色豊かだった。

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 先ず事前に「ジェンダーとは何か」という初歩的なことから学び起こさなければならない状況だった。若い女性というだけで甘やかされがちな日本では、それも無理からぬ話。生物学的な性別を示すsexとは違い、社会的・文化的に形成される性別という共通認識を得て、やっとスタートした。

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 モロッコからは家庭内暴力=ののしる、殴る、火をつける、中絶させる、外出禁止。ケニアからは身近な人からのレイプ=犯罪との重複もあるが加害者・被害者が知り合い、目撃者が少ない、行政や警察が男性で文化度も低い、加えてHIVの問題。日本からは慰安婦問題=コミニュティ・国家が許した犯罪等と報告された。更に夜には別途スライドショーやドキュメンタリーもあった。

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 「国は違っても同様の事が世界で起きている普遍的な問題」として、折角異なる文化に触れるこの機会に、その国が持つ問題にも目を向けて欲しいと伝えられた。自分がその問題を意識していれば、ヒョットして身近な人がSOSを発していたら気付いてあげられるかもしれないとも。3、4はモロッコにて。山盛りのボリュームにため息。迷路の旧市街。

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赤ちゃんの微笑み

2006年06月26日 | 捨て猫の独り言

 生後一ヶ月の赤ちゃんは誰にとっても興味深い。8歳違いのいとこ同士が初めて対面した。小学2年生の双子の姉妹は狭い風呂場でいとこの赤ちゃんの湯浴みを見るのにも大感激していた。大人のわきのしたからおそるおそるたらいのお湯を掬ってかけていた。バスタオルに横たえて、袖を通してオムツでくるむのを手伝う。慎重派の姉はほっぺをつつくぐらいだ。勝気な妹は赤ちゃんを抱っこさせろと騒ぐ。長いすの上で首の座らない赤ちゃんを抱えるがどうにも力不足で不安定にのけぞる。見かねた母親が代わりに抱きかかえる。母親は母親で8年前の自分のことを思い出しているにちがいない。

 5月の連休にトマト、キュウリ、ナス、の苗を3本づつ植えた。経済性からみればお店で買うのが良い。庭のキュウリの収穫は間に合わなかった。もっともこの日は赤ちゃんが主役でキュウリどころではなかった。また今年は久しぶりに車庫の横にニガウリの苗を2本植えた。日当たりが良くて順調に育っている。このグロテスクな野菜はかなりの収穫が期待できそうだ。

 地球上の生き物について神秘を感じる。まだ見ぬ植物、動物、文化のすべてを知ろうとする気持ちは絶ち難い。それよりも私のこの腕の中にいる赤ん坊を見つめていよう。ほんの短い時間であるが、赤ん坊がまどろみの中でかすかに微笑むときがある。その愛くるしさは格別である。この世に生まれてよかったと言っているように思えてくる。私の抱き方では首の鍛錬にはならないと忠告される。しかしあの一瞬の微笑を見るために、まどろみの態勢になるように抱く。太古より母親達が特別に意図することもなく目撃してきたことである。

 教室で生徒が微笑むのは共に考えた難しかった問題が理解できた時などである。赤ん坊のあの原初の微笑みは何なのだろうか。

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42)講師と水・パの関係

2006年06月25日 | ピースボート世界一周

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 エジプトからエルサレム在住のNGO活動家山田しらべ氏と、写真家のエベリン氏が乗船してきた。船では先ず講座を担当する講師が乗船する前に、彼らの仕事の内容をビデオ等を通して船客に紹介し、講師(水先案内人)のパートナー(水パ)をも募るといった手法であった。

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 水パの具体的な仕事は、講師の紹介、宣伝や講座用の看板作り、人集め、時に劇出演や詩の朗読など講師の意図に沿って手伝い、補完、演出するといったもので、結果的にこれらの作業に参加した若者達は有形無形の知識や姿勢を対講師、仲間で学びあうことになる。(朝日新聞記者の伊藤氏。中南米・東欧の市街戦も経験)

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 彼女は最初にイスラエル・パレスチナ問題の発端に触れ、「ユダヤ人であるイスラエルの人々がパレスチナにイスラエルというユダヤ人の国家を建国した。その結果パレスチナ人は住む場所を失い難民となった。しかしイスラエル人は過去の悲惨な経験から今彼らが行っている事は迫害ではなく、自分達の生活を守るためという意識が強い」として入門編から、今なお盛んに行われ続けられている占領政策の実情迄を、水・パの作った地図を利用して解りやすくリアルタイムで話した。

 現地ではパレスチナ難民キャンプ地で米のNGOに参加し、悲惨な現状の中でも明るく生きる子供達を支援したり、女性の自立を促す為彼女らが育てたオリーブを使った石鹸作りプロジェックトなど、職業訓練を行っていると報告し船内で販売もした。Peace_boat_615_1 「宗教国家としてではなく、その地に住む市民皆が平和に暮らせる方法はないか」と語り問題の根深さと困難さに胸を痛めていた。一見平和な日本を離れこんな危険と思われる地で、平和を願って活動している日本女性に心からの声援を送るが、「青年期特有の純粋さで生半可に飛び込んではいけないよ」と水パに対し母親の信条も過る。3はパナマ運河。4は運動会の結果待ち。

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41)再び悲しいニュース

2006年06月22日 | ピースボート世界一周

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 サッカーのワールドカップが始まった。変則的な睡眠をとりながら、地図や国旗、日本の勝敗や星取表、LiveやReplayと慌しい日々を過ごしていたところへ、1人の水先案内人の死去を船友から知らされた。4月15日急性肺炎で享年57歳とあった。

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 最後の水先案内人林豪勲(リン・ハオシュイン)さんである。「啄木鳥人ISAO歌舞団」のメンバー5人は、フィジーから乗船してきた。台湾の伝統音楽演奏団として、先住民の一つであるプユマ音楽の復活、伝承活動を行っていた。キ・ツ・ツ・キとは事故による頚椎損傷で全身不随ながらも口に棒をくわえてキーボードを操作し演奏していた林さんを例えたものであった。

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 12月5日は鮮やかな民族衣装をまとった歌舞団の講座だった。林さんの姉きよみさんがユーモアたっぷりに原住民ダンス「恋する2人の踊り」を、足と足を合わせてキスを意味すると紹介し、酒を造りましょう、飲みましょうと、手つきも鮮やかに踊りながら聴衆を巻き込んで輪を広げていった。

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 講座の中で林さんときよみさんは日本語だった。台湾には植民地支配により日本人として戦地へ向かった人や、その時代背景を生きた人々がいる。先住民から日本、日本から中国と国は大きく変わった。27歳で事故に会い、「音楽との出会いで絶望の永く暗いトンネルを抜け出せた。音楽は2番目の命」と言っていたのに。風邪でもこじらせたのだろうか。障害を持つ体は抗い切れなかったのだろう。30年間一度も辛いと思った事はないと発言していたきよみさんの悲しみはいかばかりか・・・。写真1の奥が林さん。

 

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小さなこだわり

2006年06月20日 | 捨て猫の独り言

 私が勤め始めた頃、男子学生は詰襟の制服で黒革のカバンと黒革の靴であった。黒の制帽は殆んど着用されなくなっていた。そのうち黒革の靴はスニーカーになった。黒革のカバンの中は空でサブバッグが愛用されていた。服装の規則はなし崩し的に変化する。若者の感覚を後追いすることが多い。

 ある時型破りの2人の若い男性教師が同時にやってきた。そのうちの一人はリュックで登校することを認めるべきだと主張した。私は制服にリュックは似合わないと保守的な態度でその意見を押し止めた。そのことを記憶しているのは私自身だけ。2人はいろいろなことがあって評価相半ばのうちにほぼ同時に去った。今でも押し止めたことをほろ苦く思い出す。

 あれから十数年経過してカバンの規則は完全に自由化されている。今はさまざまなカバンが見られる。運動部の特注スポーツバックは目立っている。高校生はそれほどでもないが中学生にはリュック姿が結構多い。詰襟の制服は私立ということもあっていまだに健在。意外にも黒革の靴がスニーカーより多数派である。

 世の多くの女性が背中に蝉が止まった風情のバッグを背負った。今ではこれも下火になったようだ。スーツにネクタイ姿の中年男性がリュックを両肩にかけ、背に負う姿を見かけるようになった。私は長い間ショルダーバッグを持ち歩いていたが、それが使えなくなって偶然リュックを手に入れた。そしてなぜかリュックを両肩にかけることにかなりの抵抗感をもっている。だから片方の肩にかける。これは正しくない着用の仕方だ。そんな私が出会ったのが斜めがけの背負いリュックである。スリングバッグという。SLINGとはつり包帯の意味だという。江戸時代の旅装束にこんなのがあったなとひそかに気に入っている。

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40)船内で生演奏を聴く

2006年06月19日 | ピースボート世界一周

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 船内では生演奏会が何度も開かれた。当初はフィリッピンのミュージックリバー・バンドで、男性のみ5~6人の構成であった。ギリシアからはウクライナからやって来た女性1人(ボーカル)を含むステップ・バイ・ステップというバンドに変わった。

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 フイリッピンのバンドはアジア系なので親しみが持て、ウクライナのバンドはグラマラスな巨体から醸し出される声量に圧倒された。バンドリーダーのピアニストの音色は軽快でいてかつ重厚。各バンドマンの演奏や歌唱は見事なハーモニーぶりで、私たちを楽しませてくれた。

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 彼らは船会社主催のライブ、歓迎会、ダンスパーティの他にもバーで夜3時間ぐらい交互に生演奏をしていた。勿論客の注文にも応じていたのでレパートリーは広かった。そんな折昔懐かしい映画音楽等充分楽しめた。

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 下船数日前になるとアチコチで親交も深まっていた。ギタリストと親しくなった知人に同席を許されてお喋りを楽しんだ。彼は大の親日家で自分のギターは日本製だと言った。日本大好き人間のようで、「車も息子のバイクも勿論日本製だよ」と自慢していた。Peace_boat_1432 自分の出番を終えた後での小人数での飲み会だったがその席で、私を含むもう1人の女性のリクエストに応えて更に2~3曲演奏してくれた。彼女は感激の余り涙すら浮かべていた。kumarとはその前日だったか同席した。自分の役割を充分に果たしたkumarも開放感に満ちており満足そうであった。

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39)私の「ローマの休日!」

2006年06月14日 | ピースボート世界一周

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 2年前2週間の旅行をしたことがあったので、思い切ってツアーを離れて自由行動とした。(船との往復バス、ホテルは指定)さて、何処へどう行こうか?と思案する。荷物は預け、各人に手渡されたmapを元に自分の力で動き出さなければならない。

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 前回の旅行もパック旅行だった。自分自身で行動したわけではない。ともかくバスに乗ろう。ターミナルには国際都市ローマならではの路線の多さ。しかもイタリア語表示でどこへ向かうかも不明。第一自分が行きたい所も決まっていない。とりあえず目の前に来たバスに「エイッ」とばかりに飛び乗った。

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 バスは表示された郊外らしい方向に走る。心配になったら車中でmapを広げ、車中の婦人に何とか英語らしきものを操って現在地を尋ね、聞き取ってくれた車中の誰かが場所を指し示してくれる。走り過ぎてるようだったら降りて反対方向のバスに飛び乗り同じ事を繰り返す。そうやってジグザグしているうちに、パック旅行で来た場所に辿りついたり新たな場面に出くわしたり。一人なればこそ出来た冒険だ。

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 翌日は相部屋になった船友が同行させてという。1日目に冒険をしたので「何とかなるわ」とばかりに2人で出かけた。2日目は列車に乗ってみる事にした。映画「終着駅」のローマ駅。映画で見たように沢山の列車が並んでいる。日本の長距離列車はピカピカに光り、いかにも遠くまで走ると言う顔をしている。そんな訳でボロイ列車なら近場か?と二人合点?して乗った。

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 行けども行けどもひた走る。同席の紳士にどこへ向かっているのかと問うとナポリだという。ナポリから引き返しても間うらしかったが、小一時間かかる次の駅で引き返す事にして一安心す。その間私が「故郷は東洋のナポリ」と話したものだから、絵描きという紳士はベスビオス火山や地震に関係する地下プレートの図まで書き出して解説を始めた。当方はそんな悠長な気分ではなかったけれど・・。Peace_boat_387

 私が知る限りイタリアやオーストラリアなどキップの検札は緩いが、引っかかると罰金が大きい。遠出のつもりはなかったのでバレやしないかと恐れていた所へそれらしき人物。スルリと身をかわし貨車を移動して事なきを得た。女性に優しいイタリアならでか?兎も角も”ホッ!!”最後の一枚は安堵の図。

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記憶

2006年06月12日 | 捨て猫の独り言

 機械に例えていえば私の記憶容量は少ない方だ。以前からその自覚はあった。先週の土曜日のことである。隣町において数では女性が優勢で十数名が参加する親睦会があった。私は焼酎のお湯割をいただいた。ところが店を出るぐらいの時から後のことをまるで思い出せない。アルコールによる記憶障害だ。同伴者にはこの事実は伏せておくことにした。

 その翌日、娘が赤ん坊を連れて泊りがけでやってきた。わが子の誕生で種々の手続きに追われている最中である。帰り際に娘の健康保険証がないという騒ぎが起きた。そのうち思いがけないところから出てくるよと何か引っかかるものを感じながら娘に言った。

 3日後に娘は再びやってきた。「ほーら、ほらほら、どうしたのよ、どうしたの」 と娘の母親が赤ん坊をあやしている。私は背中でその声を聞いている。その声で30年ぐらい前のある瞬間がよみがえった。今思うになかなか上手な子育てだったよな。さて保険証は私の机の上の分厚い辞書の間から出てきた。出勤前のあわただしさの中で何かに押されてふとその気になって見つけた。挟み込んだ記憶が欠落していて、見つけるのが遅れた。何とも面目ないことである。

 土曜日の出勤の前に 「今日の5時にSさん夫妻と食事に出かける約束ですよ。覚えているでしょうね」 と声がかかった。生返事でやりすごす。そうだあの日は折りたたみの傘を持参した。そっと傘の所在を確認する。ほっと一安心して玄関を出た。

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38)「マイ箸」を持参する

2006年06月10日 | ピースボート世界一周

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 先日、知人の知人が又知人同士といったよしみで、11人での夕食会を楽しんだ。内6人がボートに乗り合わせたメンバーで、事務局の2人も含まれていた。私にとってはボート仲間とのお付き合いは2回目であったが、アチコチでも同様の集まりもあるようだ。

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 宴は久しぶりの再開を祝い乾杯で始まった。その時私はハッとした。事務局の2人がカバンから「my箸」を取り出したのだ。私は自分を恥じた。船内の多くの講座で学びを深めた筈だった。大きな環境問題でも自分にも出来る小さな事など・・。車使用を控え近場は運動を兼ねて歩いたり、遊歩道のゴミが気になり拾ってはいたが、「箸」はすっかり失念していたのだ。知識のための学習のみは恥ずかしい。習慣は恐ろしい。

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 その後、TVのクローズアップ現代でも割り箸高騰の問題を取り上げていた。船内でも学んではいたが、かって割り箸は間伐材を利用して森林を育てるためのものであった。今は世界のアチコチで木は切られ森は破壊に向かっている。Peace_boat211 塗り箸を再生するためには手洗い、消毒、乾燥、水など手間、ヒマがかかりコスト的には割り箸使用と変わらないという。費用の面の考慮だけでいいのか?いつまでも大量生産、大量消費を続けていいのか?と問いかけていた。kumar没後2ヶ月にならんとす。3、4はkumarが主催した語学コース対象者の学習小運動会、終了式のバック。

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