玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*墓石見学

2018年06月25日 | 捨て猫の独り言

 私の片道1時間ウォークには東西南北に4つのコースがある。繰り返し歩いてかなり定着してきた。東と西は木陰が続く玉川上水緑道コースなので、夏の日差しの日でもウォークを続けられそうだ。

 北へのコースの折り返し地点は小平霊園である。入り口付近にある芝生で近くの保育園の子どもが見守られながら遊んでいることが多い。ある曇り空の日に50区以上もあるうちの一般墓地である第1区を見学した。他には芝生、壁型、樹林、樹木、合葬式墓地がある。

 

 インドなどでは遺体を火葬にした後、遺灰を川に流したり、または遺体そのものをガンジス川に流し水葬にして墓を設けない。そういえば神道では人の死を穢れとする風習があるのか、神社には墓地がない。

 

 キリスト徒も、かつては教会内部に死者を納め、最後の審判時に復活することを待った。インターネットの普及で、ウェブサイト上に仮想的な墓を造り、そこで墓参や記帳ができるネット墓というサービスもあるという。

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*なみじゃない!

2018年06月21日 | 捨て猫の独り言

 土曜日は孫娘二人をどこかに連れ出すことをたくらむ。遊び場ガイドブックで調べたりする。曇り空の16日に杉並にあるというアニメーションミュ―ジアムに行くことにした。西武新宿線の上井草駅からバスで10分の案内だが、歩くことにした。バス通りを真南のJR中央線に向かって歩くと、アップダウンのくり返しだ。武蔵野台地の成り立ちについて考えた。

 目的地は青梅街道沿いの杉並会館だ。バスに一度も追いつかれることなく20分で到着した。ミュージアムは結婚式場である会館の3階と4階にあった。受付でもらったのは日本語を除いた五か国語のパンフだった。パラパラアニメをデジタル撮影してパソコンで見たり、アニメのキャラクターに声をあてるアフレコ体験もある。シアターでは大型画面でアニメ作品を上映している。(館長は鈴木伸一氏)

 

 ソーマトロープというワークシヨップに参加した。直径が9センチほどの円内に表と裏に違う絵を描いて両端の輪ゴムを回転させると、素早い動きに脳がついてゆけず、二つの絵が一つに見える目の錯覚を利用したおもちゃのことだった。孫たち二人はそれぞれ独自の図柄に挑戦していたが、私は目の前に置かれていた見本の一つを丸写しするという貧しさだった。

 無料で見学と体験ができるというのは驚きだ。パンフの最下段に「なみじゃない、杉並!」と日本語の小さな文字が並んでいた。まさしくこれは、なみじゃない。会館の向かい側にある荻窪八幡神社は参拝客が多い様子だ。そして帰り道の中間地点にある観泉寺に立ち寄る。その広々とした静かな境内では、手入れのゆきとどいた庭園の池に絶えず水が流れ落ちていた。曹洞宗寺院と知る。

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*子と子の子のこと

2018年06月18日 | 捨て猫の独り言

 市役所では孫のことを「子の子」と書かされる。45歳の娘は私が完全退職したころに渡米したから、あちらでの生活が9年ほどになる。渡米して間もなく離婚した。日本で生まれた二人の女の子は、現在は週末だけ父親と過ごす生活という。母親である娘はこれから先も日本に帰る気はない。

 娘は、なによりあちらでの生活が自分の性に合うという。社会の中にあるポジティブ指向がいいという。日本の大学ではチアリーダー部に所属していた。現在はアトランタに進出している日本企業に勤める。親としては親が真似できない、その行動力に脱帽するしかない。

 テレビの野球観戦で見る限り、日本のプロ野球と米国のMLBでは球場の雰囲気はかなり違う。日本の球場では強固に組織された応援団が存在して、絶えず一糸乱れぬ集団的な行動に観客を導く。観客の従順で親和的な雰囲気に私は多少の違和感を感じている。

 12歳と10歳になる孫娘は日本語で書く日記を宿題の代わりに提出して担任の先生のコメントを頂戴する。近所の9歳と8歳の男の子と毎日連れ立って小学校に通う。放課後は、その男の子たちの妹たちも加わって遊ぶ。こうした遊びがあることで日本での2ヶ月の生活が成り立つ。日本の同級生は、それぞれ忙しい。

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*納棺夫日記の著者

2018年06月11日 | 捨て猫の独り言

 奇妙なことが起きた。初めての行為だったが、新聞の意見広告を通りに面した生け垣に吊るした。国会前に集まろうの呼びかけだ。それが小雨の日にはがされて、ていねいに丸められて真下におかれていた。乾かしてシワをのばして吊していたところ、今度は縦二列に破かれてひらめいていた。(コヒルガオ、ドクダミ)

 

 親鸞の宗教に関心を抱く作家たちへの聞き書き集を読んだ。中でも「納棺夫日記」の著者である青木新門氏のものは、私の親鸞理解に役立った。映画「おくりびと」について、青木氏は強調した宗教と永遠が描かれておらず、着地点が違うから原作という文字をタイトルからはがしてくれと身を引いたという。

 親鸞には生と死の中間みたいなところに、あえて言えば「中有」という世界があって、そこを「第三の視点」として、その視点から生と死を客観的に見つめたはずだと思えてならないと言う。第三の視点に移行してしまった時、あらゆる生命が光って見えるという体験が生じ、あらゆるものに感謝したいという現象が成立してくる。

 親鸞の座もまた自我の座を否定した第三の視点と言える。「僧」にも「俗」にもスタンスを置かない眼から人びとを見つめてゆくともう善人も悪人もない。自らの生死のすべてを委ねて救いとってもらうという発想は自我の思想からは決して出てこない。親鸞には「とわのいのち」と「ふしぎなひかり」という志向性があり、阿弥陀如来の志向性そのものを授かって生きるという信心があった。

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*養老先生の本

2018年06月07日 | 捨て猫の独り言

 新聞の二つの意見広告に注目した。2日は沖縄意見広告運動(九期)の「あきらめない!命の海を壊すな!」は2面ぶち抜きだ。カンパしていたので拡大鏡で自分の名を確認する。3日には「ウソだらけの政治を変えよう」「6・10国会前大行動」だ。これは画版に画鋲で止めて、通りに面した生け垣に吊るした。こんなこと初めて試みる。

 

 養老孟子の「真っ赤なウソ」は宗教について述べた本だ。宗教とは「ウソから出たマコト」が私の答え。「真っ赤なウソ」をついてそれを一か所に凝縮してしまうと、残りは全部本当。見事に残りはリアリティーというものに変わっていく。これは別に悪いことではない。人間がそこから真実を知ることができるかどうかという話だ。

 キリスト教の教義の根本は「最後の審判」です。「霊魂の不滅」がないとキリスト教は成り立たない。変わらない私があると思う。これに仏教の立場から「それはおかしい」と声が出ないのはおかしい。「諸行無常」であって「無我の境地」なのだから。考えている自分はただいま現在はあるが、絶えず変わっていくものです。どれがお前だよという話になる。

 「自分とは何か」と言ったら「今座っている自分だけが私だ」という考えはあまりにも真っ当だから昔から言わないことにしているんですよ。人間の欲の中で一番大きなものは権力欲でしょう。人間は何事であれ自分の思うようにしたいという気持ちが非常に強いですから。その権力欲をほどほどに抑えなければいけませんよというのが仏教の本質だと私は思います。

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*菖蒲まつり

2018年06月04日 | 捨て猫の独り言

 アトランタからの直行便で孫娘とその母親の3人が成田に5月26日に到着した。2ヶ月にわたる喧騒の日々が始まった。今回は一週間の間をおいて6月4日から登校する。「学校に行きたくない」と言うが、それほど驚くべきことではない。

 登校する前のある日、二人を東村山市にある北山公園に連れ出した。週末の2日から開かれる菖蒲まつりの4日前のことである。東京と埼玉にまたがる狭山丘陵にはナショナルトラスト運動で「トトロの森」という雑木林が散在している。

 その狭山丘陵東端の八国山緑地と小川に囲まれた低地に北山公園がある。八国山の5月はヤマツツジ、北山公園の6月は菖蒲が見ものになっている。いずれも東村山市が手厚く管理している。我が家から2駅目の東村山駅で降りて徒歩で行ける。

 

 まつり期間の混雑を避けて来てみたが、期待にたがわず花はしっかりと咲いていた。近くの保育園児の集団や、程よい数の観客、開催準備の関係者の姿があった。青空のもと菖蒲に囲まれた別天地に別れて、近くの正福寺の境内を訪ねて帰った。

   

コメント (2)
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