玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*九州への旅②

2024年04月29日 | 捨て猫の独り言

 2日めは長崎県。九州新幹線は博多から鹿児島まで。「西九州新幹線」は2022年に開業し佐賀の武雄温泉が起点で、つぎの嬉野温泉から長崎へと向かう。博多から武雄温泉の間は特急「リレーかもめ」が結ぶ。この日から、ベテランのガイドさんが登場して案内してくれた。バスは嬉野市からトンネルを抜けて、大村湾沿いを長崎平和公園を目指す。公園広場では天を指す右手、水平に伸ばした左手の平和記念像に厳粛な気持ちになる。

 浦上は長崎の北に位置する農村だった。最初の浦上天主堂は禁制解消後、信者が浦上に戻り1914年(大正3)に完成させたものだ。長崎には広島の原爆ドームのような原爆遺構はない。「浦上天主堂」の廃墟は取り壊され1959年に旧天主堂の外観を模して再建された。かつて正面双塔にはフランス製の「アンジェラスの鐘」が設置され交差するように鳴り響いていた。原爆後は残った一つの鐘だけが右手の鐘楼に戻されて、今でも時を告げている。

 永井隆は長崎医科大学で放射線医師として勤務中に被爆し、重傷を負いながらも、被爆者の救護、原爆症の研究にあたる。随筆に「長崎の鐘」や「この子を残して」がある。その随筆は歌謡曲にもなり、映画化もされた。長崎の南の山手地区には幕末の開国後、1864年に竣工した「大浦天主堂」がある。日本に現存するキリスト教建築物としては最古で国宝に指定されている。宗教史上有名な「信徒発見」の舞台として、世界中にその名を轟かせた。

  

「グラバー園」は長崎に来住したイギリス商人グラバー、リンガー、オルトの旧邸や、市内に残っていた歴史的建造物を移築して出来た丘の上の公園である。長崎港を一望でき、対岸には稲佐山がある。その山からの夜景が素晴らしいと聞いた。この日の宿は、島原半島にある標高700mの「雲仙温泉」の「青雲荘」だ。開業して2年という新しさだ。源泉かけ流しの乳白色の湯に浸る。かすかな硫黄の匂いがした。雲仙温泉は古くから外国人避暑客向けのリゾート地として開発されたという。

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*九州への旅①

2024年04月25日 | 捨て猫の独り言

 「学ぶことの第一歩は旅することだ(吉田松陰)」。旅のあとさきに、よく地図と日本史の教科書を開く。高校まで鹿児島で暮らしたが、九州の近隣他県を訪れる機会は少なかった。4月16日から九州5県を回る3泊4日のパック旅行に参加した。旅行社のうたい文句は「嬉野・雲仙・別府温泉の名湯を巡る」だった。

初日は佐賀県。羽田を9:25に出て約2時間で九州佐賀国際空港に着陸。佐賀空港は県南部の有明海に面した干拓地に1988年に開港した。空港から北にある市街地へは麦畑の中を行く。麦の背丈は低く最初は稲かと思われた。そして佐賀藩十代藩主・鍋島直正の巨大立像に迎えられて、復元された「佐賀城本丸歴史館」に入ると、320畳の大広間に圧倒された。

   

 館内では「江藤新平の没後150年特別展」が開催中だった。江藤新平と後藤新平は混同しやすい。後者は関東大震災で壊滅的打撃を受けた東京の復興に貢献した政治家だ。前者は佐賀藩士で「わが国近代司法の父」と称される。征韓論に敗れ、西郷隆盛らと共に下野し「佐賀の乱」で刑死した。渋沢栄一は「学問があって良くものを知っていても、礼をわきまえなかったばかりに身を滅ぼした男」と評している。

 つぎの見学は有明海に面した鹿島市にある歴史的町並みの「肥前浜宿」だ。そして初日の宿は嬉野温泉の「和多屋別荘」だった。二万坪の広大な敷地の一部に黒川紀章設計のタワー館が聳える。タワー館の外壁には丸に十字の薩摩藩の紋が掲げられている。かつて薩摩藩の常宿だったという。佐賀藩は幕末において大砲を鋳造するための反射炉築造など近代化のトップランナーだった。また鍋島正直と5歳年上の島津斉彬とは母方のいとこ同士である。現在はここで将棋のタイトル戦が行われることがある。館内は日本の伝統美、文化、芸術、芸能を詰めこんで、他に類を見ない異色の旅館だった。

 

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*弟は僕のヒーロー

2024年04月22日 | 捨て猫の独り言

 江戸城の修改築が行われた際に、城を漆喰壁にするために、青梅の成木地区の良質な石灰が使われた。江戸に成木から石灰を運ぶために一直線に新しく整備されたのが青梅街道だ。私の住む小平はその石灰街道の中継地で、今でも街道沿いに上宿、元仲宿などの地名が残る。私には都営交通のフリーパスがあるので、青梅に出かけるにはJRでなく都バスというわけだ。

 4月最初の土曜日に「シネマネコ」の「弟は僕のヒーロー」を観に出かけた。我が家から最も近い都バス梅70の停留所は「中宿」で、徒歩10分だ。バスは新青梅街道ではなく、道幅の狭い青梅街道を走る。東大和市、武蔵村山市、瑞穂町を通り抜け70分かけて、「中宿」から60番目の停留所である青梅の「西分」で降りる。車窓に江戸の面影を探しながらのバス旅だ。

 映画館は、バス停から5分もかからない。旧都立繊維試験場として使われていた木造建築を改修したものだ。この日は10:00 PERFECT DAYS(役所広司)、12:25 弟は僕のヒーロー、14:30 窓ぎわのトットちゃん 16:45 オスカーピーターソン 18:25 カムイのうた のブログラムだ。建物の中は、明るくお洒落な感じがした。今回はまずは下見ということで、カフェの利用は次回以降に持ち越しだ。

 

 ダウン症の弟と兄のYouTube動画、つまり実話から生まれたイタリア映画だ。5歳の兄ジャックは初めてできた弟に大喜び。しかし両親から、弟ジョーは「特別」な子だと聞かされる。そのうち特別の意味を知るようになり、弟を恥ずかしいと思うようになる。そんな彼が、家族の愛に包まれて本当に大切にすべきものに気づくまでの成長を描いた青春物語だ。前に観た「コーダあいのうた」と同様の感銘を受けた。

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*全国知事アンケート

2024年04月15日 | 沖縄のこと

 4月8日の朝日新聞に、つぎのような記事が掲載された。朝日新聞と沖縄タイムスが共同で、沖縄を除く46都道府県知事に 問1沖縄の米軍基地負担は軽減すべきか 問2代執行した国の対応は適切か 問3辺野古移設計画は適切か についてアンケート調査をして集計した。問1について21人が「軽減すべき」と答えた。《無回答の多いことに驚きため息》。問3については43人が適否の判断を示さなかった。(能登地震の馳浩知事のみアンケート未回収)

 《「安全保障は国の専管事項で回答を控える」として、何らかのコメントを添えるもことなく、けんもほろろの回答は、茨城、千葉、東京、新潟、富山、京都、奈良、和歌山、山口、徳島、香川、福岡の12人》これに対して、元高知県知事の橋本大二郎氏は「国防や外交に関することでも地方はきちんと意見を言うべき」と述べている。

 さらに続けて橋本氏は「普天間飛行場周辺で住民を巻き込む事故が起きたら、沖縄の米軍基地機能だけでなく日米安保体制そのものが揺らぐ。それにもかかわらず、政府には危険性を取り除くための真剣さが見えない」と。アンケート後に、積極的な反応があった滋賀と岩手の知事に国と地方の関係などについてかさねて聞いている。滋賀の三日月大造知事は「沖縄に偏る基地のありようを何とかしてほしいと求めることは対等な日米関係として大事なこと。そういう意味で、日本はまだ独立国になりきれてないと思う」と述べた。

  

 岩手の達増拓也知事は、きわめて明解だ。「戦後79年が経ったにも かかわらず、外国軍の基地が造られることは基本的にあってはならない。移設計画は2006年の日米合意で決まったが、米側と再協議すべきだ」「代執行は非常に中央的で強権的な運用がなされた。県民や国民が納得するような政治的努力が求められるのに、行政技術論で進めてしまった」「多くの知事が安全保障は国の専管事項と答えを控えたが、もちろん、発言しない自由はある。ただ、私は選挙で選ばれた政治家として自由に発言する」かくごとき知事はたったおひとりだった。

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*青梅市で映画を

2024年04月08日 | 捨て猫の独り言

 テレビは3月20日に小田原駅前に「小田原シネマ館」がオープンしたことを伝えていた。座席数40のミニシアターだ。駅前に映画館ができるのは21年ぶりという。資金集めから始め、物件探しや運営方法の勉強まで蓑宮武夫氏と古川達高氏の二人で進めてきたが、昨年の10月に蓑宮氏が急逝する。テレビ画面はオープンの日に、劇場最前列の座席で蓑宮氏の遺影と共に座る古川氏の姿を写し出していた。

 その後、偶然にも図書館の新刊コーナーに蓑宮武夫著「いまこそ人生で大切なことは映画から学ぼう」を発見した。蓑宮氏は私と同じ年の生まれと知る。氏は私財を投じて、まちなか映画館をつくると腹をくくる。そのために各地を取材した記録が第5章の「まちなか映画館で地域が元気になった事例」だ。蓑宮氏は11冊めとなるこの本の出版の直前に旅先のメキシコで死去した。その取材した一つに青梅の「シネマネコ」があった。

  

 青梅には50年間映画館が存在していなかった。青梅生まれの映画看板師が駅前商店街に自らが手がけた映画看板を掲げ続け、青梅はレトロな「映画看板のまち」として知られるようになった。残念ながら看板師は2018年に死去している。そしてコロナ禍の真っ只中の2021年に座席数63の「シネマネコ」が開館した。キーパーソンは青梅出身の菊池康弘氏だ。なぜネコなのか?青梅は昔から「ネコのまち」として知られていたという。

  

 ネコの謎解きはつぎの通り。青梅は江戸時代には交易のまちとして多くの人が行き来していた。養蚕がさかんで、織物も有名、人や物が集まるところには自然とネズミが増え、猫を飼う家が多かった。また商売のまちだから店先には縁起物として招き猫が置かれていた。このまちにはいつも猫がいたのだ。これまで私は映画は立川に出てシネマ・コンプレックス(シネコン)で観ていた。これからは愛用の都バス・梅70に乗り青梅の「シネマネコ」に行く楽しみもできた。上映作品のチェックが欠かせない。

 

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*「無知の死」を再読

2024年04月01日 | 捨て猫の独り言

 つい最近、2021年10月出版の島田博巳著「無知の死」を読んだ。読み進むんでまもなく、これは以前読んでいると気づいた。それでも最後まで読むことにした。そして、この本は第一章の「人はどうやって死んでゆくのか」だけを押さえればいい、というのが二度目の読後感だった。あとの章には死生観とか安楽死などが取り上げられている。

 このブログ内で検索してみると、2021年の12月に私はこの本について「死生観」という題で投稿している。時を経れば読後感も違ってくる。私の父親は14年前に死んだ。病院に駆けつけたときは回復の見込みのない昏睡状態という状況だった。

 

 第一章にある医者の自然死の話。「お別れの時までの目安として、食べられなくなってからは1週間、尿が出なくなったら2~3日です。臨終の場面では、のどの奥がゴロゴロとなることがあります。呼吸が不規則になります。顎だけでしゃくりあげるような呼吸を”下顎呼吸”といいます。亡くなる直前のサインです。このとき、本人は苦痛を感じていないので見守ってあげましょう」

 立花隆が父を看取るときの話があった。「いよいよ危ないという時に、病床の傍らに僕はいました。そして彼の喉仏が上がったり下がったりするスピードがだんだん遅くなって、ついに止まるところを目撃したのです。散々人の死をみたり書いたりしてきましたが、人間が息をひきとる瞬間をじっくり見つめたのはこのときがはじめてで、死とはこういうものかと思いました。そして臨終を細部までウオッチしたとき、そこになにか恐ろしい瞬間があるわけではないと思いました」

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