玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*玉川上水の落葉

2010年11月29日 | 玉川上水の四季

 日めくり万葉集という番組が5本まとめて再放送されたものを録画して、ときどき見る。ある日の番組は春山と秋山のどちらに趣があるか、というテーマであった。天智天皇が問いかけて論争が湧き起こったという。春山に咲き乱れるたくさんの花のあでやかさと、秋山の多くの葉のいろどりのどちらがいいと思うか、という問いかけである。なかなか決着がつかないところに、額田王(ぬかたのおおきみ)が歌で判定をくだした。その歌の最後は「秋山そ、我(あれ)は」である。

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 11月22日から12月6日は二十四節気の小雪である。この節気の玉川上水散策のテーマは「フユシャクと紅葉」だった。冬シャクを初めて知る。小さな蛾のことだった。これまでも出会っていたはずで、こちらが認識できなかっただけのことだ。晩秋から早春にかけての厳冬期にのみ出現するという。小春日和の好条件もあって、懸命に舞う小さな蛾をたびたび見かけた。落葉を踏みしめて歩く。ある木の下で落葉を拾いその葉の特徴を覚えるように努める。クヌギ、コナラ、ケヤキ、イヌシデ、エゴ、エノキ、ヤマザクラなどの紅葉した落葉を拾ってしばし眺めることをくりかえす。

 玉川上水緑道では上記のような落葉樹が多い。その林の中でところどころに出現するカエデの紅色やその繊細な葉形はやはり人目をひく。数が少ないだけにカエデを愛でる気持ちも強くなる。前日テレビで河口湖などのカエデのトンネルの映像が紹介されていたが、どっこい玉川上水でも十分秋を堪能できるのである。そして秋がこれほど趣深いことを今年ほど感じたことはない。いままで圧倒的に春に軍配を上げていた単純な自分の考えを見直している。そして庭のハギの黄葉にも初めて心打たれた。あらためて初冬の庭を眺めてみる。カエデやドウダンツツジやニシキギの紅葉がある。ツワブキの黄色の花がある。柿の実も熟している。

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 さきのテレビの番組で若い女性が「なぜ紅葉するのですかねえ~」と問い、それに対して中年の男性が「さあ~、紅くなりたいからじゃない」と答えていた。なんとなく私はこの軽やかな答えが気に入っている。まもなくすべての葉が落ちて身のまわりの景色からは彩りが失われるだろう。しかし葉が落ちるのはつぎの年の「芽ぐみ」の躍動に堪え切れなくなったせいという素敵な物の見方がある。「下よりきざしつわるに 堪えずして落つるなり」と徒然草にある。このことは辞書で「つわる」の項を引くと出ている。(写真は新堀用水とツワブキの花)

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*夕刊編集長

2010年11月22日 | 捨て猫の独り言

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 11月から1年ぶりに毎日新聞を購読することになった。金曜の夕刊に私が楽しみにしているコラムが掲載されている。字数は約千文字ぐらいだ。決まった曜日に5人の記者が交代で担当している。「しあわせのトンボ」と題する金曜は近藤勝重氏が担当している。メンバーが変わっても近藤氏は長年にわたり書き続けている。東京本社夕刊編集長でもある。コラムは顔写真付きだが、胸にしむ文体に似つかわしく柔和な表情の写真だと私は思う。これはと思って切り抜いていた古いコラム記事を読み返してみた。昔も今も氏のあたたかいまなざしは変っていない。

 「人生ここに」と題したコラム(06年)を次に引用してみる。『生活と人生は確かに違う。しかし生活はともかく人生とは?と考えると、ばくとしてとらえどころがない。・・・もちろん「生きていく私」は「死んでいく私」でもあろうから、生死は人生を際立たせずにはおかない。・・・中野孝次氏のガン日記(文芸春秋7月号)が心に強く残っている。医師からの電話でがんとわかった日の日記にはこうある。<座椅子に座って陽に当たっていると、椿やミカン、スダチなどの濃い緑の葉が光り、鳥が石に上に置いたミカンを啄みに来、犬達が龍のヒゲの上に気持ちよさそうにねている。すべてこともなく、よく晴れ、風もなき冬の午後にて、見ているとこれが人生だ、これでいいのだ、と静かな幸福感が湧いてくる。これ以外に何の求むるところがあろうぞ、と思う>・・・こうつづって5カ月後に人生を閉じるのだが、氏の人生観は「今ココニ」であった。死を免れられぬ以上、生きている今を楽しむ以外に人生はないという考えだ』

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 「満ち足りた晩年」と題したコラム(07年)では藤沢周平氏が登場する。『「三屋清左衛門残日録」に残された日々を生きる隠居武士、清左衛門の次のような感慨が書かれている。「衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終わればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生きぬかねばならぬ」一種の死生観ながら、藤沢氏は「きいたふうなことを書かなきゃよかった」と後々までひっかかっていたようだ。僕などには心に残る言葉で、読み返して味わったものだが、それはともかく、氏自身の終章はどうだったのだろうか・・・奥さんの和子さんに、「ただただ感謝するばかりである」と記し「満ち足りた晩年を送ることが出来た。思い残すことはない。ありがとう」と結んである。・・・ぼくはこのコラムで「死は不幸か」と題して幸、不幸の答えは人生を閉じる時の心の中にのみあるのではないか、と書いたことがある』

 これらは、あの哲学エッセイの池田晶子氏のテーマとかなりの部分で重なっているように私には思える。合わせ鏡を利用するときのように、これから私は個性の違うこの二氏の言葉を相互補完的に組み合わせながら受け入れていくことになりそうだ。調べてみると近藤氏は私より一つ若い1945年生まれだ。それにラジオにも登場して時事川柳で近藤流・家元として川柳の判定者を演じている。そのラジオ番組は今では聞くこともなくなったが、聞いてた当時はコラムの近藤氏がラジオの家元であるとの認識はまるでなかった。いまだにあの顔写真と耳に残るラジオの声がしっくり重ならない。書き言葉と話し言葉はちがうものらしい。(写真は武蔵野美大生の作品・小平市中央公園にて)

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*名画シアター

2010年11月15日 | 捨て猫の独り言

 市民文化会館の「ルネこだいら」に2日間通って4本の映画を観た。年に一回だけの「名画シアター」という催しで毎年招待券が届いてそれが私に横流しされている。自転車で25分で行ける距離でお天気もよく今年はせっせと通った。当日券は800円とあるが有料で入場する人は少ないのだろう。この国立近代美術館フィリムセンターによる「優秀映画鑑賞推進事業」は平成元年から実施されているという。映画4本をセットしたプログラムが20数プログラムが用意される。それが全国各地のかなりの数の公共施設に一セットづつ貸し出される。

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 今回のプログラムDは今井正監督(1912~91)作品だった。初日は「青い山脈(1949)」と「また逢う日まで(1950)」である。2日目は「真昼の暗黒(1956)」と「純愛物語(1957)」である。今井監督は戦時中は戦意高揚映画を製作し、戦後は一転して戦後民主主義啓蒙映画を手掛け、左翼ヒューマニズムを代表する名匠と評価されている。私は4本とも初めて見る映画だった。上映には午後1時から午後6時までかかる。初日に比べて2日目の観客数は明らかに減少した。

 「青い山脈」は石坂洋二郎原作で戦後民主主義の理念であった自由恋愛や、女性の自立・解放といった命題が明朗で快活なユーモアのうちに描かれていた。映画は主題歌とともに大ヒットした。理想に燃える女教師に原節子が扮している。女子生徒の杉葉子が海岸でみせるのびやかな肢体、俗物を気取る青年校医の竜崎一郎の明快な物言いなど現在でも輝きを失っていない。旧制高校学生の池部良は貧相な胸板をさらしていた。「また逢う日まで」は戦争と青春を描いた悲劇である。近くの席の年輩の女性達が岡田英次と久我美子のガラス窓越しのキスシーンについてしきりに懐かしがり楽しみにしていた。原作がロマン・ロランのせいか脚本は詩的言語の多用で私には違和感が残った。

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 びっしり小さい活字で埋まったパンフの上映会場一覧を見た。成瀬巳喜男(1905~69)監督の「めし」「おかあさん」「浮雲」「乱れ雲」のプログラムCはどこで見られるか捜した。いくつかある中で私が観覧可能な会場が近くにあった。それは世田谷文学館で上映期間は来年の2月3日~7日とある。不思議なことに本年度のプログラムには黒澤明監督作品が一つもない。そこでフィリムセンターのホームページを見て分かった。センターでは黒澤明生誕百年と題して11月9日~12月26日まで黒澤作品を入れ替え制で一日に3本づつ上映している。またトークイベントとして「スタッフが語る黒澤明」「スターが語る黒澤明」がそれぞれ11月と12月に企画されていた。フィリムセンターは東京駅八重洲南口より徒歩10分である。(写真は玉川上水の羽村第1第2取水口)

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*日々の断片

2010年11月08日 | 捨て猫の独り言

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 外から帰って庭のサザンカの木の傍に一羽の「コゲラのなきがら」を見つけた。それは勝手口のコンクリートの上で陽の光にさらされて仰向けに横たわっていた。出かけるときにはそこには何もなかった。誰かが運んでそこに置いたのではないかと疑ってみた。5月中旬にコゲラの子育てを観察したことがある。あれはこの一年の中でもわくわくする体験の一つだった。今回の「なきがら」は私が観察したあの時の親鳥ではないかという思いの不思議な気分の中に私はいた。「なきがら」は庭の片隅に埋めた。

 河野裕子さんの歌 「手をのべて あなたとあなたに 触れたきに 息が足りない この世の息が」 について容易に頭から離れないことがある。見当違いかも知れないが敢えて記すことにする。誰しも、あなたとあなた、息がと息が、の繰り返しに非常に切迫している状況を感じる。そしてあなたの繰り返しについては、前者のあなたは魂としてのあなたで、後者は身体としてのあなたではないか。前者と後者は同一人物であり作者の夫である永田和宏であろう。この解釈は無理だろうか。やはり「あなたとあなた」はこれまで作者と親交のあった多くのあなたを指しているとみるのが妥当だろうか。

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 足の弱った母を連れて国分寺で通勤時間帯の満員電車に乗った。よろめいてつり革にも届かず圧迫感にさらされた。追い込まれた私は自分でも予想していなかった行動に出る。つぎの駅でドアが開いた瞬間に「移動させてください」と叫び優先席あたりにまずたどり着く。つぎの段階では3人がけの一番手前で目を閉じている若い女性の膝を叩いて「譲ってください」と叫ぶ。間髪入れず母を座らせる。さらにひと駅ほど過過して隣りに立っているさきほどの女性に「助かります。あなたは大丈夫ですか」とささやく。最後に新宿で降りる女性に私はドアの外に出て頭を下げて見送る。とっさの行動にしては我ながら上出来だった。

 冬の花としては山茶花が有名である。ところで茶の木の花も冬の花で、白色五弁花を少数つけるということを知った。なるほど注意深く観察しないと茶の花には気付かないはずだ。山茶花と茶はともにツバキ科である。ツバキの方は早春に花が咲く。近くを散歩していると白い山茶花が列をなして咲き誇っていた。それもまるでダリアのような山茶花だ。八重の山茶花だという。そういえば八重のどくだみの花を見たのも今年のことだった。庭の赤い山茶花はまだ蕾のままである。昨日の7日は立冬だった。(はとバスツアーにて・スカイツリーとレインボーブリッジ)

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「私は幾つになったかね」

2010年11月05日 | ねったぼのつぶやき

 タイトルは「お幾つになられました?」と私が尋ねた際、ご本人が娘さんに問いかけたセリフである。初対面の方なのに思わず手を伸ばして触ってしまったお顔。しみ一つない柔肌はプクンと弾んだ。「あらあら~」とはにかんで美しいしわがそのお顔に刻まれた。白髪は銀色に輝きふんわりと波打っている。ザブトンやお茶を私達に何度も勧めうれしいわ~と連発された。

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 義父亡きあと久しぶりに義母が長女に伴われ我家を訪れた。80代半ばの義母の女学校時代の恩師が一つ隣りの駅に在住で上京の度に訪れていた。教え子がその年代だから恩師は更に年長になる。今迄は母一人で行っていたが車で同行したのだった。その方は今年99才と伺っていたが100才の記念品が菅首相からも届けられたという。

 炬燵に向き合った私達(義母、長女、嫁)との会話が弾む。こちらが教え子で、長女さんで、お嫁さんで・・とその度に指差す相手が違い笑いが絶えない。デイケア先で書いたという習字や絵手紙はいづれも立派であった。英語の先生で習字は勿論俳句なども上手で、この先生がいらしたからその学校を選んだという義母の言い分に頷けるものがあった。小一時間後帰ろうとすると、「もう帰っちゃうの~」と別れを惜しみ夜だというのに道路まで歩いてのお見送りを受けた。美しく愛らしく老いるとはこういう姿なのかと、ウットリとつくづく眺め入り感じ入った方であった。

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*歌人河野裕子さん

2010年11月01日 | 捨て猫の独り言

 新聞は半年ごと3紙のローテーションで購読している。その切り替わりにあたりこれまでの読売とこれからの毎日の2紙が31日には重なって届いた。私は新聞のすべての記事を丁寧に読むような読者ではない。気まぐれに開いた紙面に興味ある記事に偶然出会って時々読み直したりする。この日の紙面数は読売が40頁で毎日は30頁だった。広告数の違いだろう。時には新聞を切り替えて読みくらべるのはいいことだ。

 この日毎日の紙面に心が動いた記事を見出したことは幸運だった。それは歌壇・俳壇にある河野裕子さんをしのぶ会の記事である。河野さんは晩年は乳がんと闘病しこの8月に64歳で死去した。夫は細胞生物学者であり歌人でもある永田和宏である。ともに宮中歌会始の選者を務めたことがある。長男の永田淳と長女の永田紅も歌人である。

 しのぶ会では河野さんとともに宮中歌会始の選者を務めた岡井隆さんが、河野さんを悼む声の広がりについて皇后陛下が「一種の社会現象ではないか」と話したエピソードを披露とある。皇后陛下は87年に俵万智さんの歌集「サラダ記念日」が巻き起こした現象を思い起こしていたのだろうか。岡井氏は言う「河野さんの場合は長い間の積み重ねのうえで、彼女の存在と作品がひき起こした」

 永田和宏さんは自宅の病床で亡くなる前日まで口述筆記で歌を作り続けた河野さんの姿を語り、声を詰まらせたという。最後の一首は   「手をのべて あなたとあなたに  触れたきに 息が足りない この世の息が」   だったという。私はふと言葉が空から舞い降りて来るとはこのことかもしれないと思った。

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