玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*よみがえる記憶

2015年11月30日 | 捨て猫の独り言

 この時期は朝の8時を過ぎた頃、葉を落とした庭木に複数のシジュウカラが姿を見せている。庭に餌場は無いので短時間で立ち去る。ピンクのネリネの花はまだその容色を失ってはいない。インターフォンの前の鉢で咲くネリネの花はめずらしいのか見て通る人は多い。近頃の東京は5時を過ぎるとすっかり暗くなるが、鹿児島の日の入りはそれより45分ほど遅い。12月の22日が冬至である。

 着古したカッターシャツが見当たらない。無断で捨てられたと疑った。心当たりはないという。あいまいな気分でいつかそのことさえ忘れていた。かなり経ったある日、それと色違いのシャツに袖を通している時に記憶がよみがえった。玄関ドアの金具で右腕あたりの部分に鉤裂きを作りシャツは自分で処分した。色違いの残っているシャツの存在で思い出すことができたのかそれは分らない。(写真は小平アートサイトから)

 

 小平市の少年少女マラソン大会が28日(土)に中央公園で行われたていた。暖かい陽射しの午前中に「鉄棒ぶら下がり」に出かけて目撃した。3・4年生は1500mで5・6年生は2100mを男女別に走る。400mグランドの外周はカラーコーンで仕切られ、係り員が並んで外周の半分は一般通路だ。30年以上も前に小6の娘を応援した時のことがよみがえった。まだ中央公園ができる前のことだ。

 その日の午後は、昼食が目的で武蔵野美術大学(MAU)に出かけた。一般人でも自由に出入りできると聞いたからだ。学園祭以外に食堂に入るのは初めてのことだ。守衛所の前を無事に通過する。メニューはどれも格安でビーフシチュウはお勧めだ。食後は隣りの美術館に足を運ぶ。11・24~12・19まで「助手展」と「池田良二展」が開かれていて入館料は無料だ。助手展は50に近い作品が並ぶ。池田良二教授は1947年生まれの銅版画家である。駆け足で鑑賞したが期間中また出かけることになるだろう。

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*小平アートサイト

2015年11月23日 | 捨て猫の独り言

 小平アートサイトは武蔵野美術大学の主に彫刻学科の学生によって運営されるアートイベントだ。小平野外彫刻展として始まり今年で29回目を迎える。11月14日から10日間中央公園を中心に4つの会場で展示がある。中央公園のテントの受付は学生が交代で詰めて、パンフレットを配布している。今年のテーマは「異彩」で、作者と鑑賞者の異なる視点を通し両者のよい関係を築くきっかけにしたいという。またこの時期は六本木の国立新美術館で「日展」が開催されている。そのうちこれも見学するつもりだ。

 美大生のどんな力作に出会えるか毎回カメラ持参で見て回る。今回は他大学の出品は1点だけだった。全部で35の作品の中から、ここでは6つ選んで作品名と作者のコメントを紹介したい。写真の順に①「象さまのお座り(樟)」伊藤若冲が描く象をモチーフとしました。ねずみのような大きな耳、口の中から伸びた牙・・・若冲のとおい日に見た記憶の象。②「乙KAPPA(石)」空が暗くなってくると仕事帰りの人々が駅から出てくる。河童さんはそんな頑張る人々を見守っている。毎日お疲れさまの気持ちを込めて。

 

 ③「取りこみ(石膏、苔)」大気を吸い込んだものは体の一部となって現れる。④「虎と龍と貴方(木材、アクリル絵の具)」けむたい夜の中の薄い空気だからどこかの虎の子はツヤツヤしたコガネ色の毛並みを揺るがせて、どこかの龍の子は首をかしげながら漂うように飛んでいて、ぼくにはそれが限りない波のようにも思えるし、途絶えることのない雲のようにも思えるのです。

  

 ⑤「野生の時計(市販の時計、FRP、石膏テープ、紙粘土、木の棒)」時計は静的でありながら、動的な存在でもある。それは、一つの場所に二つ以上置かれる事は無いため、複数の時計の存在は、人に普段とは異なるあつかいを要求する、独特の場を形成する力がある様に思える。この作品はその特性を利用したもの。⑥「みてる(キャンパス、アクリル絵の具)」目線を意識した作品です。好きになれないもの嫌いになれないもの。

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*紀伊半島縦断

2015年11月16日 | 捨て猫の独り言

 先週の前半は高倉健の映画が数多くテレビで流れた。「君よ憤怒の河を渡れ」「海峡」「遥かなる山の呼び声」を続けて見る機会があった。そして映画の中で高倉健が伝えたいであろう「想い」を十分受けとめようと集中した。熱心なファンではなかったが遅ればせながらその良さを認識した。週の後半は二泊三日のパック旅行に出て土曜の夜遅く帰宅した。3日間のバスの走行距離は順に150、205、215㎞だ。

 初日は名古屋駅から伊勢神宮の内宮に参り、おかげ横丁を散策して二見浦の夫婦岩の見学に回る。全行程を案内するバスガイドさんがユーモアあふれるベテランの方でプロの話術で私たちを魅了する。伊勢神宮は4年前に初めて一人で訪れた。今回は「お伊勢さん観光案内人」の後ろを集団で歩く。前回の一人の時がもっと神妙な気分だったと思う。二見、鳥羽はかつての伊勢参りの人たちの宿泊場所だった。

  

 二日目は海沿いを尾鷲市を通過して熊野市から山間部に入り奈良、三重、和歌山の三県にまたがる「瀞峡」を90分かけたウォータージェット船の旅だ。それから熊野三山のうちの「速玉大社」と「那智大社」の二つを訪ねる。参詣道(熊野古道)として有名な大門坂を登り始める頃に大粒の雨が降り始めた。大門坂を登ると那智大社がありすぐ隣りは青岸渡寺である。二つ並んだ神社と寺の全体の色調は対照的である。興味深いことに、多くの中国人観光客が興味を示すのは寺よりも神社である。少し歩くと雨にけぶる那智の滝を拝むことができた。

 二泊目の「ホテル浦島」は印象深い。勝浦港の岬にあり桟橋から専用船で向う。テーマパークのようなホテルに6か所ある掛け流しの中で人気は天然の洞窟を利用した「忘帰洞」だ。熊野灘に面していて風呂近くまで荒波が押し寄せていた。三日目は3・11の年の9月の紀伊半島大水害の爪痕が残る熊野川をさかのぼる。車窓から熊野三山の一つ「熊野本宮大社」を左に、120年前の大水害まで本宮が存在した中洲の大斎原(おおゆのはら)の大鳥居を右に眺める。奈良県の十津川村に入ると「谷瀬の吊り橋」でスリルを味わう。長さ297m、高さ54mの生活用の吊り橋だ。大型バスはさらに山越えをくり返して、野迫川村から天空の聖地吉野の「奥の院」に到着した。通常の吉野参りとは逆の動きである。それから紀ノ川沿いを少し走り阪和自動車道の泉南ICから新大阪駅に向った。バスガイドさんはお別れに速玉大社の「梛(なぎ)の葉」を全員にプレゼントしてくれた。凪に通ずるという。

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*阿児奈波

2015年11月09日 | 捨て猫の独り言

 ヒガンバナが咲いて一月半がたち、今はヒガンバナ科のネリネが咲いている。柿はそのほとんどの葉を落した。二年前に慌てふためいてやっていた「耳もみ」「片鼻ブレス」「胸鎖乳突筋マッサージ」などは止めてしまった。あきれるほどあきっぽいのは毎度のことだ。現在は夕方に近くの公園の鉄棒にぶら下がる。自分の身体の重さを知るのは体重計に乗った時ではなく、鉄棒にぶら下がった時だ。足がつかないほど高い鉄棒だ。鉄棒に集まるぶら下がり愛好者は多い。

 2日の夜にBSプレミアムで「TOKYOディープ」という30分番組を初めて見た。番組欄の「国立」にひかれて見ることにした。東京の一つのエリアに注目して地元の人しか知らない、あるいは地元の人も知らない情報を掘り起こすという。番組の案内人は女優の高島礼子だった。おばあちゃんの家に遊びに来たような気分で「母めし」を味わえる古民家カフェを紹介していた。それはJR南武線の谷保駅の近くで甲州街道沿いにあるという。(写真はクリックで拡大)

 

 その翌日秋晴れの文化の日に、「くにたち市民まつり」に出かけた。1日から3日までは市内の商店が出店する「天下市」と、一橋大学の「一橋祭」が開かれていて、3日に「市民まつり」だ。歩行者天国の大学通りを、人の流れとは逆に谷保駅を目指す。谷保村の地域医療を担ってきた本田家の敷地約360坪の民家に、カフェ、工房、デザイナーなどが入居してシェアする「やぼろじ」の中に「やまもりカフェ」はあった。谷保の路地に開かれた場所が「やぼろじ」だ。大久保久江さんが周囲の反対を押し切り「やまもり」を起業したのは2010年で56歳の時という。

 シンプルで伝統的な家庭料理を食して「市民まつり」に戻る。注目を集めていたのは黒装束の演舞団だった。「阿児奈波」のノボリが見える。「おきなわ」の呼称の由来は定かでないが、日本の文献として鑑真の伝記に「阿児奈波」と出てくるのが初出だという。「旗頭(はたがしら)行列」は那覇の大綱引の前に行われる。50キロもある旗頭を腰に乗せて練り歩く、いかに美しく旗頭を躍らせるか、またその受け渡しは難しい。そしてエイサーと琉球獅子舞も迫力満点で盛り上がる。メンバーの中の一人と話した。昨日の遅く到着して明日には那覇に帰るという。辺野古について聞いてみた。人としてあの海の埋め立てを許せるのかという想いだと語る。沖縄戦で日本軍の仕打ちはひどかった。沖縄の人たちは米国が嫌いなわけではない。翁長さんは自民党だった。予想以上の頑張りに驚いているが支持を続ける。沖縄独立についても関心は高まっていると思う。

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*霜降の頃

2015年11月02日 | 玉川上水の四季

 日曜日のNHK・Eテレに囲碁フォーカスという30分番組がある。その前半の囲碁講座のために毎週録画している。10月11日放送の後半は「没後6年・藤沢秀行名誉棋聖をしのぶ」であった。8月25日に台東区の小野照崎神社で親族、ゆかりの棋士、ファンが参列して藤沢秀行六年祭が行われたとのナレーションがあって式典参加者が写し出され、その中にほんの数秒間だが私の姿があった。いつもは見終わるとすぐに消去するのだが今回はそれができずにいる。

 先週は横浜散歩、武蔵美の学園祭、オープンギャラリー霜降の観察会と3日蓮続してよく歩き回った。日曜の霜降の観察会は15名ほどのいつも顔ぶれだ。なにやら道端に黒い小粒の実が落ちている。ムクの木の実だと教えられ、砂を払って口に含むと熟した柿の実のような味がした。冬に暮らすツグミなどの好物という。ムクは灰色のすべすべした木肌をしてすらりと伸びた高木だ。(写真は24日に武蔵美にて+25日にウド、リンドウ、白いサザンカ)

  

 ウド畑が年ごとに姿を消しているということで、遠くまで足を伸ばす必要があった。長い間ウドについてはその畑の横を注意もはらわず通り過ぎていた。蝶が舞うには風の強い日だったが運よく、ウドの花の豊富な蜜を求めて飛来したツマグロヒョウモンとベニシジミに出会う。ともに幼虫で冬を越し前者はスミレに後者はギシギシに産卵するのだという。

 ウドの若い芽は香りも良く食用にもされるが花が咲くくらいまで大きくなったら食用にもならず「ウドの大木」のことわざがある。このウド畑は「白ウド」の栽培のためである。霜が降り、茎が枯れたのちに掘り取った根株を地下4メートルにある16~20℃の穴倉に植え付けて30~35日位の期間をかけて育て、箱詰にして出荷する。予定していた観察の一つに冬鳥の中で一番早く姿を見せるというジョウビタキに出会うことがあったが、これは実現しなかった。

コメント (5)
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