玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*明治という時代

2016年12月26日 | 捨て猫の独り言

 今年は漱石没後百年ということで、漱石の話題の多い年でした。漱石が在籍した朝日新聞社のいれ込みようは言うまでもなく、二松学舎は漱石アンドロイドの制作です。私は連続4回のNHK土曜ドラマ「夏目漱石の妻」を録画して見ました。鏡子役は尾野真千子で、イギリス留学から帰国した後の苦悩する漱石を、左右の目の大きさを違えて演じる長谷川博己の演技に目を見張りました。演じた長谷川と違い実際の漱石は身長159cmと小柄だったといいます。ドラマは漱石の実像にかなり肉薄できていたように感じました。(こげら会作品展にて)

 

 漱石の年齢は明治元年に一歳、明治十年に十歳、明治二十年に二十歳という具合になっています。それに気づいてからは、たとえば明治38年の日本海海戦を考える時に、この年は漱石38歳の時と私の中に常に漱石が登場するようになりました。ちなみに漱石はこの年に「吾輩は猫である」を発表して好評を得ています。教師を辞めて創作家になりたい気持ちが強くなった年でした。それはさておき、私が明治40年に結成された「日本彫刻会」に注目し始めたいきさつは次の通りです。(表紙に雲海の二祖、朝雲の明の封冊、田中の活人箭)

 

 ある日立ち寄った中央公民館で「仏像彫刻こげら会 作品展」を見学しました。木を彫り刻んで仏像を作る特異な趣味の会の見学は初めてでした。そのあと隣の図書館で借りる気になったのが「岡倉天心と日本彫刻会」というA4サイズの大型写真本でした。生まれた岡山県井原市と没した小平市の二つの平櫛田中美術館の共同出版です。この本にある展覧会の出品作品群の図版を見て私はこれまでにない感銘を受けました。日本の彫刻界の歴史の中でそこだけが突出して輝いているかのように私には見え始めたのです。日本彫刻会は岡倉天心が会長で米原雲海、山崎朝雲、平櫛田中などが結集しました。

 日本彫刻会の第1回展覧会が上野で開かれたのが明治41年でした。平櫛は「活人箭」を出展しています。その同じ年に漱石は「夢十夜」を発表しているのです。私が興味のある第六夜はつぎのような話です。運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいるのを見て、若い男が「あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と言う。感心した自分は仁王の埋まっている木をさがしたが、ついに見つからず、それで運慶が今日まで生きている理由がわかったというのがオチです。私は漱石が上野で平櫛の作品を見たと空想しました。その時からです、私の明治は平櫛田中と漱石によって甦る仕掛けになりました。

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*二十四節気の大雪

2016年12月19日 | 玉川上水の四季

 玉川上水の鈴木教室の観察会はその節気の最初の日曜日に行われる。節気の展示のポイントやその日の観察会の目標などの説明の後に2時間ほど散策して再びギャラリーに戻る。鈴木さんには展示の準備などの大変さもあるが、それよりも自然の仕組みの不思議さの追及に飽きることがないようだ。小雪はツワブキ、大雪はビワ、冬至はサザンカの花と節気ごとに何かの花が咲きだすことにも感動している。最近ではクモやアブなどにも観察の範囲を広げている。

 鈴木さんには毎回ほぼ同じ顔触れの観察会参加メンバーを飽きさせないようにしたいという気持ちがおありだろう。私のようにできの悪い生徒は毎年毎回同じことの繰り返しでも十分なのだが、観察会ではいろいろと工夫されている。ともあれギャラリーの展示と観察会が、こんなにも長く続いている原動力は、鈴木さん自身の枯渇することのない若々しい好奇心にあることは間違いない。

 

 11日の大雪の観察会はウラギンシジミと、ヤマガラが主な目標だった。ウラギンシジミは翅の裏面が真っ白、表面が濃茶色である。幼虫の食草はフジとクズで年に2回世代交代する。鈴木さんは成虫越冬するウラギンシジミに出会ってから10年になるが、休眠する場所を決定する瞬間を目撃したのは初めてと興奮気味だ。つい先日動かなくなるまで行動を観察していたという。日当たりのよい場所にあるツバキの葉の裏に一枚の紙切れにしか見えないウラギンシジミがぶら下がっていた。

 

 シジュウカラ・ヤマガラ・コゲラ・エナガなどの留鳥は夏の間は主に昆虫、冬は木の実を食べる。厳しい冬を生き抜くためだろうか冬になると混じり合って群れを組んで行動するという。鈴木さんは12月に入ると朝の散歩の折に小川水衛所跡の柵を餌場にして、秋に拾い集めたハクウンボクの実を置くことを続けたという。ヤマガラの撮影のためである。はたして観察会の日に鈴木さんが餌場にハクウンボクを置くとしばらくしてヤマガラが飛来した。シジュウカラも飛来するようになった。小梢を見上げる観察会のメンバーが気になるのか、水衛所跡には散策中の人たちが立ち止まり、かなりの人だかりができ始めた。

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*リモートサポート

2016年12月12日 | 捨て猫の独り言

 来年の4月に現在のWindowsVistaはセキュリティ更新プログラムが提供されなくなり、使い続けるのが危険な状態になると聞いた。そのうち買い替えることにしていたが、先月の末に何気なく立ち寄った近くの量販店で期間限定で売り出しのパソコンが目に止まった。期間はいつまでと聞くと2日間で明日までという。在庫は残り一台というのでその場で買うことに決めた。数日後その店に同型のパソコンが展示処分品として安くで置かれていた。(玉川上水・小平監視所)

 

 パソコンはXpからVistaへ、そして今度のWindows10と3度目の買い替えになる。購入の時は、初回と2回目とも高校以来の友人に家まで来てもらい、セットアップしてもらった。その彼に次は自分で挑戦してみたらと自立を促された。インターネット接続環境があるのだから何とかなりそうである。パソコンを衝動買いしたその日に、その横に並んでいたリモートサポートの3か月コースのチケットを購入した。これが結果的に大いに有効だった。

 リモートサポートはオペレータが申込者と画面を一緒に見ながらリアルタイムでサポートするサービスである。オペレータの告げる6桁の接続コードを入力して始まる。期間内なら何度でも利用できる。初回は若い女性のオペレータのサポートでインターネットとOutlook2016のアイコンがデスクトップに並んだ。画面右下に「遠隔操作中」と赤い表示が出てオペレータの息遣いも伝わってくる。旧から新へのデータの移動を申し出たら、USBメモリまたは外付けハードディスクを準備しておくようにと指示があった。

 2回目は男性のオペレータのサポートでメールとピクチャーの旧から新への移動が終了した。古いパソコンは一か月は手元に置くようにというアドバイスがあった。ひとまず終了ということなのだろうアンケートへの回答を求められた。ところがSDカードの画像をパソコンに取り込めず数日後に3回目のサポートを申し込んだ。女性のオペレータが何かあったらいつでもどうぞと慰めてくれた。これでひとまずは一段落である。スカイプ用の外付けカメラは不要になった。単三電池使用のマウスにはコードが無い。画面はワイドになった。パソコンと畳は新しいほうがいい。

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*秩父夜祭

2016年12月08日 | 捨て猫の独り言

 年頭には秩父の加藤さん宅で四人だけの新年会、10月には家人と椋神社の龍勢まつりの見学と、今年はよく秩父に出かけた。そして秩父夜祭の前日に思いがけなく加藤さんから角封筒が届いた。中に厚手の紙の「秩父夜祭・観光祭行事表」が八つ折にされて入っていた。明日の夜祭に関するすべての情報が書かれている。ならばと当日の予定をやりくりして急遽一人で出かけた。飯能で乗り換えると車内は混雑し、立ち続けること1時間で午後4時に西武秩父駅に到着した。

 

 11月25日からは秩父市の各地区では、秩父屋台ばやしの練習会の「太鼓ならし」が始まったという。子供から大人までが交代で「ドドンコ、ドコドン」と大小の太鼓を打ち鳴らし参加者には小豆が入った恒例の「力がゆ」が振る舞われる。年ごとに当番が回ってきて住民総出で祭りを守り続ける。午後7時には6地区の笠鉾・屋台が順に秩父神社を出発して「御旅所」に向かう。まず私はその秩父神社を目指した。両側に露店が並ぶ「番場通り」を行くのだが人垣に阻まれてなかなか前に進めない。

 

 秩父神社前には下郷(したごう)笠鉾、境内には中近笠鉾と宮地屋台があった。この配置は翌日の加藤さんとの電話の中で知ったことだ。大勢が並ぶ本殿のお参りは省略して神社を出る。神社近くの本町(もとまち)交差点のコンビニの駐車場広場で立ったままで軽食を取り、秩父錦のワンカップをちびりちびりやりながら行列を待った。まず神輿1基、御神馬2頭などの神社行列があり、間をおいて中近笠鉾が交差点に入ってきた。方向転換のためにテコの応用で持ち上げる「ギリ回し」で重さ数十トンの笠鉾が軋みながら大きく傾いた。

 交差点の交通規制が解かれると私はすぐに人垣を抜けて道路に飛び出した。それから中近笠鉾の後ろを進むはっぴ姿の集団に紛れ込んだ。そして私もわっしょいの掛け声をかけながら歩き始めた。つまり見物される側へと立場を変えたわけである。このことを加藤さんに話すと大笑いしてうまくやりましたねとほめてくれた。実は30年前に加藤さんが中近会所の当番であった時に夜祭に招待されている。そしてはっぴ姿の二人で中近笠鉾を引いたことがある。その経験があって私の今回のとっさの行動となったのだろう。7時半から次々に打ち上げられる花火を車窓に眺めつつ8時の電車で帰宅した。見どころの団子坂の引き上げは省略した。翌日の新聞は「ユネスコ遺産登録で32万人の人出」と中近笠鉾の写真と共に大きく報じていた。

 

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*近藤勝重の本

2016年12月05日 | 捨て猫の独り言

 庭の隅にある生ごみを処理して短期間で堆肥を作る容器(コンポスター)に米ぬかを入れた。残りの半分は畑の野菜に沿ってすじ状にまいた。発酵していない米ぬかに肥料としての効果があるかどうかわからない。ときおり数羽の雀が飛来して米ぬかをつついている。それをシジュウカラが見下ろしていた。上流にある玉川上水の小平監視所では流れ着いた大量の落ち葉の回収作業が始まっただろうか。(写真左からビワ、ネズミモチ、クロガネモチ)

 

 11月から毎日新聞を購読している。毎日木曜夕刊にある近藤勝重のコラムの切りぬき作業が楽になった。というのも朝日購読の一年間は毎週一度図書館に出向いて「しあわせのトンボ」をコピーしていた。近藤と高倉健は18年間にわたって書簡のやりとりがあり、大学での講義に健さんがお忍びで参加したりしたという。83歳で健さんが没した翌年に近藤は「健さんからの手紙」を出版している。

 近藤は1945年生まれで愛媛県立西条高校から早稲田政経学部へ進み、卒業後の1969年に毎日新聞社に入社している。44年生まれで学業の順調でなかった私の就職年は近藤と同じである。私の本棚にはまだ目を通さずにいる本が並んでいて、今後本は買うまいと固く心に決めていた。「健さんからの手紙」は友人に紹介はしたものの買わなかった。そのうち図書館で出会えれば読むだろう。

 そんな私が誓いを破り、10月と11月に立て続けに出た近藤の2冊の著作を購入した。幻冬舎の「今日という一日のために」と、毎日新聞出版の「書く子は育つ」である。前者はコラム「しあわせのトンボ」のこれまで10年間の中から選んで加筆、修正したほか、新たに書き下ろしたコラムを含む。後者は毎日小学生新聞主催の「近藤勝重スーパーゼミ・親子で学ぶ作文教室」を受けて書き下ろしたもの。副題は「作文で考える力を伸ばす!」とある。じっくり味わいながら読ませていただく。

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