今年は漱石没後百年ということで、漱石の話題の多い年でした。漱石が在籍した朝日新聞社のいれ込みようは言うまでもなく、二松学舎は漱石アンドロイドの制作です。私は連続4回のNHK土曜ドラマ「夏目漱石の妻」を録画して見ました。鏡子役は尾野真千子で、イギリス留学から帰国した後の苦悩する漱石を、左右の目の大きさを違えて演じる長谷川博己の演技に目を見張りました。演じた長谷川と違い実際の漱石は身長159cmと小柄だったといいます。ドラマは漱石の実像にかなり肉薄できていたように感じました。(こげら会作品展にて)
漱石の年齢は明治元年に一歳、明治十年に十歳、明治二十年に二十歳という具合になっています。それに気づいてからは、たとえば明治38年の日本海海戦を考える時に、この年は漱石38歳の時と私の中に常に漱石が登場するようになりました。ちなみに漱石はこの年に「吾輩は猫である」を発表して好評を得ています。教師を辞めて創作家になりたい気持ちが強くなった年でした。それはさておき、私が明治40年に結成された「日本彫刻会」に注目し始めたいきさつは次の通りです。(表紙に雲海の二祖、朝雲の明の封冊、田中の活人箭)
ある日立ち寄った中央公民館で「仏像彫刻こげら会 作品展」を見学しました。木を彫り刻んで仏像を作る特異な趣味の会の見学は初めてでした。そのあと隣の図書館で借りる気になったのが「岡倉天心と日本彫刻会」というA4サイズの大型写真本でした。生まれた岡山県井原市と没した小平市の二つの平櫛田中美術館の共同出版です。この本にある展覧会の出品作品群の図版を見て私はこれまでにない感銘を受けました。日本の彫刻界の歴史の中でそこだけが突出して輝いているかのように私には見え始めたのです。日本彫刻会は岡倉天心が会長で米原雲海、山崎朝雲、平櫛田中などが結集しました。
日本彫刻会の第1回展覧会が上野で開かれたのが明治41年でした。平櫛は「活人箭」を出展しています。その同じ年に漱石は「夢十夜」を発表しているのです。私が興味のある第六夜はつぎのような話です。運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいるのを見て、若い男が「あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と言う。感心した自分は仁王の埋まっている木をさがしたが、ついに見つからず、それで運慶が今日まで生きている理由がわかったというのがオチです。私は漱石が上野で平櫛の作品を見たと空想しました。その時からです、私の明治は平櫛田中と漱石によって甦る仕掛けになりました。