玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*新札発行

2024年06月24日 | 捨て猫の独り言

 関東甲信は梅雨入りしたとみられるとの発表が6月21日にあった。平年より2週間も遅く、これまでの中で3番目に遅いという。鉄砲ユリが咲いて梅雨が明ける。さて今年の梅雨明けはいつになるだろう。7月3日に20年ぶりに新紙幣が発行される。偽造防止やタンス預金のあぶり出しがその目的という。

 タブロイド判の市報「こだいら」6月20号の一面は、新5000円札の肖像となる津田梅子の記事で埋められている。記事についての問い合わせは「市民協働・男女参画推進課」とある。1900年35歳になった梅子は友人たちの協力を得て女子英学塾を創設し「男性と協力して対等に力を発揮できる自立した女性の育成」を目指した。拡張のため英学塾は小平に移転するが、梅子は校舎完成の2年前に病没している。

 梅子の遺言により小平キャンパス内には梅子の墓がある。新札で脚光を浴びる前に見学したことがある。現代的で簡素な墓所らしくない墓所だ。墓所や津田梅子資料室は事前の申し込みが必要。1962年10月に市制が施行された際に小平町大字小川の地名は津田塾大学にちなんで津田町と命名された。

  

 梅子は1864年に江戸で生まれた。6歳という幼さで岩倉使節団とともにアメリカに留学し、17歳で帰国する。その後、友人のアリス・ベーコンに勧められ1889年(25歳)から生物学を専攻して再度3年間の留学をしている。この留学中に日本の女性の高等教育の夢が大きく膨らんだようだ。女子英学塾開校時の協力者たち、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松と梅子の4人がならんだ写真が市報には掲載されている。

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*村上春樹のユーモア

2024年06月17日 | 捨て猫の独り言

 村上春樹には独特すぎるユーモアの感性がある。「ねじまき鳥クロニクル」を読みながら、それらに注目して気にいったものを書き止めてみた。親父ギャグと言ってもいいかもしれない。あるいは村上春樹のいわゆるバタ臭さというものはここから立ち昇ってきているのではないかと思ったりした。まあ、退屈しのぎに、ご覧ください。

 ●まるで世界中の冷蔵庫のドアが一度に開け放たれたみたい・・・冷たいものだった。

 ●渡り鳥が抵当用資産を持たないのと同じように、僕も予定というものを持たない。

 ●しばらくどっかに埋められて、さっきやっと掘りだされたばかりっていう感じの顔。

 ●人々はみんな難しい陰気な顔をしていた。それはムンクがカフカの小説のために挿絵を描いたらきっとこんな風になるんじゃないかと思われるような場所だった。

 ●どっかの犬が家の庭に入り込んできて勝手に芝生の上でねじ曲がったウンコをしているのを見ているような気持になっちゃうの。

 ●浅い池の中に落とした硬貨でも探すみたいに僕の目をのぞきこんだ。

 ●すぐそばにぐっすりと寝込んでいる神経質な黒豹がいるので今は声が出せなくて申し訳ない、とでもいうように。

 ●時代物のエンジンが主人に蹴飛ばされた犬のようにストロークの長い音を立てて動き始めた。

 ●ベレー帽の似合うおスモウ取りくらいに珍しいのです。

 ●世界中の野原を通り抜けたよりももっと遠くの場所から。

 まあこんなものです。

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*仏教抹殺

2024年06月13日 | 捨て猫の独り言

 以前、筑摩新書の「廃仏毀釈」を読んだことがあった。今回、「仏教抹殺」という刺激的なタイトルの文春新書を読んだ。著者は嵯峨・正覚寺僧侶でもある鵜飼秀徳(1974年生まれ)で、廃仏毀釈が激しかった日本各地を訪れてのルポルタージュだ。郷里の鹿児島はそのうちの一つだ。現在住んでいる東京では、神仏分離は実施されたが激しい廃仏毀釈はほとんど見られない。多摩西部の多くの市では、寺院と神社が隣り合わせになっている。神仏分離令の意図した通りに、境内地が寺院と神社に切り分けられた結果である。

 鹿児島市内にある島津家の菩提寺である福昌寺(曹洞宗)は今でも廃寺のままである。福昌寺跡には玉龍高校ができ、その校舎の裏に島津家6代から28代までの墓がある。墓所一帯は参拝に訪れる観光客も見られずひっそりしている。この本で知り、機会があれば訪ねてみたいと思ったのは、廃寺となったが再興され、出水市野田にあるという「感応寺(臨済宗)」だ。福昌寺と並ぶ島津家の菩提寺で初代から5代までの墓がある。ここを訪れた著者はどの墓にも鮮やかな花が供えられ、墓の周りもきれいに掃き清められ、鹿児島県人は寺との関わりは薄いがお墓参りへの意識がとても高いと感じたという。

 それにしても鹿児島の人々が廃仏毀釈に抗わず徹底的に寺院を破壊したのはなぜか。その原因に薩摩藩独特の「外城制度」と「郷中教育」が考えられると考察する。武士を効率よく配置するため領内を区分し、その拠点として外城を数多く設ける。武士は半農半兵の状態で地域に溶け込み監視の目を光らせた。いわゆる檀家制度はほとんど機能せず、鹿児島における寺院は「おらが村の寺」ではなかったわけである。郷中教育とは地域ごとに先輩が後輩を指導する武家教育のシステムである。「上からの命令だから」ということで権力に従順に従い破壊に加担していった。

 廃仏毀釈について著者はつぎのように述べている。《これまで幕府によって特権を与えられ、一部では堕落もしていた仏教界が、はからずも綱紀粛正を迫られ(寺院数の)規模が適正化するとともに、社会における仏教の役割が明確化されたという「プラスの側面」もあったのではないか。「寺が消える」という点においてはかつての廃仏毀釈と現在の寺院を取り巻く状況とはさほどかわらない。私はとくに都会人によくみられる~僧侶に対する反発~は、第二の廃仏毀釈の前兆現象と見ている》

 

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*芒種の頃

2024年06月10日 | 捨て猫の独り言

 芒種とは稲や麦などの穂の出る植物の種を蒔く頃のこと。稲の穂先にある針のような突起を、芒(のぎ)という。「のぎ」を覚えることがなかなかできない。田植えの季節だが、小平には畑地ばかりで水田はない。かつて小平辺りは、米でなくうどん粉(小麦)の栽培が盛んだった。九州南部は8日、四国は9日に梅雨入りしたが、さて関東甲信越の梅雨入りはいつになるのだろう。

 市民農園で数々の野菜を収穫している利用者からナスの苗一本で百個くらい収穫するという話を聞いた。我が家の畑にもナスの苗を2本植えてみた。意外に早く実をつけたけれど、いかにも姿が弱弱しい。教科書にある「3本仕立て」というのもよく分からない。そこで近くの市民農園にナスの仕立てぶりを見学に行った。

  

 途中の緑道にムラサキシキブが咲いて風にゆれていた。薄紫の地味な花だ。秋の紫の実の方を愛でる人が多いのではないか。庭にもムラサキシキブがあるが、これもまた、剪定のし過ぎか弱弱しく花を咲かせるのはこれからだ。放置されて育った緑道の野性的なムラサキシキブがまぶしい。農園は色とりどりのアジサイに囲まれ、園内は丹精込めた野菜類が勢いよく繁茂していた。

 

 農園のナスはどれも大きく育ち2本の交差した支柱に支えられていた。これなら百個の収穫というのは噓ではなさそうだ。彼と我の育ちぶりのちがいに愕然とした。残念だが、その収穫量は大差になりそうだ。以前、カボチャの苗を植えたことがあった。雄花と雌花は咲いたが、受粉せず悲しいことに収穫はゼロだった。

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*紫式部と清少納言②

2024年06月06日 | 捨て猫の独り言

 引用を続けよう。※源氏物語の「手習」の巻の碁の場面は、ただ美しいというだけではない。もっと深い人生の哀感を漂わせているからである。登場するのは浮舟という不幸な女性である。投身自殺を企てるが、死にきれないで岸に打ち上げられているところを、僧侶にたすけられて、僧侶の母の尼僧とその妹のところにあずけられる。その老尼が彼女を慰めようとして碁に誘う。

 ※浮舟も「いと、怪しうこそありしか」と一旦は言う。しかし「打とう」という気持ちになって打ち出すのである。打ち始めてみると浮舟は意外に強くて、老尼は浮舟に先を打たせたが自分より上手なので、手直しして自分が先を持って打ったとある。そんな境遇にいても、一旦碁を打ちだすと、集中して何もかも忘れてなかなかの打ち手と自信のある老尼さえ負かしてしまうのが碁の効用なのである。

 ※不幸な女性を慰めるのに碁をもってくるというところに注目したい。おそらく紫式部もまた人生の中で、このように碁によって慰められたという経験があったのではなかろうか。彼女の人生もまた必ずしも幸せが多かったとは言えないものであったらしい。結婚した男性とは死別している。彼女が碁を打つのは女性同士で打つことが圧倒的に多かったと思われる。男性と派手に碁を打っていた清少納言とは対照的に碁は紫式部にとって、むしろ傷心を慰めるものとして、女性同士でひっそりと楽しむものとして存在いていたのではないかと想像される。

 ※「空蝉」の巻にも碁を打っている情景に続いて碁の内容の描写が出てくる。描写はたいへん具体的で高度な内容をもっている。少々はったりくさい感じがしないでもない清少納言とは違って、本格的という感じがする。私は棋力ははっきりと紫式部の方が上だったと思う。彼女の性格は内向的で慎重であったらしいから、棋風もどっしりとして本格的、おどらない棋風でポカも少なく、悪く言うとネチネチした碁であったろうと想像される。(了)

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*紫式部と清少納言①

2024年06月03日 | 捨て猫の独り言

 大河ドラマ「光る君へ」を楽しみに見ている。天皇の外戚となった藤原一族が、天皇の幼少期には摂政、成長期には関白の地位について朝廷の政治を支配していた摂関時代(平安中期)を舞台に、紫式部(まひろ)と清少納言(ききょう)が登場する。20年前に出版された文春新書に「囲碁心理の謎を解く」があり、その第三章は「囲碁好きの式部と少納言」という興味深い本があった。著者は日本ユング研究会会長の林道義(1937年生まれ)。

 清少納言と紫式部が囲碁を打てた、しかもかなりの腕前であったことを知る人は少ない。それは教科書などから囲碁の場面が削られているからと思われる。そこでアマ6段の著者が枕草子と源氏物語の囲碁の出てくる文章を分析して彼女らの棋風から棋力までを推理した。以下※はその林道義著作からの引用である。

 ※彼女たちの時代は、貴族にかぎってであるとはいえ、才能を持った女性が大量に活躍の場を与えられた珍しい時代である。一条天皇のもとでは二人の皇后という珍しい制度が生れ、一方の定子(道隆のむすめ)のもとには清少納言が、他方の彰子(道長のむすめ)のもとには紫式部が仕えた。どちらの後宮も華やかな文化的サロンとして機能し、男性の貴族も出入りして才能が花開き、ロマンスも生まれた。そんな中で囲碁もまた一役かって、多くの女性の碁打ちが生れ、碁もまた文化としての花を咲かせることができた。

 ※枕草子に「相手の石が死んでいるのに上手ぶって置いたら、それが間違っていて相手の石が生きて、自分の石は死んでみな拾いとられたときの気持ちといったら・・・」とある。つまりカッコよい手を知っていて、その真似をしたというのであるからある程度水準が高くないと書けない文章である。どうも彼女は、大石同士が、攻め合いになって取ったり取られたりというような碁をしょつちゅう打っていたのではなかろうか。乱戦大好き、陽気で才気煥発、負けん気の強い性格が目に浮かぶようである。彼女は若い優秀な貴族たちと対等に碁を打てたということをたいへん誇りに思っていたようだ。

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