玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

⑧こういうことなんだ

2006年01月31日 | ピースボート世界一周
Peace_boat_938
 つい先日船上でレクチャーを受けたユンカーマン監督が自作の映画を持って私の住む市を訪れ、映画の上映と講演を行った。その日私はバイト先のデイケアーで比較的元気なご老人達に同行してこの上映会場に行った。遠くからお会いするだけだが意外に早い再会だった。さらに船上でレクチャーを受けたフィリッピンのカルメリータ・ヌクイさんのことが24日の新聞に出ていた。ジャピーノ(日比混血児)とその母親を支えていることを紹介した記事だ。これは紙面での再会である。そんなことが続けて起きた。

 今まで何度読んでも解り難かったイスラエルとパレスチナ問題や、メディアが人を殺すとき~ルワンダの虐殺とラジオ放送~などを聞いて以来、事実関係や隠された問題にも目が向くようになったように思う。同様にその他の紛争地域にも目が向き、映像や見聞した話と重なったりする。以前は紙上で地名を見てもどっかアノヘンだったナーと思いつつ読み流していたけれど、今はその場所を地図で確認しては、より身近な事例に思えるようになった。

 もちろん自分自身で見聞した事実はモット強烈だ。途上国の貧しさ、不衛生さ、物資不足など。様々な格差、地域差もみた。一方では未発展が必ずしも貧しさを現している訳ではなく、自然と調和している事実もまた知らされた。

 船の中で沢山遊びもしたし、学びもした。遊びの基本は 「仲間を作り、良好な人間関係を結び、参加する」 ことではなかったか。学びの基本は 「知らないということを知り、物事に謙虚に向き合い、今一番問題と考えられている持続可能な社会づくりとその方策を学ぶ」 ではなかったかと思う。一気に変わることは出来ないけれど、今までとは少し違った視点で物事を見ていけるのではないか・・・と思っている。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

⑦シンガポール到着迄

2006年01月28日 | ピースボート世界一周
Peace_boat225_1
 9月3日が横浜出航。ベトナム寄港を中止したのでシガポールに寄港できたのが13日。この10日間ずっと船内生活でした。この間になされたことは船内ツアー及びオリエンテーション、本航海の運営母体である3社の紹介(NGOピースボート、旅行社ジャパングレイス、船会社)、船内企画(運行社主催)、自主企画(乗客主催)の紹介、wellcome partyをはじめお互い知り合いになる企画(友達100人作ろう、ビンゴゲーム、古今東西オール歌合戦など)や、第1~2寄港地についてのレクチャーが主だった。

 なにせ104日間乗客だけでも1000人の生活が始まるので、少しでも快適に過ごすために、オリエンテーションはていねいに行われた。全員を収容できる部屋はないので大集会になるといつも2班に分けられた。主だった職員、通訳ボランティア約20人、GETティチャー約20人の紹介をはじめ、船内生活のマナー、レストラン、郵便、電話、FAX、PCなどの通信、,診療室、美容室、マッサージ室、売店、フロント、ピースボート事務局、一般紙(新聞)が搬入される機会について、果ては洗濯やその干し方など生活全般に及ぶのだった。その後も船内新聞に随時お知らせが掲載された。

 大きい船なので 「揺れ」 には強いと聞かされてはいたが、ヤッパリ慣れるまではある程度の時間はかかる。外洋に出て台風と格闘しながらの2日目、規定に従って避難訓練があった。船酔いの度合いが強い人は除外して全員黄色の救命胴衣をつけ、決められた場所に三々五々集合した。この時期お互いあまり知り合っていないので、黙り気味に着膨れしてアナウンスに従ってモゾモゾ動く姿はナニヤラおかしい。別の日には従業員の避難訓練もあった。デッキには救命ボート100人乗りが12個頭上に固定してあり、他にも大小のボートが手近な所に格納されていた。船長とは3度会っており、従業員もよく教育されているのを目のあたりにしてはいたけれど、「頼みますよ」 の心境しきりであった。

 この10日間で、自己紹介などをしあい人間関係も出来つつあって、当初食卓を共にした方々とは以後もとりわけ親しく付き合って貰った。その中のお一人に、編集中の映像が完成したら関東で(その方は仙台)映写会をするとのメールをいただいている。 とても楽しみ。
 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビデオでみる映画

2006年01月25日 | 捨て猫の独り言
 家でビデオで映画をみる。学校の図書室のビデオだから名作ぞろいだ。古い映画ばかりなのは仕方がない。娘が家に連れてくるアメリカ青年と一緒に見る。それが楽しい。一人で見るなんてもったいない。「明日に向かって撃て」 のつぎは 「カッコーの巣の上で」 (1975年アメリカ)だった。私は前に一度見ている。料理作りが終わって途中から若い2人と見る。州立精神病院を舞台に管理体制に反発する人間の尊厳と自由を描いたベストセラー小説の映画化だ。マクマーフィ(ジャックニコルソン)は病院脱出の直前に乱痴気パーティを開く。そのときキャンディに恋したビリーが専制婦長の無残な一言で自死する。婦長を断固糾弾しあわれなビリーに涙する。

 彼と見た3本目は 「グッド・ウィル・ハンティング」 (1997年アメリカ)である。今度は4人で見た。心を閉ざした天才青年が似た境遇の心理学者との交流を通して成長していく姿を繊細なタッチで綴ったヒューマンドラマだ。心理学者のロビン・ウィリアムスのはにかんだ笑顔がなんとも魅力だ。映画は脚本がもっとも重要だと私は思う。アメリカの青年よ日本にもいい映画があるよ。イチ押しは黒澤映画の 「生きる」 (1952東宝)だね。ここに英語の字幕版がないのが残念だ。

 ハンフリーボガードとイングリッドバーグマンの 「カサブランカ」 は1942年に作られている。これは一緒に見ることはできなかった。あるとき映画好きのこのアメリカの青年に聞いてみた。日本では戦時下の耐乏生活が続いているときにアメリカではこんなロマンス映画を作るなんて凄いもんだね。「あのような時代だからこそあのような映画を人々は求めたのだろう」 との返事に私はとても満足した。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

⑥ダナン寄港を逃す

2006年01月23日 | ピースボート世界一周
Peace_boat_005
 ダナンの若者と自転車やバイクにまたがって、街を気ままに散策する予定でした。しかしながら台風14号直前の出航のため台風にツッコム形になりモロに台風の影響を受けてしまったのです。1泊予定のところ,船舶の最高責任者である船長が「全員集合」をかけ、「乗客の安全を最優先するため日帰りにせざるをえない」と発言。その決断に沿わざるを得ませんでした。そして翌日、なおも風はつよく揺れも最高潮。船酔い続出のみでなく、再度の召集で更に船は迂回して結局ベトナム寄港はボツとなってしまいました。

 ベトナム上陸に向けてベトナム籍を持つ2人の講師よりいくつかのレクチャーも受け、しかも最初の寄港地であっただけに皆の落胆は大きいものでした。しかし誰よりも一番落胆したのは自分の国を見ては欲しかった講師だったことでしょう。しかもつぎの寄港地であるシンガポールまで下船出来なくて。

 一人はミードアン・タカサキさん。明治学院大学の国際平和研究員として活躍中のふわりとした女性でした。ベトナム戦争から30年経った今も、枯葉剤の被害に苦しんでいる人たちがたくさんいることを映画を通して報告し、この問題にたずさわるようになったキッカケやベトナムの文化、風習、言葉、54種類にも及ぶ少数民族の紹介などでした。

 もう一人はカルメリータ・ヌキさん。お父さんに逢いたがっている日比混血児にミュージカルを教えて来日させ、公演をしながら父親探しの旅ををするドキュメンタリーが上映されました。勿論それ以前に父親の消息を調べ、父親にその子の出演とせめて見に来て欲しい旨を伝え、来る来ないは父親にまかせられていました。舞台の袖でコッソリ見つつ名乗り出せないまま別れ、いよいよ帰国の日空港に駆けつけてわが子を抱きしめる親子をみるにつけ、こんな悲劇が少なくない事も知らされました。双方にとってこの上ない不幸なことですよネ。

 彼女らは見るからにソフトでいながら、思考・行動ともにタフで女性特有の持続するエネルギーのようなものを感じさせられました。船内での自主企画も色々あったのですが、いずれも男性は消極的で女性が元気。男性のセカンドライフ組はお疲れなのでしょうか?女性のセカンドライフ組にはあんまり疲れは見えないというかヨリ元気?でしたけれど。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊那谷の独居人

2006年01月21日 | 捨て猫の独り言
 私は2人の独居人を知っている。そしてこのたびの私の3ヵ月半の独居経験をふまえながら独居の効用について考えている。信州の伊那谷に新米のタオイストと自称する80歳の男が一人暮らしをしている。その男加島祥造(かじましょうぞう)著の 「タオにつながる」 を読んだ。それによると 「タオ」 は中国語で 「道」 の意。TaoはZENと同じに世界語になっている。このTaoから 「タオ」 のカナ書きができて老子の思想を指す。そこで辞書で老子をひいてみた。「老子」 は 「道徳経」 ともいい、道学の諸思想を収めた箴言(しんげん)集で宇宙の本体としての道と無為自然の教えを説くとある。

 「無為自然」 は高校生のころに聞いた記憶がある。しかし自分でその意味を掘りさげて考えたことはなかった。自分で考える習慣がないとダメなのだと思う。加島氏はそれを噛み砕いて教えてくれる。彼の特徴はバランス感覚だと私は睨んだ。この本の中で私が共感した二つのテーマをつぎにとりあげてみる。

 躁勝寒、静勝熱、清静為天下正。加島訳によると寒さは熱狂すれば直る。熱狂に勝つのは静けさなのさ。実に清々しい静けさだけがこの世の狂いを直すのだよ。さらに彼は発言する。時代の根底にある不安を治めるには、世の中の政治に頼るだけじゃなくて自分個人をそちらの方向に転じない限り無理なんです。すなわち 「個々の人」 の心にあるくるいや乱れや不安を正すには、自分自身が静かな気持ちにならなければダメなんですね。

 「孤独」 について考えてみようか。人生のなかで孤立することは好ましくないし、避けたいことですよね。独立は人生において積極的でむしろ明るい言葉ですよね。老子のいうように、まず自分がタオにつながる命を大事にすれば、弧の淋しさじゃなくて独の喜ばしさを覚えるようになる。人と一緒でもいいし独りでもいいんだ。年を加えた人のライフって若いときに思っていたよりもずっと楽しいものなのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

⑤船上での生活(夜)

2006年01月19日 | ピースボート世界一周
Peace_boat_925
混雑を避けて夕食は2組に分けられていた。夕食の前後の6~7時ごろはタイムスケジュールが緩やかなので、デッキでユックリ沈みゆく太陽を眺めたり、生演奏を楽しんだりしていた。

 10時近くまで続くレクチャーもしばしばあった。若者の時間は0時を超えて25~28時なんてのもあった。多くは話し合いの延長、飲み会やダンス、近づいてきた行事の準備、馬鹿騒ぎまで。夜型の若者たちは午後からが勝負の感があった。

 面白かったのはオジ様方の動向。レクチャー、映画、PCを使った写真の整理、囲碁やマージャンに参加しないとなれば、自分の部屋でテレビをみるか、デッキで過ごすか飲みに行くしかない。船内にはバーが3つ、居酒屋が1つあった。居酒屋はバイキング形式の食堂が20時以降切り替わるので、この時間帯以降は日本人の店長以下ほぼ全員が日本人の従業員になる。内容は全く日本の居酒屋と同じでもちろん食事も注文できる。

 ただしこの居酒屋に限っては海洋には面しているが、ガラス越しに廊下を通る若いお嬢さんを呼び込める作りにはなっていない。従って前もって約束を取り付けて同伴するか、入ってきたところで呼び寄せるか、帰ろうとするところをモット飲もうよと誘うことになる。

 洋食が続いたときなど、焼き魚定食やあげ豆腐などが食べたくなる。そんなときには居酒屋に来ることになり、何度か私達も顔をだした。たまに最初から時には途中から殿方に声をかけて頂いたりもした。一度同席すると限られた空間の長旅ゆえにか妙に親しみを覚えたりする。いわゆる同窓会の気分に近い。

 そんな時若いお嬢さん方と一緒になることがある。自分の娘ぐらいかウンと若いお嬢さんたち。同感するときもあれば世代の違いにドキッとすることもある。彼女らは会話はポンポン弾み、屈託がなく確かに楽しい。割り切っている。若い子ほどそうだ。オジサン達はそれが楽しいらしい。オバサン達は身なりや、遠慮のなさなどどうしても違和感を覚えてしまうことがある。「長居は無用」 と席を立つことになる。それを潮時にお嬢さんたちも席を立つ。彼女らも結構忙しいのだ。タダ酒を飲んで、タダ飯を食べたらそういつまでもオジサン方のご機嫌をとっておられない。だからオジサン達の本音のところでは年相応の我々オバサン達にも席を立ってほしくなさそうなのだ。両方からオ・イ・テ・ケボ・リをくったオジサマ方の顔は・・・・また誰か来ないかナ~。年相応でもイインダケド~である。写真はお酒をいただきながら見る出航時のチリのパルパライソ港。


















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

④船上での生活(昼)

2006年01月15日 | ピースボート世界一周
Peace_boat_013
 船上での規則正しい生活が始まったのは乗船4日目、自主企画でウオーキング、ラジオ体操、太極拳が始まってから。朝5時30分集合の為その前に起き出す必要あり。時差調整を1時間づつやったので暗いときばかりではではなかったが、概ねデッキで日の出を見ることができた。夜が白々と明け、暗かった海洋が青く照らされ、そのうち地平線の向こうに朝日が昇る。その心地よさにつられ最後まで参加し通すことが出来た。なんせ早起きしなければならず落伍者も多く出る。そのせいで程よいスペースができてウオーキングし易くなった??

 朝食は7時前から。汗がひどいときにはシャワーに戻るが、大方はそのままデッキから1階下にあるトパーズダイニングに下りて、気分や天候、混雑の具合を見ながら屋内か屋外のテーブルに席を取り、コーヒーや紅茶、フルーツ、ヨーグルトなどをバイキング方式で戴く。また当日の船内新聞のタイムテーブルを見ながら、ドレに参加しようか等とお茶しながらお喋りする貴重な時間でもあった。若者たちは朝が遅いので中年組が多くち・と寂しい?正式のダイニングルームもあって、帰室する途中、私の常食であるお茶漬けと少々のフルーツをバイキングで済ます。

 9時すぎからいっせいに活動が始まる。ダンス、映画、英語教室、折り紙、絵手紙、茶道、短歌、俳句、紙芝居、パッチワーク、布ぞうりづくり、楽器の演奏、合唱、囲碁、将棋、マージャン、パソコン、トランプ、講師との打ち合わせやCM用の看板作り、屋上では筋トレ、テニス、バレー、サッカー、カポエラ、フットサル、太鼓、大漁節や現地のダンスの練習、水泳、甲羅干し、若者たちは今風の音楽やダンス、午後からは1日に4回前後のレクチャーも加わった。

 それらを2ケの大会場、1ケの中会場、6ケの小会場、船の両舷の長い廊下に置かれたテーブルを使って行うことになる。部屋を使うグループの担当者は帯、単発を含め場所取りが大変だったろうと思う。とりわけダンスグループ40~50名はリ・キがいっており、帯時間で連日朝、夕2回づつ組んであって他を圧倒していた。いずれにも参加せず、ひたすらベンチでまどろむも良し。読書にふけるも良し。いわゆるナ・ン・デ・モ・ア・リの解放区。写真は船内でのレクチャー。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

62年前の話

2006年01月12日 | 無断転載
 未知の方からブログにコメントが寄せられた。ネットワークの広がりに感激した。しかも父の知人であるSさんは82歳である。メールアドレスにhayabusaが入る。戦時中の戦闘機の愛称だろう。ホームページも開設されている。ご高齢の方たちのインターネットコミニィケーションテクノロジーに私はおよばない。

 Sさんと父は62年前の戦地での短い期間のご縁である。当時Sさん20歳父は26歳である。昭和19年父は三重県の明野飛行場を水さかずきで母に送られて南方におもむいた。私はまだ母の胎内にいた。母は父との最後の別れと覚悟したという。

 Sさんからこのブログへのコメントのことを郷里の父に連絡したところ驚きそして喜んだ。戦友が自分を介さず息子と繋がったネット社会について考えたことだろう。その後にSさんから私に届いた事実の記録のメールをつぎに公開させていただく。

 私がお父上と始めてお会いしたのは昭和19年の5月頃だと思います。当事私の部隊はニューギニアのホランジア飛行場に展開して連日米軍との激しい戦闘を行っておりましたが、4月22日連合軍の上陸に会い数名の生存者を残し全滅しました。私はニューギニアに出発する直前にマラリアに罹り、本隊に遅れて単機追走しましたが途中インドネシアのブル島で愛機が故障し、やむなく船便で隣のアンボン島に渡りましたがその先には行けず、飛行団の指示でハルマヘラ島のミチ飛行場に行きましたが、そのころこ飛行場に南方航空の飛行機が飛来して、飛行第77戦隊が比島のマニラで再建中との話を聞き、一時所属していた飛行第68戦隊○○○○少佐(お父上と同期生)に申告してマニラに着きましたが、部隊の居場所が分からず航空寮に滞在していたところに私の同期生○○○○君がトラックで迎えに来てくれアンヘレス飛行場に着きました。そこで初めてお父上にお会いして今までの経過を報告し、約4ヵ月の追走に終止符を打ち訓練に入りました。
 戦隊長のお父上は「我々はシンガポールで戦隊を再建する」と話されシンガポールのテンガー飛行場で飛行機と操縦者の補充を図り、概ね部隊としての形態が整った7月末に戦隊は解散することになり、人員、機材とも第17錬成飛行隊に移管されることになりました。お父上はこの時新設の飛行第105戦隊に転属されました。短い数ヶ月でしたが忘れられない思い出の期間でした。
    


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

③12/8ラバウル戦跡巡

2006年01月08日 | ピースボート世界一周

Peace_boat_1260
 1941年のこの日に日本は太平洋戦争を開始しました。欧州の強国をまねし、植民地を広げ、日清・日露戦争などの勝利により勢いづいていたのです。アメリカを 「たかが新興国恐るるに足らず」 と捉らえ、はるかに大きい国力を持つアメリカに対して、ハワイの真珠湾に宣戦布告なしの奇襲攻撃をしたのでした。

 1942年、日本軍はアメリカとパプアニューギニア本島を分断する目的で、10万人以上を派兵、ラバウルを占領しました。それ以降飛行場建設がすすみ、ここは最前線にしてかつ最強の航空力を持つ島となりました。ガナルカダル島に上陸するアメリカ軍に対し、戦争が終わるまで何千機もの日本軍航空機がここから飛び立ちました。その結果日米両軍をはじめ、現地の人々も含め数え切れない位の人々が犠牲となりました。ここは 「鉄が沈む海峡」 とも言われ、世界第二次大戦の悲劇の場として今もなお語り続けられています。ラバウルはこのとき破壊された航空機の残骸や、沈没船が多く残されたままです。

 60年の時を経て私達を迎えてくれたラバウルの地は一部は火山灰に覆われていました。村中からかき集めたと思われる車に乗って水溜りをよけつつ森林をくぐり抜けました。天候は熱帯性で蒸し暑く当時の困難がしのばれました。戦闘機の残骸はいずれも屋外に放置され、風化が目立っていました。現地は観光地ではないためプロのガイドは殆んど居らず、兼業の婦人が道案内的に同伴してくれました。地下壕跡にはごく少数しか入れそうにない狭い作戦会議室と思われる部屋があり、壁面には会議に使われたであろう地図が残されていました。あまりの狭さに息苦しい思いでした。酷暑のなかをどうやって風をいれたのでしょうか。

 見晴らしのいい高台には慰霊塔が建っていて、その前で献花し全員でお参りをしました。昼食時に現地の人々が踊りを披露して下さいました。中に一曲 「私の~ラバさ~ん、酋長の娘ー・・・・」 と日本語の歌がありました。夜には一時乗船してきた子供達が現地と日本の歌を歌ってくれました。また翌日の船上では洋上慰霊祭が執り行われ、気笛一声のもと黙祷、般若心経の読経、ご焼香が行われました。乗客の中に戦中と戦後パイロットをされていて、この行事に参加するのが唯一の目的だという老夫婦がいらっしゃいました。他の寄港地でのツアーには一切参加されず、ラバウルだけはとツアーに参加され、念願が叶いどんなにかホットなさったことでしょう。

 ついでながら、年末に見た映画は 「男たちの大和」 です。まだ幼さの残る若者たちが祖国を思う一方で、家族に心を残しながら死に行くさまは涙なしには見ることが出来ません。何がどうあっても戦争はしてはならない。こんな当たり前のことが当たり前でなくなっている現在に恐怖すら感じています。私は戦争体験者であった自分の親から、聞くべきことを十分に聞くことなく親を亡くしました。親としては思い出すだにつらいこともあったからでしょう。これからはコツコツと本の中などから学び取るほかありません。写真は爆撃機の残骸。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が父です

2006年01月04日 | 捨て猫の独り言
 彼が初めてこの家に来たのは去年の8月だった。なんのこだわりもなく笑顔でそこにいた。昔からの知り合いであるかのように。肌の色も言葉の違いもあまり気にならない。その自然ななりゆきが今でも不思議である。娘が茶の間につれてきて親に紹介する初めての青年である。母親の長旅の前にもう一度来た。そのとき 「泉さんと結婚させてください」 と言った。娘は同じことを何度も彼に言わせて面白がっていた。二人は本気だったようだ。母親の長旅の間に二人だけで法的な手続きをすませた。

 たとえば私は他者に対してかくあるべきと固執することがある。悪い癖でとくに身内ならば度を超すことがある。この青年にはそれがないようだ。温厚で他者に寛容だ。さらに彼の楽天的で自信過剰なところは国民性とでもいうべきか。娘は日本人の謙譲の精神を教えるといきまいている。

 将来映画の仕事をすることが彼の夢らしい。映画が好きで詳しい。3人で家のテレビで初めて映画を見た。学校の図書室から借りてきたビデオだ。19世紀末の西部史に名高い二人組の強盗ブッチとサンダンスの逃避行を哀愁とユーモアをこめて描いた 「明日に向かって撃て」 (1969年アメリカ)である。原題は二人の名前を並べただけのものだ。邦題のなんと詩的なことか。1970年は米軍の北爆開始やよど号事件があった。アウトローが主人公でハッピーエンドでないところが時代の空気に合っていたようだ。ポールニューマンがロバートレッドフォードのガールフレンドのキャサリンロスと自転車の曲乗りをする場面がある。ヒット曲 「雨に濡れても」 を3人で口ずさんでいた。娘はアメリカは食事には淡白だが映画の国だと言う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする