玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

読みやすくて有難い本

2005年04月29日 | 捨て猫の独り言
白内障の手術を先送りして、本を読むのに不自由している。最近、図書室で中学高校生向けの歴史読み物を借りて読んでみて、とても解りやすくて有難かった。一断片にスポットをあて、問題を取り上げている。

明治維新政府が40万の士族を新政府の常備軍にくみいれることは、財政的に困難であった。そこで国民の義務として徴兵制度をしく必要があった。士族の特権を廃して、国民皆兵の近代兵制をよく理解させることは、、当時難しい問題であった。薩摩の島津久光、西郷隆盛らは強く反対する代表であって、長い年月のあいだにやしなわれた武士の特権意識から、土百姓や素町人とともに国防にあたるのは、しのびがたい恥辱であるとかんじたのであった。民衆も徴兵制によって、働き盛りの者がとられることにたいして反対して一揆をおこした。

福沢諭吉は政府と人民の関係を、「百姓は米を作って人をやしない、町人は物を売買して世の便利を達す。これすなわち百姓町人の商売なり。政府は法令をもうけて悪人を制し、善人を保護す。これすなわち政府の商売なり。この商売をなすには莫大の費なれども、政府には米もなく金もなきゆえ、百姓町人より年貢運上をだして、政府の勝手方をまかなわんと双方一致の上、相談をとりきめたり。これすなわち政府と人民の約束なり」と述べ、ここから人民の権利と義務の関係の目覚めがひきだされてくる。

明治15年、三島通庸は、山形県令から福島県令に赴任してきた。彼は薩摩藩士で、幕末には京都の寺田屋事件に関係した人であり、明治維新となってからは、大久保利通の片腕として活躍してきた。彼は、中央政府の命令のままにうごく地方長官として県下に君臨し、封建制度の遺習そのままひきつぎ、県民にたいしては非常にいばっていた。彼は赴任するとすぐに、書記官、部長いか90余名をいちじに大更迭し、自分の気にいった人物を登用した。そしていそぐ必要もない道路土木工事を行った。自由党でかためられた河野広中ひきいる福島県会は、三島の提出する議案にことごとく反対した。三島は警察力と帝政党の援助によって、県民の苦しみもかえりみず、安積疎水工事を完成させた。福島自由主義者の本部に入りこませていたスパイを利用して政府転覆の内乱陰謀の罪を作り、河野以下50余人を東京に護送した。これが福島事件のてんまつである。このあと、高田事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、静岡事件が起こる。

近代化を急いだ明治政府が外向きとすれば、江戸300年の平和は内向きといえるだろう。自称グウタラ派が「わしゃ江戸文化が好きや」と言っていたことの意味が分かりかけた気がする。

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スローライフな生活

2005年04月26日 | ねったぼのつぶやき
 先日新緑のトンネルが出来上がった玉川上水にそって散歩していたら、木立を通してて知人が庭先で作業をしているところを見かけたので寄り道をした。彼女とは少なからぬ縁があってとても親しみを感じている。彼女は3人のお子さんのお母さんで御長男は小学校から大学まで捨て猫の学校の生徒だった。次男さんと我が家の息子は同学年ではあったが小学校は、別々だった。しかし地域の同じサッカークラブに属し、子供同士良く遊びあった。その後我が家の息子がその次男さんの通っている私立中学、高校に入ってからは、同窓生で同じクラブとなった。後になって分かったことだが、彼女と私は同じ年で全くの同姓同名だったのだ。

 子供らが学童の頃はあちらのお宅の芝生に卓球台をしつらえて、日ごと卓球を楽しんでいた。その頃は未だ花や草木は庭を取り囲んでいる程度だった。お子さんらが成長するにつれ芝生は押しやられ、花の数と種類が増えていった。昨年お邪魔したときは庭全体に花が咲き咲き乱れ、しかも手入れが行き届いて見事であった。美しいのは何も塀の中だけではない。道路伝い、垣根伝い、車庫伝い、どこも手入れが行き届いているのである。こんな風だから「いないようだったけど見せてもらったわ」と言う人がいたり、雑誌に載ったりもしているようだ。ある花好きの奥様が病に伏され、その御主人に乞われて毎週末病院に花を届けた話など伺った。

今回その庭にまた変化が起きていた。昨日も庭先で前日出した、鯉のぼりのはためき具合をみていたところだったそうたが、中庭に入ってみたら、中央にまた芝生がしつらえてあった。長男、次男さんにお子さんが出来て「そうそう来ないもんよと言われているけど、少しは孫の遊ぶスペースもなくちゃね」といって、テーブルとイスもおかれていた。おじいちゃんがやってくれたと教えたくて、普段全く手出しをしない夫にやってもらったのと言う。かって次男さんがバイクに乗って我が家に来たことがある。そのときも住宅街だからと途中からバイクは手押しだったことを記憶している。恐らくそれもこれも彼女の細やかな気遣いがあればこそと思う。

 彼女は物静かな優しい人で、おっとり話し穏やかに笑う。人や,花や、動物など愛しんでいる様子が、話しているそばから伝わってくるそんな人だ。昨日も私にはコレとパジャマがあれば間に合うのと言って、シャベルを持った手で作業ズボンをつまんで見せた。玄関先には麦藁帽子が7~8ケ積み重ねてあったので帽子もたくさんあるのねといったら、被っていた、穴の開いた麦藁帽をつまんでとり、いつも此処を摘まむもんだから穴があいてしまうの。コレ198円だったのだけどと、ある人に話をしたら100円のもあるわヨと、100円ショップで買って持ってきてくれて貯まっちゃたのと言って笑っていた。

花の一つ一つにある小さな物語を聞かせてくれたり、人と同じように動物もいたわり、庭の隅を指差して此処には猫、あちらには犬と言った具合に彼らとも共に住んでいるのだ。ご長男が筑波大学大学院を卒業して帰ってきたとき、話があるのだけどと言われて(もしかして早速彼女?)と緊張して聞いてみたところ、ダンボールに猫が入っており、飼っていいかということだったらしい。大学院生が猫を飼う。幼児よりそんな環境になければ思いもよらないことである。

 仕事柄止むを得ないこととはいえ、急ぎ足の多忙な日々を過ごしてきた。今時間が出来てスローライフをと願っている。
その具体的な生活様式の一つを彼女の中に見る思いがしている。しかし長年の間に培われた性向、生活習慣、生活リズム、思考過程など色んな要素が絡み合っているので、そう簡単に見習えそうもないが、大事な友人の一人として交友を続けてゆきたいと思っている。






 

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自由民権運動

2005年04月17日 | 捨て猫の独り言
中林茂夫氏は私立の一貫校で日本史担当の教師であった。私はこの愛すべきボスのもとでコーちゃんと呼ばれながらともに担任をやらせてもらった。ロッキード疑獄事件でコーチャン証言がマスコミに取り上げられていた頃である。振り返ると充実していて、活気に満ち、濃厚な日々であった。氏が定年退職を迎える前1992年に病死された後、公立の教職の共働きの奥様が、中林茂夫著として【「自由」と歴史教育】を編集出版された。この中に「生徒と学ぶ自由民権運動」という実践報告がある。氏とともに過ごしたあの特別な時期の秘密を見る思いがする。僭越ながら奥様もお気付きなかった彼と私の人生の高揚期のようなものを発見した気がしている。

「1981年自由民権100年全国集会の年、夏の合宿を秩父で行い、秋の文化祭で秩父事件について発表しようということになった。夏休みになるとすぐに、三泊四日で秩父に出かけた。その間に川遊びもしたし、民宿の郷土料理もうまかったし、生徒たちは満足して帰ってきた。そして、夏休み中の仕事の分担を決めた。ここでも事実の確認を主たる目標にした。」

彼はこの本の別なところで次のように書いている。「歴史教育において、歴史の法則をわかりやすく的確に伝えることは、必要なことであるが、それだけでは不十分だということである。法則性は本人が主体的に捉えようとしたとき、初めて認識たりうるからである。法則性の認識の出発点は、事実の発見あるいは確認である。中等教育という段階で必要なことは、自らの力で事実を知るという体験をもつことである。それが、生涯にわたっての認識の深化の起点となる」日常的には「クドクド理屈を並べるとこうなる」と言いつつ、ときおり生徒にも精一杯の言葉を投げかけようとしていた。

「テーマの分担は以下の通り。(1)秩父事件の経過を、5万分の1地形図に10日分の色分けにして書き込む(2)村別・職業別参加人数の調査(3)椋神社(蜂起の日、民衆が集まった場所)周辺の今と昔(4)秩父の民族・文化を調べる。これらは中学生には、少々荷が重い。彼らの頑張りをささえたのは、第一には現場の迫力を実感してきたことである。第二には秩父で独自に発達した文化の豊かさに、深く感動したことであった。第三には、いくつかの秩父事件についてのどの本にも出ていないことを知って、幼い野心を抱いたからである。」

この第一に、第二に・・・が口癖であったことを思い出す。どえらい夫婦がいたもので、奥様も立派である。「夫の友人たち(私ではない)が遺稿集を編もうと言ってくださったが、ご好意を固辞した。夫の論文を読み直し、生きた跡を自分の手で辿り直すことによってしか、私の再生の鍵は見つからないように思えたからである。これを編むことで近代史を辿ることができたのは、門外漢の私にとって得難い経験であった。」

今年から週に2時間の「総合の時間」を担当する。おおいに戸惑っているところだ。生徒とともに物事の本質を根底的に捉えようとしていた社会科の中林氏ならば、そんな私に何と言うだろうか。


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ハナミズキは鳥を呼ばない!?

2005年04月15日 | ねったぼのつぶやき
 ハナミズキがこの2~3日ですっかり開花しました。かいどうは小粒の花を垂らし、ひいらぎ南天もとげとげの下に可憐な黄色い花をのぞかせています。通りでは花にらがそこここに自生して咲き、道行く人の目を楽しませています。木瓜の花は白とピンクのまだら模様で、寒暖の日々を持ちこたえいまだ健在です。山吹やこでまりは、昨年大幅に刈り込んだせいで今年は花芽が見えません。春を一番に告げる梅の花はすっかり散りしだき、今は柔らかな若葉に変わっています。広からぬ庭に椅子を持ち出し、春一杯の陽を浴びて庭ですするコーヒーは郊外ならではの特権でしょうか。

 ところが、先日紙上で「庭に鳥がとんできますか?」とあり、読み進んでいくうちハナミズキの木など植えていませんか?と書いてありギクリとしました。外来種の木には鳥も飛んでこない。里山にあるような木なら鳥は飛んでくるということらしい。幸いに我が家は玉川上水べりにある事と、ハナミズキは2本ながら他の木も2~3本はあるので、未だ鳥も飛んでくる方かなとも思うのですが少なからずショックを受けました。木陰の下を車庫がわりに使っているので、今でも充分なのにこれ以上フンで汚されても大変だよーとも思いつつ。

 ところで、今結構人気のあるらしいハナミズキが我が家に参入したのは25年以上も前のことです。長いお付き合いのある庭師さんが、年間を通して楽しめますよと勧めてくれたことと、当時なにやら聞きなれず、面白いかもという気になって植えてもらった記憶があります。あんに違わず春は芽吹きから可憐な花が楽しめ、夏は木陰に憩え、秋は赤く美しい実をつけ紅葉する。(しかし残念なことに関東では寒さが足らず美しいといえるほどの紅葉は求められない) その庭師さんが「今も街路樹や公園にと引き合いはあるが高価になって」と嘆いました。外来種は鳥を呼び込めないということであれば、自然がアレヨ、アレヨという間もなく少なくなってゆくこんなご時勢には、少しでも在来種を根着かせた方がいいと誰だって思うにきまっていますヨネ。

 

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日本中央競馬会と共に

2005年04月07日 | 捨て猫の独り言
2000年に初めて馬券を買った。正しい競馬の楽しみ方は、直接競馬場に出かけて青空のもと、緑の中でお弁当を広げながら約450キロほどの馬体を間近かに見て、12回のレースに賭けることである。朝9時から夕方4時くらいまで楽しめるそうだ。ピクニックのついでに競馬するのが理想形とすれば、その対極にあるのが借金地獄から生活破産へと単独で突き進むことだろう。この年のひまな日曜日は、自転車で30分の場外馬券売り場(ウインズ)にでかけて、帰宅してテレビ観戦することが多かった。G1(グレイドワン)レースが主で、一日にⅠ万円以内と限定したささやかな賭け方である。一般紙の中で予想は毎日新聞が最も充実している事も判明した。

2000年にはテイエムオペラオー(牡馬)が、春の天皇賞、炎天下の宝塚記念、秋の天皇賞、世界に開かれたジャパンカップ、ファン投票出場の有馬記念と、この年度のG1を5回も優勝した。騎手は和田竜二で、そのたびに「竜二コール」が沸き起こったものである。馬主は鹿児島の人で竹園正継であるからテイエムである。その後、テイエムオペラオーのような勝負強い馬は現れていない。竹園氏は今年度はテイエムヒットべ、テイエムイット-などを走らせているがなかなか勝てないようだ。この年の私の収支はマイナス七万円であった。初めてのことでその年は入れ込んだが、次第に興も冷めて現在に至っている。

2005年には強力なサポータの出現により、我が家にパソコンが導入され、ブログが開設された。このことで、やはり生活が変化した。ところで人ははずみで何事かを始めることがある。このたびJRAのエーパット(A-PAT)の会員になった。これからはパソコンからのインターネット投票ができることになった。この手軽さが危うい。ところでこのことをパソコンサポーターに何らかの形で告白しておかねばならないと感じたのはなぜか。

手続きに3ヶ月ほどかかった。まず銀行に専用口座を開設した。ログインに必要な番号が届き、4月20日と21日にトレーニングレースとして投票操作を体験する。4月23日からご利用開始である。どうなろうと私は知らないよと、ねったぼのつぶやきが聞こえる。そのうち緑の芝生の競馬場に行こう。

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求職活動支援の実際

2005年04月06日 | ねったぼのつぶやき
さて3月31日当日がやってきました。職安による求職活動支援の日です。一体どんなことになるのだろうかと当日は不安な気分でした。もし業務に忠実な担当者にあたったら、私の希望としておいた業務にマッチしたものを必ずや見つけ出すと思ったのです。正看護師、ケアーマネージャー(介護支援専門員)、衛生管理者の資格を持っていれば、その気になれば65歳ぐらいまでは、病院でなくとも施設や介護保険関係の事務所で常勤、非常勤として働き口はないこともないのです。

 「仕事があるのにどうして働かないか」 勿論失業保険をもらいきりたい事情もありますが、それ以上に秋口から3ヶ月半どうしても就業できない個人的な事情があるのです。その用事を済まさないと仕事が半端になってしまうので、就業するか、しないかを決めるのはそのあとになってしまうのです。

 時間になって呼び出された窓口の担当者は30代半ばかの風情。失業保険給付の手続時書き込んだ用紙を広げて、「この仕事ならまだまだ求人はありますよね。(専任が別にいるらしく)求職相談に乗ってもらいますか?それとも自分でやりますか?」と問われる。「今更慣れない所で働くのも苦痛だから自分で探します」と答えたら、「ソウデスネ」と一言で終わった。当方の年齢を見て無理強いしなかったのか、働きたくない様子を肌で感じとったのか、、あるいは言葉どうりに受け取ってもらえたのかは解りませんが不快な思いは一切しませんでした。

 それどころか最後にせいぜいご苦労様の挨拶かと思いきや、有難うございましたの挨拶を受けて世の中は変わりつつあるんだな~と改めて実感しました。(元いた病院も機能評価を受けるべく、あらゆる角度から一定の基準を満たすように2年がかりで取り組んでおりました。職員の数、医療機器、感染対策、情報の公開と個人情報の保護、プライバシー保護、記録の統一化、医療事故対策、医療廃棄物処理、給食の選択性、適時適温配膳、全館禁煙、利用者様の処遇など考えられる全てにおいてマニュアル作りとその徹底をと・・・・旧態からの変革が要求されていました)。

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秩父のこと

2005年04月02日 | 捨て猫の独り言
30年以上もまえに、同僚の結婚式のために初めて秩父を訪れた。1970年に西武鉄道が秩父へ延長された直後のことだ。正丸トンネルを抜けると間もなく武甲山が見える。秩父盆地は、「要塞」のように感じられた。神社の畳の大広間に黒塗りの膳が並び、土地の酒が振舞われた。そのときの新郎と私は、しばらくして別々の職場に移ることになったが、その後も家族ぐるみの交流が続いている。荒川にかかる、モダンな秩父公園橋の近くに、私の立ち寄る場所がある。

初めの頃に、案内されたのは音楽寺である。秩父札所34ヶ所の観音霊場の第23番の音楽寺は、秩父市と小鹿野町の間に連なる長尾根丘陵にあり、秩父盆地の町並みが眼下に広がる。桜と好展望で知られる人気の札所だ。明治十七年(1884年)11月2日飢えと借財に苦しむ農民で組織された困民党が、竹槍や鉄砲などで武装蜂起しこの音楽寺に終結した。銅鑼を乱打し、それを合図に河岸段丘を駆け下り、大宮郷(秩父市街地)へなだれこんだ。自由民権運動の激化事件の一つだが、十日あまりで鎮圧された。世にいう秩父事件である。

12月3日は秩父夜祭である。2日の神馬奉納のあと、3日夜、笠鉾と山車が「お旅所」まで渡御し、このとき秩父屋台囃しが奏される。祭りは町内会の持ち回りで運営される。彼が当番のときに、私は招かれて、はっぴと鉢巻を受け取り山車を一部の区間だけ引く機会が与えられた。そのとき、いつに間にやら眼鏡の片方のレンズを紛失していた。祭りのクライマックスは「お旅所」直前の談合坂にある。連続する花火の光と音とともに短い談合坂を山車が傾き軋んで駆け登り大歓声が沸き起こる。混沌たる祭りの全体像を把握するには、一夜では困難だ。

秩父は、酒、ぶどう酒、うどんそば、山菜保存食そして鉱泉、札所、祭りなど個性的である。ときおり我が家では秩父屋台囃しが流れる。

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