玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

「それでもボクはやっていない」

2007年01月30日 | ねったぼのつぶやき

 昨日前々から気になっていた映画2本を見に行った。「それでも」ともう1本は「硫黄島からの手紙」である。混雑を避けて平日に行くのが習慣になっている。シニア1000円は有難い。観客動員に拍車がかかろう。私達の世代は若いときは映画代に不足し、不足しなくなったら時間が不足していた。

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 周防監督は「Shall We Dance?」でファンになった。以来数年沈黙し今回久々の作品だという。「痴漢行為」を働いたとされた主人公が捕らえられ、取調べを受けながら警察が作った供述書に基づいて有罪とされそうになる。

 身に覚えのないことゆえ、早々に認めた方が手っ取り早いという警察、当番弁護士の助言に従えず、「あるべき無罪」を弁護士と共に闘う裁判闘争の物語である。冤罪を作らないことが第一という裁判官から交代した次の裁判官は、有罪判決を突きつけた。「冤罪」の発生である。裁判所は必ずしも良民の味方と信じ込んではいけないと雄弁に物語っている。最後は主人公が「真実を知っているのは私だけ。私が裁判官を裁く」と独白し「上告する!」と終わった。

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 夕刻TVを見ていたらニュースが「番組改変訴訟 NHKに賠償命令」と報じていた。「そうだアレだ」とピンと来た。’00年国際戦犯法廷を取材したNHKは、放映に先立ち政治家(安倍、中川)の発言によって番組内容を改変したと、取材された側の女性の市民団体が訴えを起こしていたのである。東京高裁は「番組改編は政治家に過剰反応したものであり、取材を受けた市民団体に200万円の支払いせよ」と命じた。だがNHKは即日上告した。こちらは多様な問題(政府の予算案チェックや発言など)を孕んでいる。’01年以来の闘争はあと何年を要するのだろうか。色文字をクリックで関連記事に飛ぶ。(写真は船長)

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お世話になります

2007年01月28日 | ねったぼのつぶやき

 その方のことは良くは知らない。1年余前ピースボートで3ヶ月御一緒したので顔は良く存じ上げていた。食事時2~3回相席になり挨拶や挨拶代わりの会話はしたことはあったが、ツアーが一緒の際も特別会話は交わさなかった。生真面目な印象もあって、気安く声をかけがたい雰囲気でもあった。

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 帰国後kumarを偲ぶ会に出席した時、同じ船に乗船した客は3人だったが、その場で始めて会話したようなものであった。もう忘れてしまったけれどその時「blogを書いているので、kumarのことを書きたい」とでも紹介をしたのだろうか。以来blogを読んでいただいているようでコメントも戴いたりした。

 靖国参拝反対のキャンドルデモの際、Boat側の要請でその方を通して参加依頼があって参加し、その方の友人達とも行動を共にした。紀行文100回シリーズを終えたので正月を過ぎお礼の挨拶をした。帰ってきたのはバックに私がblogに使った写真を用いkumarが騎馬戦で相手に挑みかからんとしてしている1葉にメールを打ち込んであった。嬉しかったことと私もその手法を学びたくて教えを請うと即座に返事が来た。

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 戴いたマニュアルをプリントし、やってみたらヤット”出来た!”。出来るには出来たけれど新たなる疑問も生じ、再度お手を煩わせた。こういったことをテキストのマニュアルを見ながらマスターしたいと思うのだが、テキスト、マニュアル、仕様書と見ただけで手は引っ込んでしまう。こんな調子では発展性がナイと思いつつも脱せない。本当に色~んな方々にお世話になっています。来年こそは年賀状も上手くいきそうで嬉しい。(イズレも写真上にメールを打って往復したのだが、これ又掲示できない)

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*我が友Mのこと

2007年01月26日 | 捨て猫の独り言

 Mとは高校以来の付き合いである。私たちは近々にリタイヤの時期を迎えるが付き合いの度合いは増すばかりだ。高校卒業以来同じ街に住んだことはない。いつも遠方からMが私を訪ねてくれた。それで私の子供達は幼い頃からMと顔見知りである。Mはその成長を見守ってきた。それぞれ所帯を持った私の子供達は今でもMおじちゃんと呼んでいる。

 Mは甲子園球場の近くに一人で住んでいる。阪神大震災の時はちょうど浴槽の中にいて、そこから這い出してみると自分の枕がタンスの下敷きになっていたという経験をしている。それ以来なんとなく風呂は電車で2駅の銭湯に通うようになった。驚いたことにエアコンはもとより夏の扇風機や冬のコタツなどが部屋にないという。一度は覗きに行きたい気もするがなかなか実現しない。日焼けして精悍な容貌で清潔感があり同級生の中では一番若く見える。最初は技術畑を歩み今は自社製品の売りこみで全国を飛び回っている。

 彼には93歳の父親がいる。介護のためかなりの頻度で大阪から鹿児島に帰る。そのついでに私の両親の所にも立ち寄ってくれている。車の免許は持たず自分の足で歩くことを心がけている。電車バスを使わずおよそ2時間ぐらい歩いて訪ねてくるのだと私の親が驚いていた。私はこれを親孝行代行と呼んでいる。

 出張のついでについ先日やって来た。 鹿児島の私の両親の様子などを聞く。今回は泊まって早朝に勝手に出て行った。彼は経済週刊誌を置き残して帰った。それには黒部発、世界シェア45%、YKK知られざる「善の経営」という20頁の特集が掲載されている。YKKは株式上場を頑なに拒み、創業家と社員と取引先で株を持つ。2代目社長は就任翌年に社名を吉田工業からYKKに変更した。彼はそのYKKに大いに興味があるという。最近になってやっとオッズとかキャピタルゲインなどの世界を知り始めた私は大いに考えさせられる。彼の忠告と受け止めよう。おぼれてはならない。

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夏水浴する幼児の傍で

2007年01月25日 | ねったぼのつぶやき

 雨の降らない限り昼前の小一時間は散歩をする。それが私の手伝っているグループの日課である。多くのご老人は家では閉じこもりがちである。とりわけ冬はそうだろう。「いいねエ~」と言う人あり。「また~」と眉根を寄せる人もいる。その違いはデイケアーに参加する頻度によろうか。

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 私の足なら10分もかからない運動公園まで、利用者さんと職員は1対1の割合で会話しながら、道並の家や草花を見遣ったり、公園の季節の移り変わりを肌で感じたりしながらユックリ歩く。公園に着いたら常連の先客と挨拶を交わし、飴玉をなめ、持参した暖かいお茶を少し飲んでラジオ体操をする。夏なら噴水や子供の水浴びを愛でることもできる。(噴水の左側に休憩用のベンチ設置アリ)

 昨年の夏、90才前後の一老婦人に対して私はある試みをした。彼女は低血圧と四肢末端の循環不全と心不全があった。デイサービスに参加してもダルイと言って横になられていることが多かったが、車椅子に乗っての散歩は気分転換と喫煙できることで好まれた。禁止されている「ハトへの餌やり」も彼女の慰みだった。食欲はあって良く召し上がっていたが長期通所はムリと予感された。

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 ある日休憩中に「銭湯に行きたいなぁ~」とつぶやかれた。到底叶わぬことであったが「足湯」に変わる「足水」なら可能だった。子供達が水浴びしてさんざめいている傍らに車椅子を引き寄せ靴、靴下をとり素足をさらした。「あ~いい気持ち!!」と声を上げ天を仰いで満足そうな表情をされた。それから2ヶ月たたぬ体育の日に1人住まいの彼女は脳卒中を起こしていて1週間後に帰らぬ人になった。アメリカにただ1人いらした息子さんとも何年ぶりかでじきに会える筈で心待ちにされいたが、その直前の出来事で息子さんは葬式にすら間に合わなかった。(壁面から水が滝状に流れ手前の階段を伝って池へと循環している。その流れの浅瀬で乳幼児が水浴びして遊ぶ)

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近くの運動公園

2007年01月22日 | ねったぼのつぶやき

 室内体育館を併せ持つその公園はロケーションが良く駅の真裏にあり、多くの人々が利用している。時間の流れに従って様々な人々が行き交っている。人のみならず犬や猫まで。グランドには夜間照明装置がついており応用範囲は広い。

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 早朝はジョッギングやウォーキングに始まって太極拳やラジオ体操、通勤、通学者の往来と忙しく入れ替わる。暫くすると4面あるテニスコートで主婦達がざわめき華やぐ。木組みのアスレチックや砂場、遊具のコーナーでは母親が子供を遊ばせママ同士のお喋りが始まる。園児や学童のアスレチック、お絵かきには先生方が付き添う。ムコウでは犬の散歩組みが「この子は・・」と情報交換をしている。日中気分転換と陽だまりを求めて中、高年の人達がベンチに集い、中にはアルコールを飲料ボトルに入れて持参する人もいる。

 午後になると学校を終えた小学生が一輪車やローラースケートの練習をしている。中、高生達がクラブ活動(陸上、サッカー、野球、各種対抗試合)やストリートダンスやスケートボードを始める。小高く設えられた丘や木立の間からは洋楽器や三味線、民謡が聞こえて来る時もある。夜は夜で塾の帰りらしい生徒達がダベルングした後家路に着くようだ。(紅葉した丘の木樹)

 体育館はメニューも豊富で幼児のプレールームを除けば、プール、ジム、バレー、バスケット、バトミントン、エアロビクス、体操、剣道、卓球など利用料が要るが、入館だけなら無料で放課後などは学童学生の集まり場となっていて、それはそれで機能している。維持費に市の税金2000万円持ち出しと読んだ記憶がある。こんな税金の使い方なら誰でも納得しよう。私も週2回ジムに通っており仕事と同じ回数通っていることになる。

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*半兵衛麩

2007年01月19日 | 捨て猫の独り言

 空になりつつある職場の机の引き出しから朱色の和紙が出てきた。あの人に貰った京都みやげの包装紙である。きれいな和紙なので捨てるのが惜しく引き出しに残った。あの人というのは同じ数学科の女性教師である。私より若かったがちょうど一年前に死去した。それは誰も予想していない出来事だった。

 京都の私立女子学校から杉並区のT女子大に進んだ。その後私と同じ職場で非常勤から専任となった。なにごとにも控え目な人で、生徒に対しても気色ばんだり大声をあげたりするようなことはなかった。私は人間嫌いなんですと漏らすのを一度だけ聞いことがある。父親が亡くなって、京都の母親は娘と暮らすため東京に移った。高齢で体調も優れず娘に過度に依存していた。そのせいかどうか知らないが、娘は生涯結婚することはなかった。

 京都で暮らしたことのある私にそのことだけで親しみを感じたようだ。彼女が帰省したときに、別に私へのおみやげというのを二回貰ったことがある。初めて口にする物だった。まるで肉か貝のような食感である。食卓でも好評だった。 「精進生麩禅」 という商品である。昔の修行僧の貴重なタンパク源であったという。包装紙の記載から今になって株式会社 「半兵衛麩」 をネットで検索した。早く気付いていたならば昨年夏の京都行きの際に五条大橋近くの本店に立ち寄っていただろう。

 その人が私と話しているときのことだ。左手の親指が右の乳房の下あたりをセーターの上から何度か行き来するのである。無意識の行動だ。気になっていて何日か後に早期の検診を勧めた。自分でもなにか気になっていたところだと言っていた。それから2ヵ月後に私は訃報を聞いた。検診を勧めた1ヵ月後に、あの人が職員室で私だけに見せたものがある。京都のどこかで撮ったものであろう。母親とその人と従姉妹の女性3人が並んで写っている。それぞれが若かった頃の拡大写真であった。この出来事は今でも不思議に思い出す。

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あれから12年

2007年01月17日 | ねったぼのつぶやき

 6434本のローソクの点火で浮かび上がらせた「瞳」。地元の市民団体が96年から続けているローソク点火のイヴェントは、震災体験を正確に伝えて今後の防災に生かそうと、真実を見据える瞳をテーマにしたという。

 戦争を知らない私にとって体験したことではないながら「身近な1番の騒乱」であった。阪神大震災は多くの教訓を残した。災害救援ボランティア。災害医療。家並町並。日ごろの防災。災害に耐えうる強度。ストレス対処・・・等など。数え上げたらキリがない。

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 朝日新聞の夕刊1面に「人・脈・紀」のシリーズがあり16日「震度7からの伝言」としてPeace Boatのボランティア活動が書かれていた。梅田隆司は青学在学中、BoatのNGO活動に加わり、世界一周後大学を中退してアフリカ等で難民を支援した。神戸では河川敷にテントを張り100人を超すボランティアのまとめ役になった。焼け跡を歩き、手作り新聞を毎日無料で発行し風呂、尋ね人、炊き出し、求職、住宅支援の告知等人々が求める情報を提供した。ある日1億円近い損失を出した社長が相談に行った時、穏やかな物腰、心のこもった言葉で対応した。血眼で走り回っていた時だけに「会って話すだけで安堵感を与えてくれた。無財の七施とはこういうことか」と気付かされた社長は以来地元の復興に努めた。不幸にして翌年29才オートバイ事故で死去1000人が参列したとあった。

 大震災当時、私は開頭手術を受け自宅療養をしていた。いつものようにボンヤリした頭でTVのスイッチをひねると、燃え盛る火の手がアチコチから噴き出している映像が飛び込んできた。ヤヤあって地震、建物の倒壊、火事噴出と気付かされた。地上の現場からは切迫した声でアナウンスがあり、空にはヘリが飛び交いヨリ切迫したリポートをエンドレスで送信していた。このNewsに接するたびに災害と共に私の体を通り抜けた災害も思い起こされ、阪神大震災は特別の恐怖と感慨を抱かせる。

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新聞と私とクイズ

2007年01月16日 | ねったぼのつぶやき

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 この頃めっきり読書量が落ちた。退職したらといつも思っていたのに・・。一番には本を増やしたくない気分が先行してしまう。本は捨てるに忍びない。図書館も遠からずあるがそこまで行かずとも廊下の突き当りには共有できる本もある。あんまり手近にあるといつでも読める気になってそのままになってしまう。

 モット正確に言えば新聞を読むのに時間がかかるようになった。世界地図を広げNewsになっている場所を確認するといった作業が昨年から入ってきたせいもある。が、それだけではない。いわゆる脳トレとよばれるクイズやパズルようの物にハマッテしまったせいである。

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 とりわけ数独は私を虜にしてしまう。これは世界中で爆発的な人気らしい。公民館で続けている英語のイギリス人講師も数独のファンらしい。数学的思考を要するのはこの程度しかしないが、国語系は4字熟語ブロック、スケルトン、ダイアモンド、リレーパズルと果てしなく面白い。月1回参加している歴史と文学の会も講座のはじめに1枚のこの手のテストをしている。この頃は新聞だけでは物足らず本は買わない主義の禁を犯して本まで求めてしまう。

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 やりだしたら止まらなくなるので週末はやらないことにしているが、キリよく終えられないと気になって猫殿の前でもやってしまう。「今に飽きる」と思ってのことだろうか。未だお叱りを受けたことはない。4月以降猫殿も定年退職となる。週3回位はご出勤があるようで有難い。そうでないと私のパズルタイムは捻出しにくい。1番目の問題は未だ正解が導き出せないでいる。

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*25年前の旅

2007年01月13日 | 捨て猫の独り言

 職場の机の引出しから色あせた小さなノートが出てきた。1983年8月31日出発の高校2年生女子8人男子7人と引率者2人の修学旅行についてのメモである。ノートの前半の頁が旅の下調べ、後半には現地で手に入れたパンフなどが糊付けされている。。もう25年も前のことだ。初日に永平寺の拝観があった。

 ひかり号で名古屋まで行き、北陸本線で福井に、そして京福電鉄を永平寺駅で降りそこから徒歩5分で永平寺だ。東京からの所要時間は6時間と15分である。貼られていた参禅のしおりによると、参禅期間は2泊3日以上7日まで。費用は4泊まで1泊につき1500円、5泊目より1泊につき1000円、経本2冊と日常雑費1200円、着物、ハカマの洗濯代1000円とある。日課は起床洗面3:30、暁天座禅、朝課、小食、作務、座禅、日中、中食、作務、座禅、晩課、薬石、夜座、開枕21:00、入浴や、洗濯は随時指示するとある。

 瞑想によって人間の内なる広大無辺の空間を知る。外と内はメビウスの輪やクラインの壷のごとく表裏一体なのである。悟りとはゴムマリに針先ぐらいの小さな穴をあけて、ゴムマリの内側をつまんでひょいと内側をそのまま外側にしてしまうようなものかもしれない。どの本から引いたのか今では調べようもないがこんな書き込みが残っていた。初日は金沢泊まりである。午前中は宿泊場所近くの見学、午後はバスで移動するパターンであった。

 2日目は兼六園を見て、庄川沿いを白川郷萩町に向かい、合掌造りの民宿に泊まる。3日目は萩町周辺の散策の後に高山市に移動。4日目は高山陣屋、屋台会館など高山市内見学という旅程であった。このときの旅の記憶はほとんど失せている。ブログに載せたことで心残りなくこのノートを廃棄しよう。私はこの旅行を初めとしてその後四国室戸足摺、岡山倉敷、北海道東部、沖縄(3回)、四国四万十と参加した。これらの旅行が仕事なのだからただただ感謝あるのみだ。これからはそうはいかない。今年あたり永平寺に参禅しますかと自分に問うているところ。

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母と新聞

2007年01月12日 | ねったぼのつぶやき

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 今の生活に何が一番欠かせないかと問われたら「新聞」と答えるだろう。テレビ、ラジオはなくてもいい。新聞だけは離せない。TVで知っても新聞で読まないと何か欠落しているようで落ち着かない。猫殿には申し訳ないけれど船に乗るときも暫く新聞が読めないのが一番気がかりだった。そんな訳で我が家の食卓の一角には1週間分の新聞が積まれることになる。切抜き、読み返しのためにboxに入れられない。

 思えば母がそうだった。彼女は更に裏が白いチラシまで積んでいた。チラシは家計簿計算用の用紙だった。いつもそうやっていたので、計算機を買い与えようと言ってみたら「これで間に合うからいい」と言った。年末には婦人雑誌を求めて付録の日記付き家計簿を手に入れていた。寝込むまでやっていたのだが、日記と家計簿記入はきっとボケ防止に効を奏したと思う。ほぼ半日新聞の隅から隅まで読んでいた。

 80才を過ぎて大腸癌になった。どんなに落胆しているかと帰省してみると「癌で良かった。脳卒中でなくて」とケロリとして手術を受けた。切り取られた癌は鮮やかな色をしていた。手術室から出てきた母の体には7本のチューブが付けられていた。腰椎(背中)に麻酔、患部に2本廃液チューブ、鼻に酸素、胃には胃液を外に出すための胃カテ、胸に栄養、膀胱に排尿カテーテル。

_095_1 この年齢になると入院、手術、長期臥床そのことだけでボケ症状が出易い。手術を終えるとなるべく起こしておくことに重点を置いた。術後の夜は良く寝てくれた。2日目おかしい。妄想のような言葉が出る。「困った、強がりの発言をしていたけれど本当は気に病んでいたんだ」と思った。幸いなことに痛みをコントロールするための背中のチューブを抜いたら落ち着いてきて安堵した。患部のチューブは1週間は置かれるので動作時は痛む。起こしておくために新聞を日参して持ち込み、3日目頃から読み出し日毎に伸びて、これで事無く回復できると確信できた。

 最後に床に就いたのは母がもっとも懸念していた脳卒中で、その後2~3年で発症した。最初の頃は何とか新聞を見たり「足元に百万円落ちていても拾えもしない」と嘆いたりもしていた。退院後は施設で過ごさざるを得ず記名された服を着て1年余そこで過ごした。私は飛び飛びにしか帰省できなかったが新聞を持参して母の状況を観察した。そこには加速度的に衰えてゆく母がいて、没後4年を過ぎた今でも私を悲しくさせる。せめてもの思いで母の名前が書かれた夏用パジャマの1組を私は愛用して 「母の娘」 をしている。(鹿児島のシンボル桜島は錦江湾の奥に位置し市内のあらゆる物と対面している。写真は南州墓地)

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