玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

76)地球大学ってなに?

2006年10月31日 | ピースボート世界一周

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 このクルーズでは2つの地球大学が企画されていた。洋上のゼミや現地での体験を通して深く学ぼうといった主旨で、資料が届けられたとき何れにも魅力を感じたのだが、GETプログラムを最優先させるためには断念せざるを得なかった。(スエズ運河の入り口にむけて大洋を巡航していた船が集結してくる)

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  前半のテーマは「平和と民主化を導く植林活動」であった。ケニアからやって来たマータイ女史らのグリーンベルト運動のスタッフであるムレイディさんと、農業ジャーナリストの大野氏より、ケニアとの比較を交えつつ日本の農業と食を学習した上で、現地で体験学習がなされた。発表は「ケニアでのグリーンベルト体験報告」「食料自給率が低いことが何故問題のか」「私達にできること、やるべきこと」が寸劇を通してなされた。(レイディさんと船内売店の前で)

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 後半のテーマは「有機農業が世界を救う」であった。キューバからやってきたロサ氏や、大野氏(たまたま昨夜見ていたTVに登場、日本の農政全般、特に減反に対する保障制度などの失政)のグローバル化による経済の蔭りから脱出するために、を学んだ上で体験学習がなされた。Peace_boat_670 「キューバの有機農業の始まりと農業システム」「私達にとっての有機農業」が寸劇やクイズ形式でなされた (大学の参加はならなかったが農業1日体験には加わった。赤土ながら肥沃な土壌と農園のコーナーにある野菜売場)

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 何れの参加者も10代から60代まで幅広い年齢層の受講生の奮闘記で、涙あり、笑いあり、寸劇ありでより深い学びであったろうことが伝わってきた。洋上での学びを現地での体験学習に結びつける。非日常的な体験(農業、植林、演劇)を、素人集団がやる(実践、演技)訳だから上手な筈はなく、それ故にかえって伝わってくるものがあった。これこそ船旅でなければ体験できない授業ではなかったろうか。(仕事を追えた後、ギタリストが同席してギターを奏でてくれた)

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3人の男達

2006年10月30日 | 捨て猫の独り言

 赤ちゃんに外国語のビデオを見せて聞かせてその反応を調べた。そのビデオの出演者が赤ちゃんに直接会ってビデオと同じことをしたところ赤ちゃんは明らかに異なる反応を示したという。赤ちゃんは生身の人間と接することで外国語により強い関心を示した。人が何かを獲得するときナマと映像の違いは成長するにつれて弱まりこそすれ無くなることはあるまい。

 ひ孫の写真を送るから無理して上京しなくてもいいよと言うと写真じゃつまらないと言う。それもそうだと思う。旅に出て目の前の風景を写真に切り取っても再び見ることは意外に少ない。今という瞬間は二度とこない。だからというわけでもないが60才前半から半ばまでの男3人が久しぶりに落ち合って飲むことにした。3週間前から約束していたその夜は小雨が降っていた。

 最年長の男はこの8月に奥さんを癌で失った。発病から5年経過していたのでもう大丈夫だ思っていた。2人の娘達は親の死を受け入れているようだが自分はまだだめで特に朝起きた時がいちばんつらい。あなた方は大事にしてあげなさいとこの夜は何度も繰り返した。彼は退職前の4年ほど奥さんの心配をよそに夏休暇になると単身でホテルの予約なしにナチスの強制収容所巡りを繰り返していた。ハンガリーに知り合いの日本人が経営するごく小さな民宿がある。1998年その民宿が小型バスを一台チャーターしてハンガリー国内一周旅行を企画した。3週間この夜の3人はそれに参加している。

 次なる男はクラシック音楽と国内各地の旅行と日本酒愛好という三つの分野の達人である。最後の一つを除いて残り二つを御夫婦で楽しんでいる。私などは皆無に近いコンサートに若きときより数限りなく出かけている。365日のうち飲まぬ日は二日酔いの3日ほど。それでもいい肴が手に入ればいただく。飲んだ各地の日本酒のことなどの旅行記を備忘録的に作製する。この4月から65歳定年退職で完全にフリーだ。この夜15本のカッセトテープを私に持ってきてくれた。こんなことやって今の方が忙しいという。自称趣味人。役職は可能な限り辞する。なかなかの教養人だ。ワーキングプアーに倣ってエイジングプアーという言葉を創作したと自慢していた。年金支給額の減少医療費値上げなどの現実がある。次の次なる男は娘にはいたく寛大であることぐらいでさしたる特徴はない。この男の造語は娘から聞いたパラサイトシングルならぬパラサイトファミリーである。食事も子育てもやってくれないかなーという若い家族のことだそうだ。 

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75)気になる人の素顔

2006年10月27日 | ピースボート世界一周

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 船上新聞の一角に「気になるあの人の素顔」コーナーがあった。船内で活躍している職員の紹介が主である。11月9日つまりペルーを出航したその日はKumar Lewisを紹介していた。(着物でイブさんと)

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 彼の紹介記事は「GETコーディネーターとして活躍し、多彩なワークショップにおいて才能を披露しているクマー・ルイスさんにインタビュー」となっておりQ&A形式だ。(大好きジャンベを叩いている時は最高に幸せそうな表情)

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 ピースボートとの出会いは? 日本にいた頃友達の紹介で今回は5回目の乗船。  この仕事をしていて大変なこと、楽しいことは? 楽しいことはボランテアのGETの先生とPeace Boatの架け橋になれること。世界の皆と出会えること。大変なことは自分の時間を作ること。自分のアイデンティテイに戸惑うということ。  好きなことは? サーフィン、ジャンベ、サッカー、音楽等。 何かメッセージをお願いします。 LIVE IT UP!自分の夢を叶える。ポジティブに元気よく。(ピラミッドの前で大ジャンプ)

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 今にして思えば彼はこの通りを生きた人だった。船内での企画も「9・11を考える」に始まって、GET学習、GETcloser、Let’sボックササイズ、サッカー、運動会、スピーチコンテスト、卒業式、他にも参加はならなかったが沢山の企画を主催してくれていた。(アフリカの地で本場のアフリカダンスを披露するピーターバンドのメンバーと)

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 私は自分のPCのお気に入りに彼のホームページを入力し、世界のアチコチから送信されてくるメールの拾い読みや、時々入れ替わる写真で彼を偲んでいる。下船後も期せずしてBoat関係者と膝を交えたこともある。存命でありさえすれば、ヒョッとしてそんな事も叶うかもしれない。そう思うとなお更こんなにも早く召された無念が晴れることはない。(世界一愛していた母、姉、兄一家。「甥が可愛い。僕も父親になって自分の子供を可愛がりたい」と言っていた)

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 つい先日、近くの津田塾女子大の文化祭で、Boatでも講師として乗船したジャン・ユンカーマン氏が講演で来校され、講演の中でピースボートの話も出た。私は週2回お手伝いしているディ・ケアーのご老人で、知的好奇心の強い方の希望で共に参加して、前列の2列目に着席した。講演を終えて目の前に戻って来たユンカーマン氏に、昨年Boatで御一緒させてもらいましたと挨拶し微笑みあったばかりだったので、一入その感を深くしたのだった。(飛んでみたい。Boatの上で)

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74)散策・二次会・お祭り

2006年10月24日 | ピースボート世界一周

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 ウォキング参加者は40名近かった。挨拶、ストレッチの後、約5Km50分武蔵野の面影を残す林の中を早足で歩いた。林の中はゴミや車の往来もなく気持ちがいい。小鳥の声も聞こえていたろうに、お喋りに花が咲いて思い出せない。私は深呼吸を何度もして「私の肺」に酸素を満たしてやった。

P1000124

 シャワーもそこそこに昼食を摂る。その間も名刺や船上での写真の交換がなされていた。午後は貸切の観光バスで川越市立博物館、川越城本丸御殿、喜多院、川越祭り会館の案内をシルバーガイドさんを中心に案内してもらい、最後に蔵の町並み散策と満載の1日であった。

Ennkai

 日帰りの方々も半分はいらしたので懇親会に移った。趣のある料亭で自己紹介やその方のネタ晴らし、美味しいお酒や料理、かって映写会をしてくださったY氏(その度に重い機器一式持参)の第2弾目のスライドで、皆の気分は船上に戻り心は一つになった。2時間の予定は30分延長され、来年の幹事さんが4月予定の挨拶をし次回を約して別れた。

Hakubutukann

 16~7人が宿舎に移り「これからが本番」とばかりに膝を突き合わせて2次会に移る。知り合う機会のなかった方々との初顔合わせ。知り合いだった筈ながら知りえていなかった人の人となり。少人数の気安さから伏せておきたかった事などの更なるネタ晴らしなど爆笑に爆笑を重ねた。104日の運命共同体はかくも分かちがたく私達を結び付けていると実感された。

Kawagoe

 翌日は朝方宿舎で解散となる。折角の川越祭り。私たち6名はショッピングや町並み散策の合間に、夜のクライマックスに向けて動き出している山車を7~8ケも見たろうか。中段の5人ばやしや舞、山車の引き手の子供や大人達、その先達、警備に当たる警官、ゾロゾロ終結する客の流れなど存分に楽しんだ。それもこれも全て、前々から事後に至るまで段取り下さった企画者の皆さんのご苦労の上にあったことを重ねて感謝します。(写真はY氏提供)

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毎日新聞

2006年10月22日 | 捨て猫の独り言

 私は新聞の熱心な読者ではない。ここ数年は活字を追うと目が疲れやすく活字離れの傾向にある。明日あたりには、ちゃんとした眼鏡を作るつもりだ。毎日と朝日を半年づつ交互に購読している状態だった。最近そこへ読売が食い込むようになった。先日玄関先に出てみると初老の男が立っていた。日焼けかアルコール焼けか茶褐色の小さな顔には深い皺が刻まれている。たどたどしい話しぶりで私と同じ南の出身かといぶかった。そうなのですかと聞くのも憚られた。350ml2缶分のビール券を10枚握らされて朝日新聞の販売店の方角から来たという読売の拡張員と契約した。

 このように我が家の新聞は洗剤かビール券で決まる。私は3紙の中では毎日のファンである。理由の第一は週末夕刊の競馬記事が充実していること。的中率向上の研究に欠かせない。第二に牧太郎という興味深い人物が所属している。彼はサンデー毎日編集長時代に 「オーム真理教の狂気」 と題する追求キャンペーンを始めた。そのことでメディアに 「オーム」 が初めて登場した。発売日に麻原は編集部に数人の弟子を連れて抗議に現れた。異常に太っていた。「宗教弾圧!」 と叫ぶ。「それにしても、未成年者に30万円、40万円のお布施は高すぎないか?」 と切り出すと彼は顔を真っ赤にして 「それならいくらだったらいいんだ!」 と叫んだという。何がオームの大量殺人を許したのか。自分の頭で考えることなくキャッチコピーに踊らされる現代人。その知的基礎体力の低下に最大の原因があったと牧太郎は言う。

 私の他愛もない想像だが牧太郎は毎日の競馬記事充実の功労者の一人ではないか。記事には毎回レギュラー4人の予想が出る。そのうちの一人タマちゃんは牧の友人である。タマちゃんの予想はいつも惜しいところで外れる。このように何かの縁にすぎないのだろうが、私にとって毎日は手の内が見えるようで親しみやすい。残念なことに来月から朝日が入る。

 また今年の3月に毎日新聞から 「自分自身への審問」 が緊急出版された。著者の辺見庸は脳出血そして腹部の癌に見舞われた。自死の権利を留保したまま、体は苦しいけれども拙いながらもなにごとか書く必要を感じているという。辺見庸について私の関心は高まりつつある。 

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73)セーフ・武蔵野散策

2006年10月18日 | ピースボート世界一周

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 間の悪い時期に風邪をひいた。3週間後には長野からの客人を向かえ、翌日はウォーキング企画者主催の武蔵野散策に参加する手筈になっていたのだ。何とか治すべくいつになく真面目に服薬し、後半は点滴に通ったけれど状況は増悪するばかり。遂に降参し自分から願い出て入院した。

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 1週間発熱が続いた体は肺に見事な肺炎像を映し出し、夜通し続くイヤラシイ咳は肺炎に留まらぬ疑いをもたらした。主治医が家族に説明をするから呼べという。夫は兎も角、息子は昼間呼び寄せることは余程の事でなければ不可能だ。医師は肺炎の治療は自分がしそれ以上のことがあれば同業者で、大学にいる私の息子に引き継ぐと考えていた。私は説明を受けたデーターを来院叶わぬ彼に正確にメールし、彼の願う検査の追加なども主治医に伝え、病院は答えてくれた。(ウォーキングを終えて京都から取り寄せた弁当を戴く。昨年の本日はK氏はオーバーランドツアーでカスバの近くにいて、こんな記録を残していたと読んだ)

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 私をよく知る院長が病室に入ってきて又無理したんでしょうと半分からかう。実はこの病院は元の職場で色々無理を聞いてもらえたのだ。。10日には退院したいという私の希望に沿って、2週間の入院で大方の症状が引き、悪性のデーターは幸運にも否定されたので退院となった。来院できない息子も私からのデーターの報告を心待ちにしていて喜んだ。彼にはこれで2度目の心配をかけたことになる。40前後の主治医は、退院には早いけれど1週間は真面目に内服してネと念を押し、「僕も名医でしょう?」とニコッと笑った。

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 退院3日目に船友を我が家に迎えた。勿論彼女はそんなことなど露知らない。私も自分の体調といつの時点でダメおしを出さなければならないか、日にちが押すほど微妙であった。最悪でも外泊で切り抜ける手もあると覚悟はしていたけれど。その夜はおしゃべりに花が咲き、翌朝武蔵野散策へ向けてリュックをしょって出かけた。林の中では大事に至らず納まってくれた肺に、感謝の印に新鮮な空気を一杯届けた。そこでは又更に大きなおしゃべりの花が咲いたのは言うまでもない。(下船間近には大きな布に思い思いのメッセージを書き上げた)

 

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72)郷愁募る1世と唄う

2006年10月15日 | ピースボート世界一周

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 1日目の夜は引率してくれた若者達と「カラオケ」を楽しんだ。彼らのカラオケは日本語で、とりわけ2人の青年の熱唱は目を見張るばかり。現地であった(日本の)のど自慢でいい結果だったと聞いた。その後グループ討議では1,2世の苦労話や自分達の夢を語ってくれた。(学校の境界のフェンスに日本の風景画)

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 2日目は日秘新聞社を訪ね歴史を聞いた。新聞は8面構成で1~2面は日本語だが3~8面はスペイン語になっていた。その新聞社は小じんまりしており、印刷機、裁断機など「武富士」社長の寄贈と聞かされた。Boat入港も写真入で一面に大きく紹介されていた。見学後数人にコメントを求めていたけれど後日紙面に載せると言っていた。(印刷機とその奥に裁断機も)

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 次が資料館見学で移民開始以来の歴史、開拓に使った器具、日用用品などが展示され当時の苦労の一端が偲ばれた。隣の大通りに面した5~6階建ての建物は「日秘文化会館」で1~2階だけでもホール、会議室、展示室、売店、食堂、料理教室、老人のデイケアー、リハビリ、談話室など多目的に使われていた。これがなんと「武井文化会館」とも呼ばれ、丸ごと「武富士」初代会長武井保雄氏の寄贈なのだという。武井は当地ではまるで神様級。彼を称える歌まであった。なんでも本人がかって移民をめざした事があった?らしい。(前日訪れた知的障害児、者の皆さんと職員達。パラリンピックに参加した嬉しい報告の一方、学校の方も同様であったが人材不足を嘆いていた)

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 デイケアーには2世のご老人達と、彼らを世話するその後の世代の方々がいて私も太極拳と歌唱に加わった。唄ったり、手芸、太極拳、リハビリ、ゲートボールを楽しみながら日本語で談笑されていた。恐らく2世までは日本語でのコミニュケーションは問題ないとしても、3世になるとポルトガル語が主流ではなかろうか?会館に集いかって同じような苦労をし、郷愁を共にする人々との語らいは、私達の様に長年日本に住み着き、退職後の今後をどう楽しもうかと思案している私達の想像を遥かに超えて、心和ませるものだろう。(ここに参加できる人達はまだ元気な方で、通所できない方々はもっと多いかも知れない)

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 どなたも穏やかな顔ながら、その顔や手は深い皺が刻まれかっての労働を偲ばせた。「今、孫達が日本に出稼ぎに行っている。一度でいいから故郷に帰ってみたいがそれも叶わない」と淋しげに微笑まれた。Peace_boat_909 その後日本語で書かれた手作りの歌集が配られ、皆さんと一緒に歌った。仲間の1人がハーモニカを吹きだすと、この曲、あの曲とリクエストが多く歌声も大きくなった。私も今の年齢になって歌う唱歌は、意味も解らず歌っていた頃に比べいずれ劣らずしみじみとするのだが、異郷の地で郷愁募る方々と歌っていると、途中から涙が溢れ出し唄えなくなった。(鏡の前で。グループの円陣は鏡に反映。太極拳は指導員の動きに習う)

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生後5ヶ月

2006年10月12日 | 捨て猫の独り言

 娘は車で40分のところに住んでいる。共働きである。それで土日以外は私設の保育園に赤ちゃんを預けている。母乳で育てている。男親も女親も赤ちゃんが可愛くて可愛くて仕方がない。赤ちゃんをもみくちゃにしている。結構なことだ。保育園が休みの時に、じじばばがまる一日これまで2回預かった。ミルクを飲ませるのに手を焼く。と言ってもじじは眺めているだけだ。

 赤ちゃんが私の顔を見て笑う。私も思わず微笑む。私の子供にもこんな頃があった。天使だった我が子がいつからこんなに憎まれ口をきくようになったかとお嘆きの方にお伝えしたい。運が良ければ長い人生のなかでもう一度天使に会えますよ。会えば元気がもらえて、得した気分になること請け合いです。期待しましょう。そして我が子でないから気持ちもいくぶん楽です。

 最近ばばが風邪をこじらせて入院した。回復して退院直前に2日の外泊が許されて帰宅した。それに合わせて娘と赤ちゃんの2人が2泊した。赤ちゃんはすぐに寝返りして腹ばいになり、しきりに頭をもたげている。頭がいかにも重そうだが腹ばいの方が快適なようだ。両手を整えてやると腕を伸ばした腕立て伏せ状態になる。

 離乳食などのことが話題になった。買い物に出たときに、ばばの考えで 「5ヶ月頃からの赤ちゃんのはじめてのおやつ」 を購入した。ベビー用品売り場に置いてあった。新潟県亀田製菓のすうっととけるよハイハイプレーンという。これまで母乳と哺乳びんだった赤ちゃんがスプーンで水を飲み、せんべいを口に含んでいる。口を上下に動かしている。慣れるにつれてせんべいにくらいつくようになる。初体験が快適なのか、足を突っ張り両目を寄せて鼻息荒く甲高い叫び声をあげる。ご機嫌である。大人達はこの様に事態が進展するとは予想していなかった。それで10月8日はせんべい記念日。家で待つ男親もこの様子を見たらびっくりすることだろう。ばばがアボガド、豆腐、ご飯、バナナ、ジャガイモなどつぎつぎにすりつぶして試していた。こちらはその大胆さにおろおろするばかりである。この日赤ちゃんはせんべい以外ではアボガドだけを受けつけた。

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上條信山展補遺

2006年10月09日 | 捨て猫の独り言

 信山語録 「形に入るけれど形を出る。線に主観を加える。形に主観を加える」 臨書 「古典を手本として字をかくこと。臨写」 偶成 「詩歌などがたまたまできあがること。また、その作品」

 

 西郷南州 「偶成」 詩

一貫唯唯諾 従来鉄石肝 貧居生傑士 勲業顕多難

耐雪梅花潔 経霜楓葉丹 若能識天意 豈敢謀自安

 一度よしと言ったらその言動を貫かねばならない。いつでも鉄や石のように強い精神が大事である。貧しい生活から傑出した人物が生まれ優れた業績は多くの困難を切り抜けた後に現れる。雪の冷たさに耐えて初めて梅は潔くさき、紅葉は霜を経てこそ丹くなる。一旦天意を悟ったならばどんなに辛くともどうして安易なことのみを願っていられようか。

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上條信山

2006年10月07日 | 捨て猫の独り言

 「壮心やまず上條信山生誕百年記念展」 が故郷の松本で開かれた。主催の松本市美術館のホームページには、現代日本の書に、教育、芸術、国際交流等多方面において心血をそそぎ、89歳で亡くなるまで活力をあたえ続けた上條信山。その思いは、ほとばしる墨や強靭な線をとおして熱く心に迫ってきますとある。共催は書象会。この春に松本市美術館には上条信山常設展示室もオープンした。

 長野師範卒業後上京、昭和10年成蹊小学校に奉職、大東文化学院での自身の就学をはさみ再び成蹊にもどり、中、高、大学で漢文書道を教えた。その後東京教育大学教授に転じ、書壇にあっては宮島詠士に師事し、書象会を創立主宰した。「書は人なり。書は内面を映す鏡であり、自身の人格がかくも立派だと他人に見せられるものか」 という特異な師の教えに背いて書壇で活動することへの自責の念は終生少なからずあったという。

 中、高、大学で書道を教えている私の同僚は、信山の指導を受けた成蹊の卒業生である。その書はもちろん信山流である。その字体に独自なものを感じ、また親しみを覚えた。雄渾かつ清冽。その同僚とは同年生まれということで親しくしてもらっている。彼の八ヶ岳の別荘に家族2人で泊めてもらったことがある。また我が家の新築祝いに 「若拙」 と揮毫した掛け軸を頂いた。せつのごとしと読む。私は今年で退職予定だが彼はあと3年は続ける。彼の話では信山先生はカラオケがうまかったという。

 9月24日の朝に八王子から特急スーパーあずさ1号に乗る。会期3ヶ月余りの展覧会もとうとうこの日が最終日である。同居人は咳き込んでいて松本行きは無理と言う。日帰りの単独行になった。八王子からは2時間あまり、駅から歩いて15分で10時には会場に到着した。 「書はリズムの芸術であり、文字を媒体として人の心のあり方を写すものである。線による音楽を聞くものである」 という作者の創作の言葉がある。会場では島崎藤村作詞の 「椰子の実」 がかすかに聞こえていた。松本での何回目かの展覧会のために熱海のつるやホテルで新作に挑んだのが西郷南州の五言律詩 「偶成」 である。ニ尺×八尺(60×242)の大字八幅だ。予定を変更して大きな画仙紙を用意したところ、この筆では小さすぎると言いつつ弟子達の挑発に乗って生まれた作品だという。私は会場の作品との出会いは一回きりの心構えで2時間半かけて見て回る。松本市内の観光なし、温泉なしのとんぼ返りは心残りだった。お土産は駅ビルで地酒に味噌と胡麻の2種類のクルミ菓子だ。松本を訪れるのは3度目だがこの様にいつもあわただしい。

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