玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*缶詰の賞味期限

2011年03月28日 | 捨て猫の独り言

 暑さ寒さも彼岸までの「春分」を過ぎても外では冷たい風が舞い、今年は本格的な春の訪れが遅れているようだ。そんな中でコブシやモクレンの白い花が咲き、数が少なくなったという小低木のクサボケの橙色の花も咲いた。よく見ると土手の陽溜まりにはアマナという小さな野草がひっそりと花を開いている。この時期に小鳥たちは営巣の準備を始めるという。緑道でツッピーツッピーと鳴いているのはシジュウカラだ。コゲラが太い枯れ枝を嘴でつついて巣穴を掘り始めている場面に出会った。この木の下に来れば、昨年に続きコゲラの餌やりと巣立ちを目撃することができる。

 いまだに一部の食料品は店頭で品薄の状態が続いている。この震災を機会に新たな買い物をできるだけ控え、家にあるものを消費しようと考えた。生鮮食料品をのぞいた冷蔵庫の冷凍食品、床下収納庫の乾物などがその対象となる。その中には半額セールに乗せられて買い込んだ物も多い。在庫の食料が無くなるまで補給はしないぞと籠城の気分である。貯め込んである物を一度でいいから空っぽにすることが出来たらどんなに清々することだろう。

 阪神淡路大震災の直後に作った非常持ち出し用のリュックがあった。その中から缶詰類が出てきた。シーチキン1個とサンマの蒲焼2個と乾パン2個だった。それらの賞味期限を調べるとシーチキンとサンマの蒲焼は4年前、乾パンは7年前に期限切れになっている。ともかくリュックから取り出し、どう処分すべきかを考えた。そしてこれらの缶詰を捨てないことにした。まず抵抗なく口に出来たのは乾パンである。近頃手に入れにくい食パンの代用として、2個ともすでに食べ終えた。風味が落ちたなどというような不都合は全くない。

 さすがにサンマの蒲焼きの缶を開ける前に私はネットで検索した。ある味覚実験によると6年前に期限が切れた「いわし味付け」は実験参加者の5人全員が捨てない、10年前の「ツナ缶」でも5人中4人は捨てないと答えたという記事に出会う。私が得た結論は賞味期限切れの物を食するかしないかは、自分の視覚、味覚、臭覚で判断すべきだということだった。今日の昼食に問題のサンマの蒲焼の缶を開けた。そして安全であると私は判断して食した。味はいつも通りの味というしかない。つぎはシーチキンであるがこれはサンマの蒲焼より安心して食することができるだろう。それにしても今回の大震災を目の当たりにすると、用意すべきであると言われている非常持ち出し用の袋がいかほどの値打ちがあるのか考えてしまう。

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3・11大地震・津波と今後

2011年03月20日 | ねったぼのつぶやき

 その時はたまたま「地震には最強」と宣伝している住宅メーカーの展示住宅を知人と共に見学していた。ゆっさゆっさと長~く大~きく揺れる。もう止まるか・もう止まるかとテーブルに捉りその時を待っていたが一向にその気配はない。茶卓に乗せられたお茶は波打ちこぼれテーブルから落ちんばかり。繰り返された長く大きな揺れは「この家は大丈夫だから」と制されていなかったらとっくに飛び出していただろう。ラジオは地震情報専用となり繰り返し繰り返し叫んでいた。

Japantsunamiearthquakehitsnortheast  電話は通じず帰宅は渋滞に巻き込まれた。帰宅後TVでスマトラ沖同様のイヤそれ以上の襲い来る津波を見ることとなった。車・人・家・船・橋すべてが水に浮かんだまま燃え・呑み込まれ、さながら地獄絵同然だった。それから一週間、その瞬間とその後の被災地・被災者・救援状況に加えて原発問題と続きTV・ラジオ・新聞から目が離せなくなった。

 米国では9・11が一つのエポックとなった。日本でもそうなるだろう。関西大震災もあったが広さにおいて遥かに凌いでいる。折しも計画停電下の夕食時、天皇のビデオメッセージが流れた。これは正しく ”戦時下状態” を連想させた。又菅総理の国民に向けた2回目のTV演説は、危機を回避すると力強く宣言していた。アトランタにいる娘はヒステリックとも思える現地の情報に接し「本当に大丈夫?」と繰り返し問う。例え少々放射性物質が漏れたとしても私達世代はいい。しかし若い世代には・・・やはり酷だ。問題はこれからで日毎に苦労は拡散・拡大するだろう。そして今まで失いつつあった多くの事をあらためて気付き始めるだろう。(写真は渦巻く波の大洗海岸)

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*大津波

2011年03月14日 | 捨て猫の独り言

 その日私は高層アパートの1階にある公民館の一室で碁に興じていた。そこに大きな揺れが襲った。これまでに私が経験したことのないような大きな揺れである。いつもと違う揺れに全員が外に出ることになった。高層アパートの前は広い公園になっている。そこから見上げると電柱や高層の建物の上端がざわめいて揺れているのが見える。揺れがおさまって部屋に戻りそれぞれの対局を再開したが短時間のうちに再び揺れが襲う。この日は大きな揺れが3回襲い、そのたびに外に出ながら碁を打っていた。帰宅を促す館内放送で東北に大津波が発生したことを知らされた。

 リアルタイムのテレビ映像を見ているうちに次第に重苦しい気持ちに追い込まれていく。私達の想像をはるかに超えた破壊力で人と街に襲いかかる大津波の猛威をテレビは流し続けた。今回の地震は三陸沖、福島県沖、茨城県沖の3つの大規模地震が6分間の間に断続的に発生していたということが判明した。そこで3回の地震の合計はマグニチュード9.0と後日修正された。大津波といえば04年のスマトラ沖地震はM9.1で死者22万人以上であったという。

 余震が続く中で日常とは異なる風景も目に付くようになった。新聞のテレビ・ラジオの番組欄は白く空欄になっている。終日地震関連のニュース・番組を放送しますとある。地震の翌日に近くの家電量販店では地震のため懐中電灯と石油ストーブは完売しましたと空っぽの陳列台に貼り紙があった。ガソリンスタンドにはたくさんの車が並ぶようになった。物流にも変化があるようで生鮮食料品の量が少ない、あるいは到着が遅れているなどの多少の混乱が見られる。「計画停電」という聞き慣れない計画が月曜日から実行されると発表された。それよりも福島第1原発の事故は深刻だ。東京電力は総力を挙げて荒れ狂う原発を何とか抑え込んで欲しいと願うばかりだ。 

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宿は水月ホテル鴎外荘

2011年03月10日 | ねったぼのつぶやき

 2年毎に催される専門学校(日本赤十字高等看護学校)の同期会が今秋は東京でとなり打ち合わせをした。卒業生は僅か44名だから参加総数は10余名だろう。私自身も13~4年振りだ。学校は京都にあり関西以西の県から各1~3名位来ていた。寮は各部屋共3学年取り混ぜて4~5人づつの共同生活だ。おんぼろの木造校舎と棟続きの寮。全寮制度。でも皆輝いてた。

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 メンバーの一人が「天然温泉もあってお勧めよ!」と同ホテルの案内状を持参した。「それはいいわ!」と私は言下に賛成し皆も賛同した。何故なら昨年知人が出品した展覧会見のついでに上野公園界隈を散策し、その際坂を下りてそのホテルを覗いていたのだ。玄関から歩を進めると手入れされた庭を臨め、舞姫を執筆した部屋や文学碑があって、機会があればと心に留めていたのだ。

 「エリスは20代前半女性ー鴎外「舞姫」ヒロイン・教会の記録発見」と、たまたま本日の毎日新聞に出ていた。舞姫は日本人留学生と貧しい踊り子エリスの悲恋を描いたもので、森鴎外が1884年から4年間ドイツへ医学を学ぶために留学した時の体験を下敷きにしたとされる。エリスのモデルについては従来より諸説あり、乗船名簿には「エリーゼ・ヴィーゲルト」とあった。鴎外を追って来日し一月後に帰国せざるを得なかった女性は、現ポーランド生まれの20才・後の帽子製作者で遺族が残した多くの資料と一致するという。所でここは写真婚をした海軍中尉赤松家の持物で森は根岸から引越して来た由。が、長女登志子とは2年しか生活せず2年後には志けと婚姻している。じっくり舞姫を読み解けば何か解るだろうか。

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*二十四節気の啓蟄

2011年03月07日 | 玉川上水の四季

 つい先日は体の切れが鈍くなったと感じて、久しぶりに体重計に乗ると永年維持している体重を2キロオーバーしていた。これは生活改善が必要との警告だ。晴れの良いお天気だった昨日とは打って変って、今朝はみぞれから雪となって家々の屋根が白くなり始めた。テレビニュースを背中で聞いていると繰り返し「ミンシュトウ」という言葉が耳に入る。しかしどうも話の辻褄が合わないので振り返ると、ニュースは「ニンチショウ」の話題に変わっていた。認知症を民主党と聞き違えていた。どうやら私は聴力も衰え始めたらしい。 

 玉川上水ミニ観察会は節気毎に開催される。同時に鈴木さんが作成した節気毎のパンフレットを手に入れることができる。啓蟄のパンフレットの中の「野鳥のおはなし」からその一部を紹介する。「ウグイスは漂鳥で、玉川上水には毎年11月上旬に姿を見せます。冬の間はチャチャチャと地鳴きしをして、薄暗い笹やぶなどの中で暮らします。春になり、梅の花が咲くと、梅にウグイスと言われていますが梅に集まるのはメジロです。ウグイスはくすんだ色をしており、多くの人が鮮やかなウグイス色をしているメジロと間違えています。啓蟄になると、日差しが暖かになり、低木のウグイスカグラがピンク色の花を咲かせ始めると、時を同じくして、ウグイスがケキョケキョとさえずりを始めます。そして、徐々にそのさえずりを美声に完成させていきます」

 最近鈴木さんの家には朝の7時半頃からシロハラとウグイスが姿を見せているという。庭の餌場でジュースを飲んでいるのを炬燵の中から眺めているそうだ。昨日の観察会ではウグイスカグラ、椿、ネコヤナギ、タネツケバナ、モズ、各種の梅、河津桜に出会った。散策途中に玉川上水の土手に残されているカワセミの白い糞の跡を教えてもらった。カワセミに出会うことはなかったが、これで居場所の見当がついた。私が目を見張ったのはネコヤナギだった。赤い皮のつぼみ、そこから脱皮して、銀白色の細長い花穂と変化する。この日は変化のそれぞれの状態が水辺のネコヤナギの木の中に混在しているのを私達は見た。花穂は猫のしっぽに見立てられているのだ。「努力は報われる」がネコヤナギの花言葉だという。

 春の訪れが近いことを感じさせるオオイヌノフグリはそのネーミングに誰でも驚かされる。この植物の果実の形が睾丸を連想させるからという。秋の日だまりに芽生え冬を越して早春に咲く。野原や空き地に群れ咲く直径が10mmぐらいのコバルトブルーの小さな花である。花の命は短く1日だそうだが、つぎからつぎに咲く。イヌノフグリの花は直径が2mmだから、それとの比較でオオイヌノフグリとなった。その日本在来のイヌノフグリは絶滅に近い状態という。帰化植物のオオイヌノフグリの名を悲しんだ人達が「星の瞳」という別名を考えた。コバルト色で無数に群れ咲くところから考え出したのだろう。「誠実」がオオイヌノフグリの花言葉だと言う。

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フォックスと呼ばれた男

2011年03月03日 | ねったぼのつぶやき

 何かと用事が立て込んでタイトな日々を過ごしていた折りポッカリと丸一日空いた。自転車で走っても寒くなく、花粉飛散も未だ少ない。寒かったせいでしばし映画も遠のいていた。午前中に出かければ映画のハシゴも出来る。PCを繰り時間調整に好都合で、私も愛読している新聞連載の「毎日かあさん」と「太平洋の奇跡」に決めた。

D4040fd9c0fa5f9a29156a340424a943  10階近くあるシネマ館に入る時はいつもそうだが、今回は特にNZ地震の後だけに、例え最新の耐震構造体であるとしても、振動の中で果して耐えられるかと不安もよぎった。1本目は「毎日かあさん」で、小泉今日子がバイタリティに溢れ、本当に夫であった元夫と夫婦役でアルコール依存症の夫(戦場カメラマン)とバトルしつつ、別れきれない女房役を演じていた。2本目は米国人が実話に基いて書き上げた作品を日米合作で映画化したもの。サイパン島で生き残りの兵を率いて米軍を翻弄し、民間人も守りつつ投降した大場栄大尉を竹野内豊が好演し、高潔で見事な立ち居振る舞いを見せていた。

 小野田寛郎さん救出時見たように、上官の命令に従い遂に47名の残兵が2列の隊列組んで頭を上げ行進して来た。隊長は帯刀していた日本刀を抜き、儀式様の所作をした後敵隊長に差出し降伏した。その時私の席に振動が伝わってきた。隣席の2つ目にかなり高齢の老紳士がいらしたのだが、彼がこらえ切れず嗚咽をもらし私の椅子に伝わって来たのだ。5~6年前私は世界一周の途上ラバウルに立ち寄り、密林の中に放置された戦闘機の残骸と、深い防空壕に設けられた作戦室を見たが、老紳士はかつての戦時関係者だったのかもしれない。今朝の書評欄の片隅にーサイパン島の戦い「大場栄大尉」を読み解くーが目に止まった。(下線は関連記事に飛ぶ)

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