玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

呼び捨て御免

2005年09月27日 | 捨て猫の独り言
 妹から日本の全ての親は自分の子を呼び捨てにしているはずとメールがあった。さん付けは親子の距離が遠のくと主張する。日本には長幼の序と言うのが存在するともいう。後者は親が子に、おもねる必要はないという主張か。

 距離の問題と言うのは気に入った。たしかに同窓会などで、近い距離を確認するためなのか、さんを付けない。生まれたときに親子なら60年後も親子だが関係のあり様は変化しているはず。親離れ子離れの時期もあったはず。例えば街頭などでどちらも老境にある親子を目撃したとき、さん付けの方が何やら床しく感じる。また私は息子の家族に入ったときには息子がその家族で呼ばれているように私も呼ぶことを心がける。自己を相対化できる自分を良としたい気がある。もちろん呼び捨てで違和感の無い親子もあるが私の結論は途中から、さん付けがいいと思う。どなたかに教えてもらいたいのだが、あの野口英世の母親は息子をどのように呼んでいたのか。あの親子の距離はかなり近かったと予想はしているのだが。

 ある学校で、入試当日に教職員の点呼をとる時、一人一人に先生を付けるのを止めると教頭が提案し実行した。しかし新方式は評判が悪かった。まるで帝国陸海軍の作戦会議のような雰囲気が流れたからである。その後呼名はなくなり教頭は黙ってチェックすることになった。年度の始めだけはクラスの生徒を呼名する。男子には君、女子にはさんを付ける。つぎからは座席を見て黙って出欠をとる。お互いに馴染んだら呼び捨てになる。中には呼び捨てできない、凛とした雰囲気の子もいる。卒業生を呼び捨てにすることは少ない。妹いはく、そんなことどうでもいいんです。

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よそ者意識

2005年09月24日 | 捨て猫の独り言
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 私の方言(鹿児島弁)を私は自由に話せない。この私の思いをいつもの肩肘張った表現でもってすればつぎのようになるだろうか。「生まれて高校生になるぐらいの頃まで、単一の地域社会で育つことが出来た者は幸いである。なぜかといえば、無意識のうちに土着の思想が完結した形で身につき安定した人格が形成されるからである。思想とは言葉だからである」

 私の記憶は奄美での小学1年から始まる。色白で泣き虫で学校に行きたくないと駄々をこねた。親は島の言葉を話さい。学校では標準語を話そう運動が盛んだった。当時の私はそれを当然のこととして受け止めていたに違いない。なぜなら島言葉を話せないのである。よそ者意識が芽生えた。小学2年で沖縄に移る。沖縄はいはゆるアメリカ世で上陸して飲んだコカコーラの味は強烈だった。ピクニックで訪れた洞窟(ガマ)は異臭が漂っていた。その当時沖縄戦については詳しいことは知らない。悲しいことに沖縄の文化は完璧に破壊されつくされていたせいか、混乱のなかよそ者であることの意識はそれほど無い。1年してすぐもとの小学校に戻る。転校生として紹介される。ボタンの掛け違い現象に似てなかなか本筋に戻れないことが続く。

 小学6年の2学期に進学のため鹿児島の親戚宅に寄宿することになった。長い船旅のあとに、はじめて見る桜島、黒光りする巨大な蒸気機関車には圧倒された。小学校高学年となると転校生に対する洗礼が待っていた。そり投げの相撲強者と対決である。青白き転校生はうっちゃり勝ちで切り抜けた。子供社会は少年を生徒会副会長に選出した。よそ者が誇らしげであった数少ない瞬間である。

 奄美、沖縄、鹿児島はたがいに交流困難なほどそれぞれ独自の言語圏を形成している。才能の問題もあるだろうが、そんな生い立ちの私は三つのどの言語も上手でない。写真は沖縄の佐喜真美術館にある亀甲墓。



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率直に語る

2005年09月20日 | 捨て猫の独り言
 結婚にはいいこともある。それまで全く違う家族の中で育った男女が無意識あるいは自覚的に新しい家族を創る。互いの価値観(家風)の違いに気づく。目からうろこ、または世界が広がることが多い。いわば異文化交流である。私の場合のそれはさしずめ、家族は率直に語り合うこと、つまらぬ見栄は捨てて生きることとなるのだろうか。まだ不充分ながら私の中の古いものは修正され新しい家族に生かされたと思いたい。

 皆さんは両親からどのように呼ばれていますかあるいはいましたか。私の親は私を私の子供の前で呼び捨てです。これにはいささか抵抗を感じます。今更やめてくれとは言いません。そこで私は現在、内輪の集まりでないときは自分のきょうだいには「さん」をつける。また孫の前では自分の子供を呼び捨てにしないように気をつけている。子供は親の所有物でなく、独立した人格で古いものから早く抜け出てほしいと思うからだ。ねったぼさんが長期旅行に出て、監視(?)のため両親が上京した。88歳の実直な父からつぎのような戦時中の率直な話を聞くことができた。

 特攻で自分が出撃するべきかどうか伺いをたてたところ次級者にと命令が下った。当時父の立場にある者の戦死が続いたせいではないかという。

 ノモンハンの草原で墜ちた友軍機の近くに降りて、戦友を後部座席に乗せて生還するという武勇伝があった。似た状況が揚子江の中州で起きたとき、父の部下は果敢に舞い降りたが湿地で離陸できずに捕虜となり戦後に復員した。

 特攻機の発進を3度も失敗させた父の部下が父に連絡のないまま軍法会議にかけられた。その裁判の結果についていまだに知らされていない。

 沖縄戦で出撃した機が尖閣諸島あたりに不時着を試みるのもあったという。当然のことながら特攻にもさまざまな生き方死に方があったのである。

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沖縄旅行雑録(3)

2005年09月16日 | 沖縄のこと

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沖縄の雨水はすぐ海へ流れるので水不足となることが多い。そのせいかプールのある学校は少ない。サンゴ礁のエメラルドグリーンの海があるにもかかわらず7割の人がカナズチであるという。時折見かけるビニールハウスは塩害防止のものだ。長寿日本一は女性は沖縄だが男性は長野である。公務員やバスの運転手さんなど男性はかりゆしウェアを着ている。かりゆしとは「めでたい」という意味だ。甲子園球場でよく聞くハイサイおじさんなどのハイサイは「ハロー(こんにちは)」の意味である。

沖縄戦とは米軍の本土上陸を遅らせるための捨て石作戦であった。そして多くの一般住民が犠牲になった。約20万人の戦死者のうち12万人以上が沖縄関係者であった。住民が日本軍の手で殺されたり、死を強制されたという側面もある戦争であった。

米軍の銃剣とブルトーザーによる土地取り上げに対する土地闘争の後1971年に本土復帰が実現し施政権は返還されたが巨大な基地と日米の軍事体制はそのまま残った。沖縄県の面積の約11%が米軍施設である。そして日本全土の米軍施設の75%が沖縄に集中している。軍用地の使用料収入は沖縄経済にとって無視できない割合を占める。沖縄にとって麻薬のようなものだと言われている。アメリカが軍事国家であり製造された兵器は消費されるというあの絶望的な経済の道筋と酷似している。日本政府は私達の税金で米軍駐留費の75%を負担している。沖縄を見れば日本の真の姿が見えてくる。写真は那覇市の国際通り奇跡の1マイルと呼ばれたこともある。

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白内障の手術

2005年09月12日 | 捨て猫の独り言
武蔵野赤十字病院に一年間毎週一回通院し、この7月で治療が終わった。その後は半年の間に月一回の検査でウイルスが再検出されなければ完治となる。どうしてもやらねばならない治療ではなかった。少なく見積もってあと10年生きるとして、肝炎ウイルスのためにその10年が中断される可能性は少ない。肝臓だけ耐用年数を延ばしてどうなるとけちなことを考えた。

目の治療を先にやるべきだった。風景の見え方の問題だから毎日暮らしていく気分に直結する。遅ればせながら9月8日から3泊4日の白内障の手術入院が実現した。私が一番若い患者だ。病室は小児病棟の隅っこにあり、赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。男の看護師さんがすみませんねえと言うが、頑張って泣きなさいそれがあなたの仕事だからと思う。103歳の可愛いおばあちゃまが白内障の手術を受けていた。周囲はひょっとするとギネスブックものと囁く。手押し車で自力で歩く。よく聞くと川辺(かわなべ)出身の薩摩おごじょである。娘のときに上京したところ翌日に関東大震災に遭遇したなどしゃべりも達者だ。

手術は濁った水晶体を超音波で砕いて吸い取り、その人に固有のコンピュータで作製したレンズを入れる。約20分かかる。手術翌日に網膜に穴があいていることが見つかり網膜剥離予防のためそこにレーザーをあてた。想定外の出費となったがこの発見は幸運だった。術後視野が明るくなった、特に遠くの風景は見違えほどクリアーである。このままでは左右のバランスが悪い。この病院とは当分縁が切れそうもない。

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捨て猫の名の由来

2005年09月08日 | 捨て猫の独り言
捨て猫と言うけれど、いつ誰がどんな理由があって捨てたのでしょうか。その捨てられた猫はその後どのような運命を辿ったのでしょうか。いろいろと不明な点を含んだネーミングです。野良猫は自分の意思で徘徊するのでしょう。しぶとく生きぬく才覚がありそうです。それに対して捨て猫は定めのままに流されて生きるしかできない情けない存在です。誰かに拾われないと生きていけません。ブログ開設アドバイザーに問われて、とっさに答えたのが捨て猫です。理由付けは後の作業でした。

親のすねかじりの二十歳前後の頃、気ままな身分のままに大学の教室には全く出なくなりました。日本育英会の特別奨学金や親の仕送りは二、三日でどこかに消えてしまい不安な生活が再び続きます。こんなことが長期化すると次第に自分を見失っていきます。何とかしなければと、もがいてももがいても脱出できません。怠惰のつけは雪だるま式に増えるばかりです。ネオン街を歌った夢まぼろしの演歌の世界の近くで生きていました。そうだ、あの頃、私は自分で自分を捨てたのです。

捨て猫を拾ったのがねったぼさんです。異郷の地で、高校の同級生ということで私の方から訪ねたのが始まりでした。相変わらず教室から足が遠のいていましたが、二人で暮らしていくためにはとりあえず学業をなんとか成就した格好にしなければと、なりふり構わず生活者の道に戻ろうともがきました。担当教授には破格のお目こぼしを頂きました。そのときのことは、しばらく夢にまで見ました。卒業できずに苦しんでいる夢です。

つい最近二人で高校の同窓会に出たときのことです。ねったぼさんは周りの友人の質問に 「あまりにも哀れな様子だったので拾ってあげたの」 と答えたのです。この問題発言にその場が一瞬静まり返ったように私は感じました。しかし事実だからこれからもそれを受け入れていくことにしています。それで・・・・捨て猫ですたい。(最後だけなぜか博多弁)



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沖縄旅行雑録(2)

2005年09月05日 | 沖縄のこと

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奄美諸島の与論島を過ぎるとすぐに、左手まじかに沖縄本島が見え始める。民間、自衛隊、米軍の飛行機の高度は、それぞれ300、450、600メートルと定められている。しばらく海上を低空飛行して南北むきの滑走路にそのまま着陸する。それゆえにベテランパイロットが配置されていると聞いた。学習旅行には普段の観光では体験できないようなプログラムが組まれている。

ひめゆり学徒隊の生還者や、海上基地反対の市民的不服従運動家の講演を聞く。ガイドの案内で鍾乳洞の内部に入る。沖縄のシンガーソングライターのホテルへの出張コンサートなどである。

宮良ルリさん(79歳)は伊原第3外科壕生き残り5人のうちのお一人である。後藤久美子出演の映画「ひめゆりの塔」などは宮良さんたちの証言に基づいて製作されたのだと今更ながら気づく。「戦場では人間が人間でなくなる」 「あの時までは生きていたのに」 「初めての化粧が死化粧とは」 またひめゆり平和祈念資料館では、「陸軍病院看護婦たちの沖縄戦」が戦後60年企画として8月末まで開かれていた。

真喜志好一(よしかず)さん(61歳)は建築家で、一坪反戦地主会、白保の海と暮らしを守る会、沖縄環境ネットワーク、平和市民連絡会などに関わる。ジュゴンの棲む豊かな海を守りたいと訴える。「こと人権にからむとき多数決はダメだ」

山内栄さん(53歳)は琉球大学非常勤講師で、沖縄史から軍事問題、地質学に至る豊富な知識と絶妙な話術のカリスマガイドである。約270メートルのアブチラガマ=糸数(いとかず)壕は負傷者、軍医、衛生兵など数百人がいた。ひめゆり学徒は16人だった。ガマの入口と出口は極端に狭い。途中は漆黒の闇で懐中電灯がないと一歩も動けない。終戦直後には丸木の二段ベットの上に白骨化した遺体がたくさんあったという。

シンガーソングライターの海勢頭豊さん(61歳)は映画「月桃の花」の総合プロデュ-スと音楽を担当した。カチャーシーは祝宴などの最後にみんなが一緒になって踊る自由群舞である。男はかるくこぶしを握り、女は手のひらを開く。左右の手はそれぞれ違う動きだ。同じだと阿波踊りになる。コンサートの最後にリズム勘のいい生徒たちが意外に手こずっていた。
写真は那覇市の公設市場、クリックすると拡大します。
        



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沖縄旅行雑録(1)

2005年09月03日 | 沖縄のこと

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8月29日から高校2年生の学校行事の引率として3泊4日で沖縄に行きました。生徒は北海道、四国、韓国などいくつかあるコースからひとつを選び、しかも参加するかしないかは自由です。バス1台にゆっくり座れるぐらいが理想的な人数ですが、今年の沖縄は58人もいて教員4人添乗員1人の体制をとりました。沖縄戦の事実を知ることが最大のテーマです。学習旅行と称して毎年実施しています。

巷間に説かれて久しいのですが学校現場は様変わりしています。親の躾が不十分です。羽田の集合時に驚いたのは、3人の女の子の服装です。ジーンズがずりさがりパンティをはいているのかいないのか分からない服装を私はケツ出しルックと名付けました。正式には何と言うのでしょうか。また全般的に他者のことを思いやることができません。行きの飛行機の中で奇声を張り上げて騒ぎ、周囲の乗客の顰蹙をかいました。朝食やバスの出発などの集合時間に平均10分遅れは当たり前、中には出発時間にまだ寝床にいる者も出現しました。これは睡眠不足が原因です。運動クラブ単位で参加しているので学習旅行とは名ばかりでまるでクラブの慰安旅行です。よる11時の点呼以後の部屋の移動も盛んなようです。消灯して低い声でのおしゃべりならまだ可愛げがあります。最後の夜には午前2時ごろ一般客からあまりの騒音に対しての苦情がフロントに入りました。どの部屋も不夜城です。一番うるさい部屋に踏み込むと男女合わせて15名ぐらいが集まっていました。彼らのその場しのぎの嘘はすぐにくつがえされ、後に残るのはばつの悪さだけです。

そんなわけで生徒はバスで寝るしかありません。2号車のガイドの森田さんは自分の気持ちを鼓舞して仕事しているようでしたので私はバスの外で「森田さんチバリヨー」とそっと声をかけました。これらは補助の引率教員から見た旅行の負の側面です。官費旅行もそれほど楽なものではありません。

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