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玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*沖縄滞在八日間⑤

2016年02月29日 | 沖縄のこと

 碁を打った雨の日は団体客が去って宿は静かだった。その夜の広間での歓談で、とんとん拍子に今後の私の午前の日課が決まった。明日から早朝5時半に宿を出てゲート前に参加することになった。上越市から来たIさんの車に、私と三鷹市から来たHさんが便乗させてもらう。。「やっと5時半デビューね」と私を皮肉る人がいる。この三人は宿泊数も多く、その期間もほぼ重なっていた。Hさんが持ち込んだ米を炊き、共同の夕食を作ることにしていたがHさんが二回欠けて三人そろったのは二晩だけだった。

  薄暗がりの6時前にゲート前に着く。国道を挟んで山側もまた基地である。その山側の国道沿いにテントがびっしりと建ち並んでいる。テントに対する警告の立札も一応あるにはある。吹きさらしのテントとは別に、内部を窺うことができないテントがある。到着の早すぎた私たちが、その中へ入ると電球が輝き、練炭火鉢に湯が沸いている。テレビもあり簡易ベットもある。ここに若者たちが泊りこんだこともあるという。撮影禁止の貼り紙がある。朝の冷え込みは厳しく携帯カイロが配られた。

  

 6時半ごろ集合の合図があり、山側のテント前で注意事項を聞く。怪我をしない、逮捕者を出さない、一人きりの状況になったらすぐに大きな声を出すなどの注意がある。県外からの人はと言われて二十名近くのうち半数ぐらいの手が挙がり、歓迎の拍手が起こる。明るくなりかけた7時頃には座り込みが始まっている。そのうち次第に座り込みの人数も増えてゆく。日に何回か黒砂糖や焼きドーナツなどの甘いものが配られる。女性の参加者の数が多いようだ。五台ほどの車がフル回転してトイレの送迎が行われている。辺野古の抗議行動は組織的で機動力も備えている。送迎の車の中で地元の爺さんは週に6回はゲート前に来るよと話してくれた。

 

 私の隣りの隣りで座り込んでいた年輩の方が、立ちあがり私を指さして何か言っている。どこかでお見かけしたお顔である。そしてすぐに気付いた。互いに名乗り合ってはいないが、昨日の囲碁クラブで私が一目負けした五段氏である。思いがけない再会に私は軍手を脱ぐことを忘れて握手した。午後には汀間漁港から海上行動の船が出るという。瀬嵩の浜からはカヌーやゴムボートが出る。私は県外からの男4人で小型船に乗せてもらった。ドリーム号はスパット台船の監視の任務をおびていたようだ。一隻だけ大浦湾の外洋に出てフロートのはずれまで行き台船の近くで小一時間停船していた。帰港する時には雲が低く垂れこめていた。こちらの動きに合わせて海上保安庁の船はどこまでも追跡してくる。激しく上下動して波をたたきながら進む小型船の舳先に座っていた私達はバケツで海水を浴びせられているような状態で下着までびしょぬれになった。

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*沖縄滞在八日間④

2016年02月25日 | 沖縄のこと

 一月下旬に咲くという「緋寒桜」の見物は今回の旅の目的の一つでもある。「ヒカン」と「カンヒ」と二通りの呼び名があるので混乱する。別に「彼岸桜」というのがありそれとの混同を避けるためにひっくり返して「寒緋桜」の呼び方になったという経緯があるようだ。今回の滞在の中で雨の予報は三日目の5日(金)だけだった。この日が私にとって桜見物のチャンスである。午前中に一回しかない7時39分のバスで名護城跡を目指した。

 沖縄の大動脈と呼ばれて、西海岸沿いを走る国道58号と東海岸の辺野古ゲート前を通る国道329号は名護市で合流する。そのあたりの地名を世富慶(よふけ)という。この交差点は名護湾に面して名護市の中心部への入口とも言える場所だ。世富慶のバス停前のコンビニで久しぶりのコーヒーで一息つき、それから雨の中を歩きだした。目印のオリオンビールの工場を捜していると、思いがけなく名護博物館横で名護親方(中国名・程順則)の銅像に出会った。

  

 琉球朝日放送が放送終了後に、放送だけで終わるのはもったいないとして出版した「琉球いろは歌」で私は名護親方のことを知った。近世の沖縄を代表する政治家であり、文学者・教育者でもある。それから桜まつりの会場の名護城跡に急いだ。名護城は標高100mの丘陵にあり石垣のない城だ。長い石段の両側には桜の木と灯籠が並んでいる。降りしきる雨の中を石段を登るのは私の他に一人の男性がいるだけだった。先週の30日と31日で桜まつりは終わったというのに、桜は満開にはほど遠くこれからという状態だった。

   

 つぎに名護港に向う途中の公園で徳田球一のレリーフに出会い、球一の球が琉球の球であることを知った。雨の中を歩き回っているうちに靴の中は、ずぶぬれになり風も強くなってきた。雨の港を見学してから、人が多く出入りしている港の食堂で早めの昼食をとる。さて夕方のバスの時刻まで、どう過ごすべきかしばらく思案する。どこかで「名護囲碁クラブ」という看板を見たのを思い出してその方向へ引き返した。碁会所は東江(あがりえ)中学校の向い側にあった。運のいいことに、ちょうど関係者が鍵を開けるところだった。しばらく待っていると席亭も姿を見せて「与那覇と言います」と自己紹介した。五段の与那覇さんと、つぎに別の五段の方と2局打たせてもらった。囲碁をやっていてよかったとつくづく思う。私は三子置いて初めは10目勝ち、つぎは1目負けだった。宿に帰ると一番先に靴に新聞紙を詰める。広間には雨の中をゲート前で座り込んだ人たちばかりだ。私は肩身のせまい思いでコンビニで買った夕食をすませた。

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*沖縄滞在八日間③

2016年02月22日 | 沖縄のこと

 旅の初日の朝に目覚めると、青空がひろがり暖かだ。他の宿泊客はすでに出かけていて宿は静まり返っている。宿からゲート前までの7㎞の道のりを自転車で向う。大浦湾を左に見て、急勾配の二見バイパスのトンネルを登りきると辺野古地区だ。このあたりは4年前に同僚4人でレンタカーで訪れているので懐かしさが募る。途中8時少し前に警視庁の大型車両3台に追い越された。ゲート前に自転車で来ているのは私だけだった。

 座り込み行動に参加することは少しの緊張感と高揚感をともなう。後で知り得ることが多いのだが後先を無視して記述してゆく。座り込みの場所は国道329号沿いにある第一と第二ゲートの中間に設けられている工事用ゲート前である。そのゲート前の小さな広場には両脇に県警の大型車両、中央にワンボックスカーが配置されている。座り込みのスペースを狭めるためである。機動隊員が現れて、人々の排除が終わるとワンボックスカーだけが移動して工事車両が出入りする。排除された人々は歩道に横ずけされた大型車両と機動隊員の人垣で仕切られた檻に一時的に確保される。

  

 それらの警察車両を囲むようにして杉板とブロックを組み合わせた長イス、狭い隙間には携帯用折りたたみイスが並べられている。おもいおもいにそれらに座る。沖縄タイムズ、琉球新報はゲート前に張り付いて取材し、翌日の社会面に囲み記事を掲載している。リーダーは沖縄の平和運動の象徴的存在である1952年生まれの山城博治(ひろじ)さんだ。この日は住民の基地との戦いを追ったドキュメンタリー映画「沖縄 うりずんの雨」の監督ジャン・ユーカーマンーさんがカメラマンと訪れ、スピーチや記念撮影などして人々と交歓した。

  

 午前中は比較的平穏に過ぎて、リーダーの山城さんの指名で県会議員や元裁判官などからの発言があった。出入りしている工事車両は米軍の隊舎新設工事関連のもので埋め立ての工事は今のところストップしている。集会現場の近くに食堂はない。1時間歩くと大浦湾の奥に「わんさか大浦パーク」というメニューも多彩な食堂がある。ゲート前と宿の間に位置してかなり宿の方に近い。ここがこのあと私の昼食場所となる。集会に参加した人で混雑する食堂の中で昨夜の老紳士の姿を見つけて私は声をかけた。彼が「高江にも行かれますか」と聞くが、車のない私にはその予定はなかった。昼食後に私はゲート前を離脱して素晴らしい眺めと評判の「ジュゴンの見える丘」を訪ねた。名護の東海岸を上り坂は自転車を降りて押し、下り坂はジェットコースターに乗るようして汗だくになりながらたどり着いた。その岬は東海岸沿いに大浦、瀬嵩、汀間、三原地区を北上した先の嘉陽地区にあった。

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*沖縄滞在八日間②

2016年02月18日 | 沖縄のこと

 食堂内に数多く並んでいる硝子の大瓶に興味を示している私に、老紳士はつぎのように説明してくれた。これは島とうがらしを泡盛に漬け込んだ沖縄の調味料で「コーレーグス」と言い、島とうがらしは朝鮮半島より伝ったとされ「高麗草」からコーレーグスになった。私は沖縄そばの薬味としてほとんどの食堂のテーブルに置かれていることは知っていた。この薬味の名を知り認識を深めることになった。

 現場に行くことで思いがけない気付きがある。その意味するところを事後に知ることになったりするが、とにかく行動することで視野が広まっていく。老紳士は「明日ゲート前で会いましょう」と予言めいたことを告げた。ゲート前の集会は水曜と木曜に重点がおかれ、国会、県会、市町村会などの議員たちの参加もこれらの日に集中するという。着いたばかりの私は明日の木曜が集中日であることを知る由もなかった。

 

 乗客二人だけの最終バスに乗り瀬嵩(せだけ)で下りた。宿主には廃校になった小学校の正門を入るようにと教えられていた。は静まり返り人通りはない。しばらくそれらしきものを捜して薄暗がりの中を歩くが見つけ出せない。仕方なくバス停に一番近い民家のドアをたたいた。出てきた高校生の金原太一君が親切にも宿の玄関まで案内してくれた。宿はバス停から歩いて5分もしない近さだった。

 宿の玄関の広間は到着したばかりの団体客男女十数人でごった返していた。まもなく彼等は先ほどまで私がいた名護市の中心部へ食事に出かけた。これには2時間はかかるだろう。広間に静けさが戻り、先客はそれほど若くない女性と男性のそれぞれ一人ずつであることが確認できた。私はこの宿で唯一の六畳の個室を予約していた。他はすべて二段ベッドなどの相部屋だ。そして車のない私は明日は自転車を借りることを申し出る。すべて飲食はこの広間で行うようにとの指示があった。食材以外は全部揃っていて自炊可能である。広間でパソコンを操作している女性と話した。旅慣れた印象のあるその女性は、彼女のブログ「毎日がちょっとぼうけん」を更新しているところだと話した。

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*沖縄滞在八日間①

2016年02月15日 | 沖縄のこと

 沖縄の辺野古新基地建設に対する抗議集会が第一月曜日に東京市ヶ谷の防衛省正門前で開かれている。私は数回参加して辺野古の米軍基地「キャンプシュワブ」のゲート前の座り込みの状況報告を聞く機会があった。そこで私はこの身をゲート前に置くべしと、片道の航空券と名護市の東海岸にある「海と風の宿」を昨年のうちに予約した。

 勝つまで続けるという運動はいつ終息の時を迎えるか分らない。私は旧正月と緋寒桜の見頃を考慮して、2月3日の節分に出発し7泊することに決めた。この時期は暖かいだろうというもくろみはみごとに外れることになる。午後4時に那覇空港に着き、沖縄道を高速バスで名護バスターミナル到着は6時半だった。(出会った鳥たち)

 

 そこから宿へ向かう路線バスは朝一回、夕刻二回の日に三回だけである。バスで45分、タクシーなら二千円以上かかる。最終バスが出発するまでの一時間あまりで夕食をとらねばならない。宿主は車椅子生活者で現在は長期入院中ということだった。電話連絡だけで直接お会いすることはなかった。そして滞在中の食事はすべて各自で調達することになっていた。

 

 さて宿主が美味い店があると電話で教えてくれた食堂を捜し当てたのだが、店は閉まっている。仕方なく引き返してターミナル内の食堂の扉を押した。女主人が手持ちぶさたの風情で友人と話していて、客は老紳士が一人いるだけだった。彼はテレビと手元の印刷物を交互に見ながら缶ビールを飲んでいる。目を通している印刷物はサンフランシスコ講和条約の全文だと教えてくれた。彼については次回に書くことにして、今回の旅行で知り私が「お気に入り」に登録した二つのブログがある。つぎに紹介したい。 http://blog.goo.ne.jp/chuy/1 とhttp://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11 である。

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*選者・永田和宏

2016年02月02日 | 捨て猫の独り言

 朝日歌壇の選者は引き続き高野公彦、永田和宏、馬場あき子、佐々木幸綱だ。投稿作品の中からそれぞれの選者が選んだ十首が月曜の朝刊で発表される。数は少ないが、ある作品が複数の選者によって選ばれることがある。元旦紙には四人の選者たちの新春詠が披露されていた。その中で永田は「恥深く」という題で《「沖縄を返せ」と歌ひゐし我ら『戦う民意』を恥深く閉づ》と詠んで「沖縄を翁長雄志を孤立させて深く恥ずべしわたしもあなたも」と自作を解説する。

 昨年の入選歌の中から永田が選んだ一首(朝日歌壇賞)は、奈良の直木幸次郎の「特攻は命じた者は安全で 命じられたる者だけが死ぬ」だ。これには「すべての戦争における冷厳な真理を、古代史の碩学が憤りとともに呟く」の評。受賞者は四人いるが佐々木が選んだ長野の沓掛喜久男の歌は「永久とは七十年なるか ぐらつきし憲法九条祈るごと読む」で、投稿者は「古希を機に作歌を始め十年が過ぎた。日に一首、試行錯誤が続く」とコメント。(写真は 夕焼けだんだん付近)

 

 一月も沖縄を詠んだ投稿は続いている。選者の間では沖縄詠は永田に任しておけという暗黙の了解ができているのではないか。▼沖縄に偏る基地の分担へ動かず平和望む疾しさ(寝屋川市・吉村良夫)▼目は柔和言葉明快翁長知事陳述ぶれなし冬の法廷(安中市・鬼形輝雄)■沖縄に真摯に向き合う二首▼いま友は辺野古にすわるそれを詠むことしかできぬわたしの今(長野市・原田りえ子)■沖縄に行けなくとも、それを詠うことは立派な意志の表示

 ▼基地負担四十六県模索せよ捨て駒にする歴史を止めて(秋田市・小松俊文)■どの県も基地負担を申し出ないところに沖縄問題の本質が▼思わずに涙が少しにじみきつ沖縄知事の言葉穏しも(鹿嶋市・加津牟根夫)▼「沖縄のすべてのものはそこに住む人々のもの」文太は激す(秋田市・小松俊文)■一昨年秋、菅原文太による翁長雄志への応援演説の中の一節だろう▼知るまいと思う心の貧しさよ沖縄の自治・国の身勝手(横浜市・田口二千陸)■沖縄をどう自己化するのか、私もまだ解決できていない。(つぎの更新は15日を予定)

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