玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

スローライフそのもの

2005年06月29日 | ねったぼのつぶやき
 仕事を再開して3日が過ぎた(1週間)。障害を持つ人やお年寄りと共の生活だから、スローライフそのものである。

 私自身がイメージしていたスローライフとは、「もう少・し歩調を落とす」ことを意味していたのだけれど、「仕事の3日はか・な・り落とし」、「残る4日はす・こ・し落とす」生活パターンになりそうだ。

 利用者さんはおしなべて朝が遅く、身支度などにも時間を要するので、集合するのが10時になる。それからお茶を戴いたのち、気分転換を兼ねて近くの緑の多い公園まで散歩。噴水や水路をしつらえた池の周りのベンチで一休みしながら、幼児たちの水遊びや水浴を眺めたり、犬などと戯れたり、常連のご老人たちと交歓したりして昼食時間までを過ごす。

 ともかく手馴れた栄養士さん手作りの美味しい昼食や、これまた楽しみな美味しい手作りのオヤツが戴ける。

 介護士さんたちも、皆さん手馴れており、利用者さん一人一人に合った対応が出来ている。

 元の職場でも最後の10年は病院の職員でありながら、こういった福祉関係の皆さんと緊密な連携をとりながら仕事をしていた。何処の施設でも、職員が熱心に取り組んでいる姿を見せられていたのだが、ここでもまさしくその通りなのだ。

 しかし、時に悪徳業者もいて新聞沙汰になることがあったりして、世間一般の厳しい視線に晒されてしまうことは、とても悲しく残念なことだ。今回小規模とはいえ色んな職種の方たちと仕事をすることになった。職種によって問題の捉え方や対応の仕方が違うかもしれない。そんな比較もおもしろいかナーと思う。

 

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片想い

2005年06月27日 | ねったぼのつぶやき
  雨が降り止んで地表が未だ濡れそぼっている頃になると、私には・会・い・た・く・な・る・方・が・い・る。時間が空いていようものなら、もう我慢ができなくなります。

 こんな気分て何年ぶりかしら?しかも「片想い」。先様はまるで知らん顔どころか逃げてすらゆく。悔・し・い・こ・と・に私の方はといえば・・・未練がましく追っかけている・・。それをいいことにまた何処までも逃げてゆく・・。一体どうなってしまったの?。

 ウン10年前までは、私が逃げ、誰かが追っかけてくださったこともあったはずなのに。[そんな艶やかな時代もあったな~]、と感慨にふけりつつ、スッカリ無縁になってしまった今を「元気が一番、マーいいか」と慰めてみたり、「でもヤッパリちょっと寂しいよなー」と思ったり。しかしどう考えても立場はまるで逆転しているのです。

 そして、遂に「誘惑」に負けて捨て猫が帰・っ・て・こ・な・い・う・ち・に、塵取とシャベルを持って彼らのフィールドである保護林に出かけては、身を・く・ね・ら・せ・て・逃げる彼らと格闘を性懲りも無く繰り返しているのです。
 
 先日、ミミズの効用について調べてみようとインターネットをクリックしたところ、4万件以上の投稿がありモー大変。結局パラパラとかいつまんで読んだだけで、もっぱらの所、探す作業、採集する作業自体が楽しいので、ひたすら採集するのみ。そして翌日になってきのうバラ撒いた所(裏庭を含め、木の根や畑など)を掘り返しては、元気な様子を見て私も安心・満足しているところです。

  

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ずっと喪服で

2005年06月26日 | 捨て猫の独り言
島尾敏雄が自分の情事が原因で、精神に異常をきたした妻ミホとの地獄さながらの言い争いの日々を赤裸に描いた、凄絶な人間記録「死の棘」から28年が経過している。世界でも稀な私小説である。島尾は全面降伏し出直したいのだが、繰り返される妻の執拗な追及に血迷い、いきなりタンスに頭を持っていってぶつけたり、いらいらして物も言わずにたちあがって障子に頭を突っ込んだりする。私ならば、必ずや逃げ出していたであろう。

病妻ものといわれ、ついに入院までのことが「死の棘」と1冊の本になって世に出るまでに17年が費やされた。ミホさんは現在85歳で鹿児島県の名瀬市で暮らしている。「50年(発病から)たったのに、遠い日という気がしません。島尾が残した日記の記述は淡々としていますが、私はもっと理不尽なことをしました。よく覚えています。」と述べておられる。発作のあの日々をどの程度覚えておられるというのだろうか。さらに「長女のマヤが3年前に亡くなりました。夜は夫と娘の遺骨を枕元に置き、寝巻きをかけて、おやすみなさい、と声をかけています」という。どの島ということでなく、島の女性には霊感の強い人が時々存在するような気がする。私はその原因をうまく推理できないが、島には独自の時の流れがあり、自然界との交流が多く、たとえば嫉妬や憎悪などの機会が少ないことなどによるのではないか。それにもまして驚くべきことは、島尾の死後19年間、ミホさんはずっと人前では喪服姿だという。

「14歳になるセキセイインコのクマに慰めをもらう毎日です。人の言葉はほとんど理解できますし、私が落ち込んでいると顔を覗いて心配します。でも大好きだったマヤがいなくなってから、言葉は少なくなってしまいました。マヤの遺体が家に帰ってきた時は、走り寄って体に上がり、しっぽの長い羽を必死に引き抜いて、マヤの胸の真ん中にきちんと並べておりました。お花を供えるように。」

このたび「死の棘日記」が刊行された。「島尾が生きていたら公開は許さなかったでしょう。島尾文学に対する理解が深まると思い、心を決めました。」

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梅味噌はいかが?

2005年06月22日 | ねったぼのつぶやき
 中学時代の学友が先日のメールで、近日中に梅もぎに行くと知らせてくれました。

 彼も定年を向かえ、ボチボチ家事に勤しんでいる風でしたので、せっかくだから梅味噌を作ってみることをかなり強引に奨めました。なぜなら製法がとても簡単な上、手軽に使え、美味しいので父さん株上昇必至だから。

 私も3~4年前,今は亡き母が作りおいた梅味噌を持ち帰って以来、毎年梅酒ビン一杯分は手作りし、梅味噌を切らさないようにしています。母は88歳で亡くなりましたが、86歳まで東京の我が家へ15時間かけて毎年来るほど元気にしておりました。母の元気の基は「酢全般の多用ではなかったか」と思えるほどで、一人暮らしにもかかわらず酢だけは常に一升ビンで求めておりました。

 いまや、インターネットをクリックすれば、解からないことはないぐらい何でも知識を得ることは出来ますが、母伝承の梅味噌作りをご紹介しましょう。大きめの梅、赤味噌以外の味噌、三温糖各一キロを梅酒ビンに梅、味噌、砂糖と適当に段重ねにして入れる。翌日辺りから梅酢がだんだん滲み出してくるのでビン毎ゆらして、味噌、砂糖に梅酢が浸るようにする。一週間もしないうちにビンの淵まで梅味噌が来るので、味見をして味噌、砂糖を加減しても可。

 常温保存可。梅の実は出しても出さなくても可。出来上がった味噌はチューブ状の蜂蜜ボトルに入れ、小出しして冷蔵庫へ。これで定番の酢味噌(梅)常備となり、イザ!キユウリヘ、ヌタへ、トーフへ、ドレッシングに混ぜて・・・・お試しアレ。

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あごらE同窓会

2005年06月21日 | 捨て猫の独り言
中学校の2年E組と3年E組で、先生がクラス雑誌「あごらE」を作ってくださったので、卒業した今でも皆で話題にしております。(だって身長、体重のほか、胸囲まで数字が載っていたのですから!) 6月11日(土曜)夜に吉祥寺で行う予定で、詳細資料を添付いたします。我々もなんと!37歳になり、あの頃の先生と同じぐらいの年齢になりました。どんな話が飛び出すやら・・・・・・・楽しみにしております。

いつも、あごらEにイラストを描いてくれた松本さんからのFAXである。中学卒業以来2回目の同窓会を開くという。皆さんが37歳と聞いて今回はなぜか積極的に出かける気になった。39名中23名が参加した。クラス通信を私が出したのは後にも先にもこの2年間だけであるという認識が意外にも皆さんには無い。このクラスは一人一人をよく覚えている。記憶力の悪い私にしては珍しい。お互いにあの時を気持ちよく過ごせたということだろう。私自身の同窓会で飲んでいるかのような気分であった。

森本レオのようにぼそぼそ話していましたね。男の子と喧嘩をして悔し涙を流し続け、授業が終わってから「おい、松本だいじょうぶか」といわれたと告げられて、おぼろげな記憶の底からかすかに当時の状況がよみがえる。ケータイで子供の写真などを見せてくれる。それぞれの仕事の話も興味深い。2次会にも参加し、飲みすぎの後悔をしたのはいつもの通りであった。

今日も暑いですね。渋谷で働いているのでコンクリートジャングルで暑さ倍増です。緑に囲まれた成蹊は、きっと過ごしやすいのでは。ケヤキ並木が懐かしいです。土曜の同窓会はお疲れさまでした。変わった人あり、変わらない人あり、久しぶりに皆に会えて楽しかったです。先生はお変わりないですね。(ベビーフェイスだから?笑)主幹事藤田くんがとりまとめてくれたクラスの連絡名簿をお送りします。

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また働くのもいいカナ

2005年06月20日 | ねったぼのつぶやき
 失業保険も一応全額支給を受け、月2回の求職活動なるものから開放されて、約2ヶ月近くたちました。ユックリした自宅での生活にもスッカリ慣れ、体操や散歩などして過ごしていました。

 そんなところへ、以前より何度か仕事の事で声をかけて下さる方がいて、返答は曖昧にしていたのですが、またヒョッコリ出会い、再度お話をいただいきました。パートでもいい。いつからでもいい。明日からでもいい。長らくのお休みも構わない。曜日、時間いずれも本人が決めていいというのです。エ・エーッ!そんな働き方ってアリ~?今まで経験したことは勿論、聞いたことも、見たこともない就業形態なのです。まるで懇願に近い話しぶりに気おされ、いずれ事務所の下見を兼ねて立ち寄り、責任者と会うことを約束をしました。

 その後2~3日しておうかがいしました。自宅より徒歩で15分。ウォーミングアップにほどよい距離です。今、流行のデイケアーセンターで、いわゆる一種の托老所でした。運悪くその日は雨降りで、参加者は少なく5~6人でこじんまりしており、普段でも5~8人位らしい。こんな小規模事業所で勝手な勤務をされたら事業所も困りはすまいか?!正規、パートをいれて程ほどの職員もいるものを!私が加わることによって何がしかの賃金を払い、一体ペイするのだろうか?。

 なによりも疑問でしたので最初に尋ねてみました。有資格者がいることによって、リハビリの加算が出来る(勿論しなければ加算できない)仕組みなのです。当たり前といえば当たり前のことでもあるのですが、こんな場面でこんなにも有意差がでるなんて、ケアーマネージャーの資格を持っている私自身でさえ驚いてしまいました。

 面接ということで、一応提出した私の履歴書を開きながら、医療、福祉に関する3つの資格と、運転免許資格を見て「もう少し時給を考えなくてはなー」と責任者は一人ゴチていましたが、「ムリしなくていいんですよ。私も勝手ばかり言わせてもらうことになりそうですから」と内心思っていました。そんなこんなで週に3回程度の、気楽な仕事をいきなり本日から始めることになりました。

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ミミズは お友達!

2005年06月18日 | ねったぼのつぶやき
 昨秋、落葉し積みしだかれた柔らかい枯葉に、梅雨がシトシトと降り注ぎ大地を濡らす。そんな朽ち行く枯葉と大地の間に彼らは誕生し、生息している。

 かつては我が家の庭の芝生にもミミズが生息し、雑草とりをしていると雑草とともにニョッキリとミミズも顔を出していたものだが、このところそんな場面に出くわさなくなった。それと関係するのか、いやなことに芝でない苔ようのものが、はびこりつつある。

 以前よりミミズのいる土はホッコリと柔らかくて上質、作物を育てるのにもいいと聞いてはいたが、今回旅行のための事前学習で、農林省関係の技官である吉田太郎氏の話を聞いたり、彼自身の著書になる「キューバに見る有機農法」「持続可能な都市ー有機農法を目指して」などを読み触発されていたので、ミミズによる小有機農法を手がけてみようと思った。

 「そうだ!ミミズとりに行こう!!さてどこへ?」長柄のチリ取とシャベルを持って近くの保護林にでかけた。此処ならいるはずだ。”いた!いた!いた!”勇んでミミズ採り。気味悪くないかって?全~~然!青虫も、いも虫も、全~然こわくない。
嫌いなのは蛇、かえるなど爬虫類だけ。あんまり沢山いるので、長時間かがんで採っていると、足、腰が痛くなってくる。しかし止められない。

 梅雨空の中をウインドブレイカーを着たりして3~4日間通いづめた。小一時間もいるとズッシリ重いほど採れる。塵取をぶら下げて帰り、ゴミコンポストに入れたり、小さな畑の隙間を耕してその間に埋め込んだり、樹木の根元を掘ってうめたり、芝生の根きりをやって穴ぼこを作り、そのうえにばら撒いたりした。昨日の夕方芝生の上に百匹以上をばら撒いた。しばしそのうえをゾロゾロはっていたが,今朝見てみると全部地中にもぐったようで一匹も姿を見出せない。どうか我が庭に住み着いておくれと祈る。

 さてさて、次なる芝刈りの時はどうなることやら。我が友が地中に沈潜してくれたらいいのだが、驚いて飛び出してきたら彼らを傷つけてしまうことになってしまう。それからもう一つ。この作業(ミミズ採り)がスッカリ気に入ってやみつきになりそうな気配なのです。

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学生さん!チョットお願い!

2005年06月16日 | ねったぼのつぶやき
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 我が家の庭には、比較的多めの樹木がある。普段から庭木の手入れは女である私の仕事である。実は先日も梅の木に登り、梅の実をもぎながら枝葉を切り詰める剪定をした。いつもなら捨て猫が梯子をかけたところで私が登るのだが、梅の木の高さから見て、私の背丈ほどの脚立でなんとかいけるだろうと判断して、捨て猫が昼寝をしている間に作業に取り掛かった。

 のっけからヤットの思い。枝の張り具合の都合で木の幹に登り、体を安定させるのが容易でないのだ。加えて梅の木はやたらと小枝が生えていてトゲ状になっており、服や頭に巻いたタオルがひっかかって、とても作業がし難く新しく生えた今年の枝は1メートルも伸びて、高いところや幹から遠いところの剪定は難儀である。それらをノコギリや、剪定バサミ、長柄バサミなどを駆使してヤッツケていく。

 艱難辛苦、悪戦苦闘、孤軍奮闘していた最中に・・・・ア~~ツ・・・・・ハ・サ・ミ・ガ・オ・チ・タ・・・・・・。

 木から降りようと何度試みてもムリ。足が全く脚立に届かない。おまけに長時間作業を続けていたので、足が疲れのせいでブルブル震える。この分ではいくら頑張っても降りられない。ここに至っては捨て猫を呼ぶしかない。「お父さん、お父さん」と呼ぶが反応がない。更に声を張り上げて呼ぶ。”全く未だ寝ているの!”と腹立たしくさえなってくる。さてどうしたものか?木の上にしゃがみこんだまましばし思案する。・・・・・そうだいい手を思いついた。

 通りがかりの2人の女子高生に、木の上から呼びかけた。「学生さん!チョットお願い!」 しかし、声はすれども姿は見えず、辺りを見回しながら戸惑っている2人に「ここヨ!うえ!うえ!さっきから家の中を呼んでいるけど気ずいてくれないの!そこのチャイムを鳴らして呼び出して!」とお願いした。彼女たちは事情を察し、笑いあいながらチャイムを押してくれた。しばらくはたった今の出来事を、賑やかに2人で語りながら学生さんは帰ったことだろう。私は私で思い出し笑いしながら残りの枝葉を切詰めた。

本文内の写真はクリックで拡大します。登った梅の木。

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小泉語の学習(2)

2005年06月13日 | 捨て猫の独り言
靖国神社は78年、処刑された東条英機元首相らを含む14人のA級戦犯を合祀した。このことが戦死者の追悼の問題をいっそう複雑にしてしまった。

新しい国立の戦没者追悼施設をつくる構想は、小泉首相が01年8月13日、初めて靖国参拝の際に出した談話の中で「内外の人々がわだかまりなく追悼の誠を捧げるにはどのようにすればよいか、議論する必要がある」と述べたのを受けて具体的に動き出した。官房長官のもとに設置された懇談会が1年にわたって議論し、無宗教の国立の戦没者追悼施設が必要とする提言をまとめた。ただ自民党内に靖国神社が形骸化するとして新施設の建設に反対論が根強く、言い出した首相自身も積極的に後押ししようとはしていない。提言は宙に浮いたままだ。

小泉首相は6月2日の衆院予算委員会で靖国参拝について 「首相の職務でなく、私の信条から発する参拝に他の国が干渉すべきでない。自分自身の判断で考える問題だ」  「いつ行くかは適切に判断する」  「A級戦犯を戦争犯罪人だと認識している」  「A級戦犯のために参拝しているのではない。多くの戦没者に敬意を表している」  「私は戦争への痛切な反省を表明している。靖国神社を参拝することが靖国神社の考えを支持しているととらないでほしい」

小泉首相は、中韓両国が期待した新たな慰霊施設の建設構想放り出したまま、靖国参拝で何を実現しようとしているのか謎である。首相が何を考えているのか国民に分からないというのは、好ましい状況ではない。中国の意見に耳を傾けるという行為自体が不快でならないという子供じみた心理からだろうか。

参拝の理由を聞かれて、6月7日の会見で  「選挙公約とかそういう問題じゃない。適切に判断するとしか、今は言わない方がいいと思います。こういうこと、あんまり聞かない方がいいんじゃないですか」

加藤紘一氏の見解は次の通りである。小泉さんがそれでも参拝にこだわるのは、政治家としての感覚じゃないかな。やっぱり、日中友好路線について国民はあまり快く思っていないという部分をくみ上げているのでしょう。これは小泉さん一人の問題ではない。日本社会にあるナショナリズムと国民全般の中にある、なんとなく中国に押されているのではないかと受け取る気持ちの問題で、えらく難しいテーマです。

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やった!ジーコジャパン

2005年06月10日 | ねったぼのつぶやき
 遂にやってくれました!。私たちはこの瞬間を待っていた。

 サポーターの中には、見れない試合をバンコクまで応援に駆けつけて。試合場の外で何日も何時間も座り込んで。帰宅を放棄し、泊り込み、飲み明かして、翌日にこたえる夜更かしを敢えて実行して。そうしてツイに==”バクハツ”==した。

 5月22,27日のキリン杯は、ペルー、UAEいずれにも連敗。イヤ~な気分で敵地バーレーンに乗り込まざるを得なかった。ところが思いもかけぬほど、ボールが上手く回り得点差こそ少なかったが、楽勝できた。深夜の放送でこちらは寝不足である。本来ならもっと得点を得るべき試合内容であったはずだ。かねてからそうだが、ここぞという時に得点できないのは、ヤッパリ大きな弱点だ。

 ところで、私をはじめとしてファンは勝手なものだ。しょっぱな日本が勝てないでいたとき、ジーコの采配を巡って、解任騒ぎのデモまで行われた。私自身も国内組で闘えているものを、国外の先発を任されているわけでもない選手を起用することもなかろう、と疑問を持っていた。

 しかし、やっぱりナカタ等の発言を聞く時、プロをこえて求道者然とした雰囲気を醸し出しており、元もとの資質に加えて、より厳しい環境下で培はれてきた哲学を感じさせる。ジーコは海外組の才能を重くみる。あるいは個性的であることを求めている。「下手な質問などしないで!ナカタが返事に困っているでしょ!」、と見ているほうがヒヤリとするインタビューの場面に出くわすこともある。

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