玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*詩集朗読

2018年07月27日 | 捨て猫の独り言

 成田空港で二人の孫を見送った。いつもだと「また来年ね」が決まり文句だが、今年は「ジジ~元気でね」ときつく抱きしめられた。アトランタまでの飛行時間は12時間45分だ。1週間後には新学期が始まる。「ジジはこれから毎日何するの」また「学校始まるのいやだな~」とも言う。

 去年は鎌倉に一泊旅行したが、今年は一泊旅行はなかったし、自宅で紙芝居をしてやることもなかった。いつものように熱中したのは、今年も近所の昆虫少年たちとカブトムシやクワガタの捕獲と飼育だった。少年の親からカブトムシのTシャツを餞別にもらっていた。

 本棚に谷川俊太郎詩集「はだか」が埋もれていた。ことばの力と奥行きを伝えるひらがな詩の最高傑作と評価される。子供の視点から、すべてひらがなで書かれている。自分で購入した記憶はあるが、その時のきもちは思い出せない。それを就寝前に毎晩一遍づつ読み聞かせた。はじめてこの詩集を声を出してまじめに読んだ。

 理解出来ない部分があるのだろうが、二人は最後の一遍まで興味を示した。読み終えたいくつかの詩の冒頭の一部分を復習して、その日の詩に入る。どうして、なんでと質問することもあるがジジにもわからないと答えることもしばしばだ。ネットで英訳本を手に入れた。二冊を二人は持ち帰った。たまに読み返すことがあるだろうか。(台風を気にしながらこれから小旅行に出ます)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*浅草から汐留へ

2018年07月23日 | 捨て猫の独り言

 一度は水上バスに乗り隅田川の両岸を眺めてみたかった。水上バスの乗り場は浅草橋のたもとにある。西武新宿駅から少し歩いて大江戸線の新宿西口駅から蔵前駅まで行く。蔵前駅から雷門はきわめて近い。孫たちと「雷門」と書かれた大提灯にタッチして門をくぐり、すぐに水バス乗り場へと急いだ。

 

 吾妻橋から勝鬨橋まで10以上の形の違う橋を通り抜け、40分ほどで浜離宮に到着する。ほとんどが外国からの観光客だが猛暑のため乗客はまばらだ。水上バスを降りて日陰を探しながら庭園を歩く。潮入の池に浮かぶ中島と小の字島は総檜造りの橋で結ばれている。前回の入園で見過ごしていたスポットだ。そんなことは孫たちは知らない。

 

 中の御門を出ると、高速道路の高架の下に幅の狭い横断歩道がある。探しあぐねてやっと気づき、信号が変わったので慌てて孫たちを呼ぶ。一人だけ先にわたろうとしていた老人に声をかけられた。ここは信号が青でも左右確認しないと危険な場所だ。今の社会は弱者の視点に欠けている、自分は警察官を定年退職した者だと親しげに話した。

  汐留シオサイトと呼ばれる再開発地域は高層ビル群がデッキ(高架歩道)で結ばれている。カレッタ汐留は飲食店、ショップ、文化施設を併設した複合商業施設だ。46、47階には展望スペースがあり、無料で地上200mの東京湾の景色が楽しめる。浜離宮を見下ろして、あそこを歩いたとふりかえる。このシャトルエレベータが人気で、3回も往復した。ランチは地下2階の鹿児島料理「いちにいさん」がオススメだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*競馬場の花火大会

2018年07月16日 | 捨て猫の独り言

 東京都を南に流れる野川の源は、国分寺市の日立中央研究所にある湧水池である。その大池を中心とした庭園は春と秋に一般公開される。小平市民である私はそれをクチコミで知って2回ほど見学に出かけたことがある。

 今回は府中市にある東京競馬場での花火大会のことを初めて知って、7月8日に孫たちと出かけた。花火大会は府中市の広報誌に開催日が掲載されるだけという。近年はクチコミでなどで広まり約10万人の人出があるという。

 

 武蔵野線の新小平駅から3駅目、終点の府中本町駅で降りて競争馬の写真などが掲げられた専用歩道橋を歩いて西門から入る。さらに地下通路を通ってスタンドを見渡せる「馬場」にあるターフビジョンの近くで、食事を始めたのは打ち上げ60分前だった。

 

 馬場は遊園地やバラ園があり競馬開催時は家族ずれが楽しめる区域である。花火は7時半から30分で3500発が打ち上げられる。斬新かつメリハリのある構成で孫たちも満足のようだった。打ちあ上げ毎に、周囲で小さな子供たちの歓声が聞こえていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*選択の誤り

2018年07月09日 | 捨て猫の独り言

 高田馬場にある早稲田松竹は、松竹の系列封切館としてスタートしたが、1975年より旧作2本立てを中心とした名画座になり、地元の早稲田大学の学生を中心に、多くの若者に親しまれた。2002年の4月に一度休館したが、休館を知った早稲田大学の学生を中心に「早稲田松竹復活プロジェクト」が発足し活動したこともあって、同年12月から再オープンしたという。

 ふりかえると2015年に何気なく飛び込んだ早稲田松竹で初めて2本立てを観ている。同じ年に友人を誘って「愛と悲しみのボレロ」沖縄戦の「ハクソーリッジ」の2本を見てすっかりこの名画座を気に入ってしまった。7月1日に孫を連れて早稲田松竹に行くことを思いついた。ソフィア・コッポラ監督による「ビガイルド・欲望の目覚め」とアイルランド・イギリス映画「聖なる鹿殺し」の2本立てである。

 ソフィア・コッポラの父は「ゴッドファーザー」や「地獄の黙示録」などのフランシス・フォード・コッポラである。この日の最初に見ることになる「欲望の目覚め」は1864年のバージニア州。南北戦争から隔離された女子寄宿学園に暮らす美しき7人の女性たちは、森の中で負傷した北軍兵士のマクバニーを見つけ、手当てをしてかくまうことから物語は始まる。そのつぎの1本は何やら難解そうな映画である。

 映画の日ということもあって10時でも観客の数は比較的多く、3人並んで座れずに私は孫2人の前の席に座った。最初の映画が終わり、さて食料を調達に行こうと後ろを振り返ると2人の様子がおかしい。怖かったと言う。妹の方は断続的にしか映画を見ることができなかったようだ。そして、つぎの映画は見たくない早くここを出ようと言う。私もつぎの映画に未練があるわけでもないので同意して外へ出た。私は選択の誤りを認めざるを得なかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*ひさしぶり!

2018年07月05日 | 玉川上水の四季

 正体不明の一株をプランターに移植しておいたところ、カボチャだったようだ。花が咲き赤ん坊の握りこぶし大の実を一個つけている。そして孫たちが観察していた玉川上水のヤマユリは、すでに朽ち果てた。庭の鉄砲ユリはまもなく咲きそうだ。数は少ないが、今年もおいらん草とたいまつ草が片隅で咲いている。ゴーヤの収穫は孫の帰国までに、間に合いそうもない。(おいらん草とたいまつ草)

 

 サッカーのワールドカップで日本がベルギーに敗れた日、私が朝の10時ごろに緑道を歩いていると前方に二人の人影がある。暑さはすでにその日のピークに達したと思われるほどだった。枝ぶりは悪く、木肌の一部が剥がれ落ちたクヌギの樹液に蝶やカナブンが群がっている。そこに近づくと望遠レンズのカメラをかかえて、説明しているのは鈴木さんだった。

 あれがアカボシゴマダラそしてゴマダラですよと丁寧に説明している。私もさりげなくその場に参加した。通行人が立ち去ると鈴木さんは視線をこちらに向けて「やあ、ひさしぶり」と言う。相変わらずの日焼けした顔で、お変わりなさそうである。夏場に入って、筋肉が落ち体重の減少がみられる私よりもお元気のように思われた。

 30分ほどの立ち話になった。このクヌギの木は以前から鈴木さんの観察ポイントという。観察には時間が重要でここに蝶が集まるのは10時前後だ。最近は自宅の庭に食草を植えて蝶の観察に専念している。特にモンシロチョウについては、年間を通して観察しその世代交代の実態を見極めたいと話す。ここのところ親戚縁者に弔事が続き、さらに自身もこの10月には手術の予定だという。なにはともあれ暑さの中をウォークに出て、鈴木さんに会えてよかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*虚無の信仰

2018年07月02日 | 捨て猫の独り言

 だいぶ前に買った「虚無の信仰ー西欧はなぜ仏教を恐れたか」を読んでみる気になった。著者はロジェ=ポル・ドロアで2002年に日本で出版。宗教学者の山折哲雄氏がフランスに出向いた折に、この本を見出したという。帯には「異文化誤解の歴史の謎に迫るフランスのベストセラー」とある。

 いきなり「はっきりさせておこう。仏教は虚無の信仰ではない」で始まる。19世紀のヨーロッパの哲学者たちの誤解を検証した本だ。「涅槃」と魂の消滅を結びつけ、仏教を虚無の思想としてとらえる。あるいは仏教はペシミズムと結びつけられ、キリスト教の生と密着した肯定的な秩序に対立した思想とみなされるなどの誤解があった。

 

 「空(くう)」についてのつぎのような解釈を紹介している。中道とはどちらにもかたよらないということではない。空は運動である。肯定と否定のあいだに通路を切り拓き、対立する諸命題のあいだを縫って進み、その対立に巻き込まれない「場所」を確保することである。この対立物を避けていくことによって、空に接近できるのだ。どこまでも空は難解だ。 

 Wikipediaの無神論の項目を見た。仏教は宗教学の類型では無神的宗教と呼ばれ、無神論とされることが多い。フォイエルバッハやフロイトのように神を人間の発明とする考え方は、仏教に通じるとされる。ショーペンハウアーは仏教を「完璧」と言ったことがあり、エンゲルスも部分的ではあるが仏教の空を評価した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする