玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

ノーベル賞根岸氏が居た

2010年10月29日 | ねったぼのつぶやき

 急に寒くなって暖房すべく昨夜深夜電力のスイッチを入れた。我家の暖房はそれ専用で輻射(放射)熱を利用するらしい。熱源や火の露出はなく手や物が触れてもやけどせず、空気汚染ゼロで喚起も不要だ。もうすぐ文化の日がやってくる。例年この日は秋晴れで天空は高く聳えている。そして晴れて文化勲章や功労賞が顕彰される。今年も例年のように晴れ渡ってくれるだろうか?

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 過日娘とSkypeしていたら「私の会社で働いていた人が今度ノーベル賞をもらったの!」という。彼女はこの8月から「テイジン化成アメリカKK」に派遣として勤め始め、正社員になったばかりだ。何時頃の話か聞いてもハッキリせず、最近じゃないらしいわと。化学者の根岸氏はズーット在米でいらしたからそんな時代もあったのだろう。

 娘の米国での生活も3年目になりどうやら落ち着く兆しを見せ始めた。2年前の初夏に渡米し、同年の秋リーマンショックに見舞われた。不況の波に飲み込まれ引越し・転居も余儀なくされた。今夏子供は保育園を、両親は正職を得て見通しがついたわと安堵して言う。時差の関係でSkypeに写し出される風景はいつも夕食時間。皿数の少ない食卓に”もっと豊かにしてよ”といえば”こっちではいい方よ”と返ってくるのだが。私は一人ジレル。子供達の味覚を耕さなくちゃ・・・とカレンダーをめくる。

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*羽村取水口

2010年10月25日 | 玉川上水の四季

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 野外プログラムが中心の公民館講座「玉川上水の再発見」は隔週の土曜5回開かれる。2回目である23日は絶好の行楽日和だった。江戸市中の水道のために武蔵野台地を開鑿して多摩川の水を呼びこんだのが玉川上水である。その取入れ口が羽村市にある。市の小型バスに27名が乗り込んだ。羽村まで約1時間かかる。まず多摩川右岸にある羽村市郷土博物館を見学した。館長の説明を聞きながら、館内に復元された江戸時代の実物大の木造の水門などを見る。江戸市中に埋められていて最近掘り出されたという木樋(水道管)とそれらを接続して途中に設けられていた枡も展示されている。

 講座に参加したから私はこの博物館を訪ねることができたと思う。博物館では改訂版玉川上水散歩マップという小冊子を販売していた。羽村の取水口から杉並区の井の頭線久我山駅近くまで約30キロの玉川上水イラストマップである。博物館を出て羽村堰下橋(人道橋)を渡りいよいよ左岸の取水口に向かう。水門近くは玉川兄弟像のある公園になっている。オープンギャラリーの鈴木忠司さんも今日は私と同じ一人の参加者である。そして鈴木さんはつぎの3回目の多摩湖見学の講師でもある。鈴木さんは昼食休憩時には公園下にクルミの木を見つけてクルミの収穫に励まれていたようだ。私達は集合時間まで堰と水門を見学する。水は堰から水門(取水口)に誘導される。堰は固定堰と投渡(なげわたし)堰で造られている。

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 投渡堰とは大雨で多摩川が増水して堰や水門への負担が増大した時のためのものである。桁受け丸太を折り、ピンを外して堰を支えていた丸太や木の枝などすべてが流れ去るようにしてある。左岸寄りの第1投渡堰から払われる。水位の変化を見ながら第2堰や第3堰も払う。その先に固定堰がある。後に水位が下がれば再び堰を構築(仕付け)する。1つの堰の仕付け費用は約100万円。仕付けは専門業者が担当している。第一水門で取り入れた水はすぐ第二水門で水量調節されて余分な水は多摩川本流に戻される。最近まで板を抜き差しして水量を手動で調節していた第二水門だが8年前に電動式になった。私達は再び集合して少し下流の第三水門に向かう。この水門からは地下の導水路を経て約9キロ離れた多摩湖・狭山湖に送られている。ただし東京の水道は多摩川水系は2割ほどで8割は利根川水系でまかなわれているという。

 つぎの私達の目的地は取水口から2キロ下流にある1822年創業の田村酒造である。田村家は代々この地の名主を務めた旧家で9代目田村勘次郎の代に井戸を掘りあて、あまりの水のよさにこの井戸を「嘉泉」と名付け、酒造りを創めたとされる。井戸のそばには巨大なケヤキの木が4本も聳えていた。酒蔵には甘い香りが立ち込めてこれからまもなく後の試飲会に期待がふくらむ。1867年には玉川上水から田村家邸内への分水が許可された。その田村家の取水口からはかつての水車小屋跡を通り、今でも邸内に清流が流れ込んでいる。待ちかねた試飲会で出されたのは井戸水と特別本醸造の嘉泉と純米吟醸の嘉泉である。酒蔵の案内人はその昔に蔵ではダルマストーブで酒粕をあぶって肴としてふるまっていたことがあるという話をしていた。私はこの試飲会のためにあらかじめ肴を持参すべきだったと悔やんだ。

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捕虜収容所集団脱走事件

2010年10月21日 | ねったぼのつぶやき

 '44年8月5日、真冬のオーストラリア(カウラー当時人口3500人)の、月の明るい凍てつく深夜、計画に従い1000人余の日本軍の捕虜収容所で”突撃ラッパ”が鳴り響いた。「デテクルテキヲ、ミナミナコロセ!」と教えられた響きだ。収容されていた大部分は、南洋諸島からジリジリと敗退せざるを得ず物量・病気・飢え・ジャングルでの死線を彷徨った兵士や、戦艦や輸送船から投げ出され・撃沈され米軍に救助された兵士達だった。何の情報もは入らない中、日本政府や軍の立場から「捕虜はあってはならぬ・ありえぬこと」で、公式には認められなかった人達である。

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 適性国人の抑留施設から捕虜収容に変わった施設は、イタリア人(ドイツの連合軍として参戦)や日本領下の朝鮮・台湾人もいた。カウラの中心から南西へ3・2キロ。夜間は明るい照明に照らされ、3重の鉄条網で囲われ、周囲は無人地帯が設けられていた。明るく楽しげに捕虜生活を送る伊人(同じ白人社会で地域に溶込み、男手不足の農業を手伝いワインを楽しみノドを披露など)とは反対に、「捕虜は恥」と教え込まれていた日本兵は恥辱から逃れるため偽名を使い、もう一度脱走して国に忠義を誓い、死に場所を得たいとして命令には反抗的で鬱屈していた。収容所の過密もあって日本人を分断しようとなった。家族一体意識があった軍はそれに強く反発し、かねての脱走計画に火がつき、トイレットペーパーに丸印をつける形で評決され(下記の証言者)挙行された。目標は’強硬脱出’のみ。その後は一切計画されてなかた。そして9日後には半数の死・負傷者を出して制圧された。

 ’64年未だ反日感情の残るなか日本人墓地は本格的に整備された。オーストラリア各地で亡くなった日本人と合わせ522名が葬られ、順次桜の植樹や日本庭園等も造られた。桜の花が咲く10月には慰霊祭が行われる。その後歌われるという「ヤシの実」を前回の会合の最後にかっての留学生が独唱し、収容所でハンセン氏病と診断され隔離部屋に入っていたため難を逃れたという方(帰国後・長島のハンセン棟に居住)の姿もお見受けした。以下は、ある他校の女子高生達が取り組んだ関連記事である。:http://www.sanyogakuen.net/cowra/index.html

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*玉川上水の再発見

2010年10月18日 | 玉川上水の四季

 今朝の新聞一面の見出しは「官民で水事業ファンド」だった。「水ビジネス」についてつぎのように解説していた。浄水設備の製造や上下水道の敷設、完成後の事業運営など様々な水道関連事業を指す。こうした事業を一貫して手がける会社は水メジャーと呼ばれ、仏のベオリアとスエズの2社が有名だ。民営化された水市場は給水人口ベースで8億人とされ、うち2億人以上を2社が占める。こちらは古い話になるが神田上水は江戸時代に江戸に設けられた上水道で日本の都市水道の嚆矢である。その神田上水とともに二大上水と呼ばれるのが玉川上水である。

 だいぶ前になるが我家の訪問客に近くの玉川上水についての質問を受けながら私は十分な説明ができなかった。最近になって時間的余裕ができたこともあって私の玉川上水の学習が始まった。そして思い出したのが息子が中学3年の時にまとめた「生き返るか玉川上水」と題した自由研究レポートである。上京していた亡き父がレポート作成に協力的で実地調査に出かける二人の姿などが思い出される。24年前の清流復活の年でマスコミも大きく取り上げていた。息子のレポートが掲載されている冊子をあらためて読み直してみた。これをきちんと読んでいれば私はかつての訪問客の質問に答えることができていたと反省している。

 人口の増加にしたがい貯えることをしない給水方式は見直され、多摩湖(村山貯水池)狭山湖(山口貯水池)や小河内ダムなどが造られていく。新宿副都心計画で淀橋浄水場が廃止され、昭和40年に小平監視所より下流への通水が停止された。小平監視所は我家から3キロほど上流にあり昭和38年に完成した。そこから12キロ上流の羽村の取水口までの区間は現在でも満々と多摩川の水が昔のままに流れている。多摩川の水はこの小平監視所でごみ処理されて水道の原水としてここから直径2mの送水管で東村山浄水場に送られている。空堀になった小平監視所より下流に地域住民の要望により再び水が流れたのは21年後である。これがいわゆる清流復活である。

 ここに流れている水は下水処理水である。当初は悪臭もあったがそれはさすがに改善された。しかし処理水はどうしても水温が高く生息できない生物もいるはずである。処理水に多摩川の原水を混ぜて水温を下げられないかという議論もあるが、利根川水系に多く依存している東京都が「ただ流すだけ」に多摩川の水を使うわけにはいかないということだ。玉川上水を管理するのは東京都である。環境局、水道局、教育庁、建設局である。教育庁は上水に生育する桜並木の育成、保護施策を担当する。水道局は今年から10カ年整備活用計画なるものを開始する。これは野草などのためのこもれび確保や日照障害世帯に対する対策としての高木の伐採が主な事業のようだ。

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交換留学制40周年記念

2010年10月15日 | ねったぼのつぶやき

 前回出席したのは30周年で、留学生やその父兄及び受け入れ家庭としてだった。今回のカウラ会は一まわり膨らんで、雨天にも関わらず明治記念館の一室は賑わった。オーストラリアからの訪日者を始め、新旧を含む沢山の留学生や受け入れ家庭、関係者など150名による立食パーティは大盛況だった。

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 この制度はオーストラリアの小さな町(カウラ)に捕虜収容所が作られ、収容されていた日本人が集団脱走を図ったことが発端だと言う。カウラの高校と日本のさる私立高校間が平和を祈念して、'70年から各1名の留学生を相互に交換することになった。その日本の私立高校に娘が入学したこともあり我家もカウラからの留学生を受け入れた事がある。その後その制度に娘が応募したのは高校3年の時で、半年後私と息子も訪豪し、季節が逆の「真夏のクリスマス」等2週間の田園生活を満喫した。(関係者を含む新旧留学生)

 会合には若人から関係者の年配者までいた。10年ぶりに頂いた招待状に私は一人で出席したのだが、娘の年代の前後で私も見知っていた学生達は働き盛りになっていて、頂いた名刺からその活躍ぶりが読み取れた。先輩格でいらしたご父兄や関係者には体調不良風も散見された。発足の由来となった「決死のカウラ捕虜収容所集団脱走事件」は、戦時下では、’あってはならぬ(捕虜)・ありえぬ事’で公表されなかった。次回は当時の日本人ならば起こり得た(外国人には理解し難い)集団脱走事件に触れてみたい。

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*玉川上水のヤマガラ

2010年10月12日 | 玉川上水の四季

 公民館が主催するサタデー講座「玉川上水の再発見」の初回は10月9日だった。講師は鈴木忠司さんほかのナラミースタッフとある。このたびナラミースタッフの正体を知ることができた。近くにある小平四小はコミュニティースクール推進授業研究指定校になっている。地域住民の参加で創る授業、例えば6年生には津田塾大学と連携した英語の授業が行われている。4年生には鳥や虫や魚や植物などの玉川上水ウオッチングの授業がある。それを担当しているのがナラミースタッフだった。コナラの実からその名が付いたという。私が受講する公民館の6回のサタデー講座もその中から6人が出て分担して行うのだという。

 10月8日から22日までは二十四節気の寒露である。鈴木さんのオープンギャラリー友の会が開かれる10日の日曜の予報は午前中雨だった。しかし雨は早めに上がり空は急速に明るくなった。こんな時はオープンギャラリーに誰よりも近くに住んでいることを私はありがたく思う。ひょっとすると今日は中止かもしれないと思いながら出かけた。節気に一度の友の会だが前々回は私は鹿児島に居て不参加で、前回は鈴木さんの都合で中止だったから久しぶりである。鈴木さんは予報は3時間ずれるものだと言いつつこの日数少ない参加者をにこやかに迎えた。

 ギャラリーに掲示されている鈴木さんの「寒露の唄」はつぎの通りである。「キンモクセイが咲いた グリーンロード歩こうよ 柿が色づいたね ホトトギスも咲いた 独活(うど)の花見たかい フジバカマ残っているかな ジョウビタキ来たね 歩こうよゆっくり歩こうよ」 永年この地域を観察した蓄積をもとにタイムリーにその季節のポイントに私達を導いてくれる。この日のミニ観察は玉川上水を少し離れた住宅地のキンモクセイ、広がる畑に舞い降りるモズ、秋の七草のフジバカマ、帯状に続く玉川上水の中にあるエゴの木に飛来するヤマガラであった。住宅地を歩きながら今は空堀になっている砂川分水の存在にも気付かされた。その空堀の横にフジバカマが自生していた。自生するフジバカマは珍しい。モズの姿を目撃できなかったことだけがこの日の心残りだった。

 ヤマガラは体の大きさはスズメぐらいで繁殖期には主に昆虫を食べるが、秋と冬にはエゴの木の実などをよく食べる。エゴの木は落葉小高木で夏は白い花を落としその真下一面が白く染まるのでその存在を誰もが気付きやすい。花のあとエゴの木の実にはゾウムシが入り込むことが多い。エゴの木の実にゾウムシの開けた1ミリ程の小さな穴を観察することができる。ヤマガラは秋にエゴの木の実などを隠しておき、冬から春にかけてそれを取り出して食べる習性がある。鈴木さんは玉川上水でもエゴの木の多い場所に私達を案内してヤマガラの飛来を待った。ほとんど待つ間もなく鳴き声と共にヤマガラはその姿を見せた。ヤマガラは人によく馴れ昔から飼い鳥として親しまれた。よく知られているのが「おみくじ引き」の芸である。私の幼いころの記憶にもあるが鳥籠から出たヤマガラが模型の神社の扉を開け、おみくじを引いて戻ってくるのだ。社会のようすは大きく変わり、いつの間にかその芸が見られなくなった。

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あの人はどうしている?

2010年10月07日 | ねったぼのつぶやき

 この所ディサービスは、静かで穏やかな雰囲気が漂っている。それはさる利用者様が施設入所のための入所体験をなさったからだ。しかしそれと気付く利用者さんは多くはない。体験という通り、決定ではなく試みに過ぎず、ダメだったということもあり得るのだ。

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 体験入所前、先方の職員がコチラに面談に見えた。職員が生活全般にどのように対処しているかにヒントを得る為で、本人(強度の痴ほう症)との対面はなかった。面談に当たった者としてはどんなケースの場合お断りされるのか聞きたくて質問を返した。体験入所時の報告をありのまま家族にし、お互いの了解の基に決定するという当然な答えだった。

 一週間後入所決定の短い報告が家人からあった。この4~5年、週の前・後半に分けて子供2人が泊まりがけでいらしていた。体験中、大混乱を来しているという報告に家人が躊躇うのではと懸念されたが、我々同様お子さん達も限界に達していたのだろう。自宅の鍵と連絡帳の他は何も入っていない手提げを5分おきに開いては「何時に帰るのか? 連絡帳がない。意味のある事をさせろ!」と主張し、食事の最中ですらそれは繰り返されていた。いつもヘアーカットや爪切りは何とか声かけして私がやっていたのだが「イイノッ! 自分でやれるんだからッ! ホットイテッ!」と最後は怒声を上げていらした。このセリフは相手との関係を断ち切る常套句であった・・が。

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*短歌と数式と囲碁

2010年10月04日 | 捨て猫の独り言

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 今日の新聞歌壇でつぎの歌が目に止まった。「何よりもすなおな人になりたいと短歌をつくり数式を解く」選評に「短歌をつくり だけならありきたりだが、数式を解く まで述べたことで決意に厚みが出た。短歌と数式。意外に相性のよい組み合わせかもしれない」とあった。投稿者も選者も女性である。最近は大人たちの間で数学がブームになりつつあるという話を聞く。投稿者は若者か大人か幅広く想像しなければならない。

 一つのことに憑かれてそのことだけに没頭したいと願うこともあるが日々の生活にまぎれて思いは拡散してしまう。私はこれまで何事にも飽きやすくて長続きしないということを繰り返して生きてきたような気がする。つい最近でも小倉百人一首に関心を寄せたりしたが今ではそのうちの一首たりとも覚えてはいない。その前には現代短歌を一日一首覚えようと考えたこともあったがそれもその時だけのことだった。NHKテレビで日めくり万葉集という5分の番組がある。08年1月に始まりこの10月1日は第365回である。一週間分の5本まとめて再放送している。これまで放送されたうちの2割に満たない回数分を録画して、時々見ていた。そして気まぐれにもその番組の録画を再開するよう今日セットした。

 内蔵のハードディスク(HDD)では22時間録画可能である。日めくりの他には15分番組NHK囲碁講座「攻めの構想小林流」を録画し、これはめずらしく繰り返し見て活用している。4月から9月までの週1回の放送だった。一流棋士が自分の実戦例を示しながらプロの感覚について解説したものだ。ひと頃囲碁のことでは詰め碁の古書を解こうと決意したがこれも長続きしなかった。辛抱が足りずにすぐ解答をみてしまうのが私がなかなか進歩しない最大の原因である。これを深く反省しあらためて挑戦しようと思っている。

 完全退職した私を案じてくださる方もおられる。心配ご無用である。ただいまこの瞬間つぎのように決意した。数学の大学入試問題を解く。詰め碁の問題を解く。私には十分な時間があるので解答を見ずに何日も考え抜くこと。この掟を守れるかどうかである。これらには答えがあるだけに解に辿り着いたときの充実感は大きい。ところで一方この世には解のない問題もある。「私にとって自分が存在しているということ以上の神秘はあり得ない。本当の神秘とは一輪の花が咲くことであり、地球が廻っていることであり、我々が生まれて死ぬことである」という存在の問題だ。

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村上「アンダーグラウンド」

2010年10月02日 | ねったぼのつぶやき

 熱過ぎる夏が終わりイキナリ涼しい秋が到来した。そこそこ家の周りも片付いた昼下がりの午後、図書館の書架の前を行きつ戻りつする。メリハリの利いた読みやすい著者の一冊を片手に「さ~て次は何にしようか」と思案するのは、映画館の前で数ある中のどれにしようと惑うのに似た楽しみの一つといえよう。

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 解説に「1995年夏米国生活を終え、新しい生活を初めて私は今何を書くべきか思案していた。さる雑誌の投書(夫がサリンの被害に会い当初は会社もそれなりに遇してくれていたが、日々が重なるにつれ冷たくなり退職を余儀なくされた)を読んでいた。そういった理不尽さ迄引き起こしたサリンに関する’ノンフイクション物’を書きたかった」とあった。世界的に認知されている著者の新分野でもあった。

 それは’95年3月20日、オカルト集団オウムによって、地下鉄5線で揮発性の神経ガスサリンが同時多発的にバラ播かれ死者13名、負傷者6300名を出した事件である。700頁に及ぶその本は翌年一年がかりで被害者60名にインタビューを求め、各章の前にその方の職業や面談での印象を記してある。今半ばであるが、紙上では未逮捕の3容疑者に公費懸賞金が懸けられたニュースと、松本サリン事件で容疑者視された河野善行氏が奥様の3回忌を済ませ鹿児島に移住とあった。「大好きな海に囲まれ、趣味の釣りと写真に打ち込み、講演で知り合った人達と芋焼酎を酌み交わしている」という。

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