玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

学校に遊に来ませんか

2008年02月29日 | ねったぼのつぶやき

 週2回水、金の10時~11時はエアロビクスは最優先事項として参加している。水は仕事と重なるのだが、終了後OKで散歩してき来た方々とここで合流する。退職後の就労でも「若くていいわねぇ~。私達もそんな時があったのよ」と常々彼女らは言っている。

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 ある日何時ものように心地よい汗を流し外へ出た。「郊外学習」と書かれた腕章を巻いた小学3~4年と思しきグループが近寄ってきた。「学校に遊びに来ませんか?」「何かやるの?」「ゲーム等します」と口々に答えるが今一つハッキリしない。「何の学習?」の問いに「老人達と遊ぶのです」と返って来た。ハーモニカと重複するので「解った。時間が取れたら行くね」と返事した。(旅先の内庭)

 自転車をこぎながら一人笑いした。確かに彼らにとってはお婆さんだ。私にもその年頃の孫がおり「おばあちゃま」と呼ばれてもいる。しかし私にとってその呼称は少なくとも80代でしかもお婆さんなんて呼びかけは出来やしない。氏名不明の場合は奥様だ。紙面にすらみかける老女呼ばわり(60代前半だったり)。私の感覚は日本の常識ではと思うのですが・・?

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*視力減退

2008年02月26日 | 捨て猫の独り言

 近くの農家で手に入れて移植した若木の沈丁花がこの春に開花するかどうか気になっている。うかうか毎日が過ぎる。まだまだ酒を飲める体であることには感謝している。週末の子守りは続いている。その子守りで振り回され、その結果疲れてしまうのはもともと覚悟の上である。そして振り向けば机の上には読まれることなくそのままになっている本が数多くある。 

 3年ほど前に白内障の手術をした。順番は軽度の緑内障がある右目が先であった。とくに悪い所もなかった左目は手術後のトラブルもない。しかし右目は炎症が治まらず今でも通院している。眼圧が高くなるのを警戒している。右目の手術をした医者は転院して、左目は別の医者だった。かすかな疑念が残るが追求はしない。今の状態をあるがままに引き受けるしかないと思っている。

 細菌を殺す。炎症を抑える。眼圧を下げる。眼の瞳孔を広げる。緑内障のためという五種類の目薬が処方される。それらを一日に2回点眼する.右目は常に病的な重さを感じてうとましい。教室ではもちろん拡大鏡を使えない。頼りの左目でプリントの文字を追う。それもかすんで見えると内心穏やかでなくなる。

 さすがにパソコンに向かう時には拡大鏡は使わない。文庫本のときは拡大鏡があるとはるかに楽だ。その拡大鏡も持ち続けると手首が硬直して痛くなる。自分の視力の衰えを感じる時に版画家の棟方志功の製作中の姿を思い浮かべることがある。残されたかすかな視力の中で木版に顔を擦りつけるようにして彫っていた。青森市に生まれ72年間生きたという。

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年金特別便・私の場合

2008年02月22日 | ねったぼのつぶやき

 デタラメ年金。株価暴落。毒混入餃子。イージス艦。道路特定財源と喧しい。そして確定申告の時期が来て、「年金特別便」が届いた。ソレもコレも放っておいたが重い腰を上げてヤット手を付けた。

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 事務方に任せきりでいたので今回初めてヨクヨク調べた。卒業以来厚生年金をかけ、休職の5~6年は国民年金で繋いだ。やっぱりミスはあった。30才で再就職した一年分、前納の国民年金と厚生年金がダブっていて私手持ちの年金手帳は検印が残り、特別便はカットされていたのだ。(写真は京都の路地)

 その処理法でもめた。重複分をソックリ支払うので来いという。「付加年金にして目一杯かけとくのよ」、という母の助言に従って当時目一杯掛けはしたもの「33年前の10240円」を受け取りに1日かける?冗談じゃない!「33年前の金額で!」に怒っているのに当方のミスだから出向いて来い!とは・・。アホらしくて行けないと伝えたら検印記録を郵送すればいいとなった。母が煩くてバスを乗り継ぎ子供を負って町役場へ行ったのを思い出す。最初の土地を求め全額300万円を払うのにローンを組んだ年で、ウドン一杯が100円もしなかった。

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*言葉が体に入る

2008年02月19日 | 捨て猫の独り言

 ロングセラーのひとつ 「とこちゃんはどこ」 という絵本の贈り物が届いた。子育ての時期に福音館書店にはお世話になった。懐かしくそれを手にした。松岡享子さく加古里子え初版は1970年だ。別の日ある人に勧められアメリカの絵本作家エリック・カールの 「パパ、お月さまとって」(偕成社) を購入した。日本での初版は1986年というからこれまで知らずにいたわけだ。コラージュ(貼り付け)の絵本ということである。それらの絵本は子守の時に一緒に楽しんでいる。

 保育園に通う一歳9ヶ月の女の子を子守する。言葉らしくなった言葉を話すようになった。散歩から帰って玄関に入ると聞き取れないぐらいの声で 「ただいま」 と言っている。部屋に入って 「あったかいね」 と言う。大人びた言葉に驚く。そして推理した。保育園でもお散歩があるだろう。その時の保育士さんの言葉を思い出したのだろう。零歳からの集団保育は親子にとってありがたいことだと思う。

 車が踏み切りにさしかかり遮断機が降りる。列車が轟音と共に通過する。遮断機が上がった瞬間に車内で幼子の口から 「はいどうぞ」 と思いがけない言葉が出た。その絶妙のタイミングに周囲がなごむ。「いらない」 と言う言葉は完全にマスターしたようだ。嫌いな食べ物とかお腹一杯と言う時に必要だ。「イヤだ」 「ダメ」 の代わりにきっぱりと 「ノー」 を使うところは父親直伝だろう。

 母親と赤ちゃんがやって来た。ベビーキャリアーを持ち込む。それをじじの私が受け取る。泣きの形相で 「ノー」 と言う。赤ちゃんも泣いている。しばらくもめた後で 「はいどうぞ」 と赤ちゃんをのぞきこむ。小さい心にすでに葛藤が生じている。当然のことながら幼子にとって保護者を所有する欲はかなり強烈である。

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「芸術的な手術だった」

2008年02月15日 | ねったぼのつぶやき

 案じていた術後翌日の電話はソウ告げ感動したと言った。予定通りキッカリ8時間で終わったという。プレート(骨折した骨を固定する金属製棒or板)2本、スクリュー(骨とプレートを固定するねじ釘)数本、自家骨(腰骨)、人工骨も埋め縫合後はギブスシーネ(ギブスで作った受け皿様ギブス)で固定したと言う。

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 「隋内釘(骨の芯に差し込んであった金属棒)は、無事(再骨折を引き起こす可能性もあり1、5時間かけ)に抜けた。過剰な増殖(骨折端は再生に向けて血管、骨、肉芽が増殖する)があって一部を切ったので手の長さの左右は止むなし。神経マヒは必発といわれたが動かせる」と言った。この難手術は学会発表物とさるDrは言った由(ヤッパリ)。今後はリハビリとの戦いだ。

 職場の責任者としての責務。自分を何よりの頼みとしている老いた両親。受験期を迎えている子供達。彼女はその真っ只中にあって1つの山を越した。かって同様に遥か彼方で病の床にある老親に心馳せながら、年に何度か帰省して届かぬ介護に心を痛めた数年が胸を過ったが、このニュースは私の心をホットにしてくれた。

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*二つの裁判

2008年02月12日 | 捨て猫の独り言

 99年4月に起きた光市母子殺害事件と06年8月に起きた福岡3児死亡事件については多くの人々の知るところとなっている。前者は差し戻し控訴審で21人の弁護団の結成や、今回大阪府知事に当選した橋下弁護士がその弁護団に対する懲戒請求を勧めたテレビ発言問題などがある。後者は危険運転致死罪のハードルの高さや、同乗者不起訴は不当と検察審議会に被害者から申し立てがなされたことなどが話題になる。

 このような刑事裁判のことでまず一番に思うことは被害者側の深い徒労感のことである。多くの時間と費用をかけなければならない。起きてしまった罪に対して罰が決定される。その手続きが裁判だといえる。しかし肝腎なことは被告人自身の犯した罪に対する深い反省である。それがなければ裁判の意味がない。二つの裁判とも被告人が人として考え抜いた反省をしていると思われない。被告人には迷い多き保身の考えしか見えてこない。

 いかなる被告人もその利益を守るために弁護人がつく。弁護人が守るべき利益とは何だろう。弁護人といえどもまず被告人に罪に対する反省を求めるところから始めるべきではないか。被告人の再生が第一の目標でなければならない。裁判の意味はそこにしかない。それこそが被告人の利益ではないか。

 二つの事件に対するメディアの突出した報道ぶりから私達は被害者の生の声を聞くことができる。本村洋さんの差し戻し控訴審の意見陳述書(07年9月20日)の全文を読んだ。死刑を望むと結論しているが何よりも反省を求めている。考えに考え全存在を賭けた文章だ。この裁判に関わる者はこの文章に見合う言葉を用意しなければならない。もう一方の大上哲夫さん(かおりさん)も被告人以外の3人の謝罪(反省)を求めて起訴の申し立てを行った。その会見での表情は苦渋に満ちていた。私達はいつどんなできごとで被害者になり加害者になるかわからない。その時こそこんな言葉が必要になる。「人間には命よりも大事なものがある。それが精神だ。精神の正しさ、美しさ、その高さだ」(池田晶子・14歳からの哲学・122頁)一年後に裁判員制度が始まりますね。

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やめれない・止まらない

2008年02月08日 | ねったぼのつぶやき

 私が中毒に陥って2年目半ば。直るどころか益々深みに嵌ってゆくナンプレ。治療法は「飽きる迄やり続ける」か、「もっと魅力的な何か」を見つけ出すことしかなさそう。そんな訳で2冊目に求めた上級篇も難問111があって、9月に手を付け今70番台。1年がかりとなりそう。

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 先ず、A4サイズの丈夫な紙(封書の入った裏紙が最適)を4つ折にする。折山に従って2本の実線で4区分し、各区分を更に9等分する。この1題分のスペースに1本の実線で81ケの升目を作る。表面に4題、裏も同様にして8題分の台紙作りは完了。ここから難題8問の空欄が埋めつくされる迄、書いたり消したりを繰り返すのだ。

 問題の転記は赤マジックで。次に青ペンで数の多い素数の順に補助数(?)を探し出す。この過程にミスが生じると完答には導かれない。台紙作り、補助数探しも楽しめるが、ここからが鉛筆と消しゴムで本番。ツレアイの出勤or寝入を待っていたが、今や堂々としかも完答を求めて夢の中でも格闘してしまうしまつ。ツィに孫が真似たがり終了分に落書きさせながら・・。

 

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*リサイタル

2008年02月05日 | 捨て猫の独り言

 二種類の月刊誌が学校の図書室にプールされる。注文者は退職した教師である。その代金を私が立て替えて外に運び出す。何ヶ月かに一度は出向いて受け取るつもりだったものがなぜだか学校に足が向かなくなった。どうも最近は自閉気味と本気とも冗談とも取れるようなことを言う。何だかんだと二人してたまに会って飲むための口実になっている。

 土曜の午後のハープリサイタルの券が手に入った。ブツはその時に受け取りたい。埼玉の所沢市民文化センターのコーヒー店で待つという。こんな気の利いた仕掛けを用意するところなど私には真似ができない。前回初めての音楽会はブツの引渡しはなく駅改札で待ち合わせた。当日は冷え込んで風も舞っていたがあまり気にならない。

 演奏者の吉野直子さんの名は初めて聞く。ハープの独奏会というのも珍しいことだ。人類が手にした最も古い楽器の一つだという。こんな時間を持つことなど他者からの働きかけがない限り私が経験することはなかったろう。ギリシャ風の髪型をした色白の美しい女性がハープを自分の身体に斜めに引き寄せながら格闘している姿は神々しい。

 会場の駅近くに居酒屋がある。5時からの1時間だけは料金が半額である。その時間帯はいつも活気に満ちている。実は娘が高校3年生の時に彼の倫理社会の授業を受けている。私の娘には2人の子供がいる。そしてその子供は2つの国籍を持ちパスポートはそれぞれの国が発行する2つを取得できる。日本のように蛸壺社会でないのは好いねと言う。市民運動の少人数の集会にも黙々と参加している。一人一人の自立が大事が口癖だ。池田晶子の名を出したが意外にも反応が鈍かった。翌日の節分の日は関東平野は珍しい大雪になった。 

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