玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

方言メールの味わい

2005年08月28日 | ねったぼのつぶやき
 台風一過も厳しい残暑が続きます。MLのお一人からメールが発信されたことがキッカケでした。同じ首都圏に住んでいても、雨が知らぬ間に通り過ぎてしまったようだという人がいるかと思えば、自分の家の上を台風が通過して?丹精こめた畑が台無しだと嘆いている方もいらしゃるようです。

 そして次に記されている文言は、決まって被害を蒙った方に対して「~さんを慰める会」であり、無事であればあったで「~を喜ぶ会」であり、要は一杯飲みましょうやの枕詞としてだしにつかわれるのがおちといった所でしょうか?

 畑の被害の状況報告が発せられたら、次には落下物のおこぼれにありつけないかの打診が入り、つづいて慰める会のお誘いがかかり、同窓会の日時設定にいたる都合不都合などメールはほぼ全て方言のままで往来し公開されるのです。名だたる方言、しかも超難解とされる「鹿児島弁」ですから、同郷者には、被害の状況やいわゆるビミョウなニュアンスまで、しかも可笑しみを伴っ伝わってくるから不思議なものです。他の県の方にはこの醍醐味はなかなか説明しにくいものです。

 考えてみればこの長い60年の内、たった3年間共に同じ校舎で過ごしたことが今になってこうも大きな結束力を生むとは不思議な気がします。とりわけ私たちは敗戦前年に生を受け、敗戦後の復興とともに歩いてきたことになります。特殊な時代背景のなかで育ってきたといった親近感のなせる業でしょうか?このところ、同窓会のお誘いがあれば一も二もなく出かけて行って皆さんにお会いしたくなります。自由な時間が多く取れるようになったせいもありますが、そればかりでもなさそう。兎も角お会いしてまた元気をたくさん貰いたいと思うのです。



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演説は失敗した

2005年08月26日 | 捨て猫の独り言
相変わらず眼が不自由だが8月に2冊の本を読んだ。最近にはないことだ。そのうちの一つはTBSブルタニカ「戦争の記憶―日本人とドイツ人」イアン・ブルマ(1951年オランダ生まれ)著である。

1988年11月10日ドイツ連邦議会のイェニンガ―議長は「クリスタルナハト」50周年の追悼演説を行った。イェニンガー議長は1942年のユダヤ人大量虐殺の目撃者証言を引用した。血を流してからだをひくつかせる赤ん坊、裸の母親たち、くわえ煙草で銃を撃つ若い処刑者たちーすべてが微に入り細にわたって、感情のこもらない平板な口調でこれでもかこれでもかと語られた。イェニンガ―はヒムラーの言葉も引用した。百人、五百人、一千人の死体を前にしてさえ、たじろいではならないと親衛隊に説教したエピソードが紹介された。またイェニンガ―はユダヤ人を「社会の害虫」と呼んだたぐいの当時のナチス用語を紹介した。さらにイェニンガ―はニーチェやドストエフスキーを引用した。

演説が始まってまもなく緑の党の議員の大半が抗議の意味を込めて議場を去った。社会民主党議員も演説が終わるまでには4割は姿を消していた。イェニンガ―は蒼白な額に汗をいく筋かしたたらせてただ独りで議場をあとにした。所属政党であるキリスト教民主党の議員たちでさえ握手しようとはしなかった。二日後イェニンガ―は辞任した。ところでドイツ人がなぜあれほどまでに演説に動転したのか理解するのは容易ではない。イェニンガ―は事実を語っただけである。

イェニンガーの演説は、ヴァイツゼッカーが3年前行った有名な演説に比較された。ヴァイツゼッカ―の演説は「トラウァー(哀しみ)」にあふれていた。イェニンガ―が失敗したのは状況判断を誤って、追悼の場で「まじめに歴史を論じる演説」をしてしまったことにあるというのが大方の意見である。

同じ年日本では長崎市長の「天皇に戦争責任あり」の発言が波紋を呼び、その本島市長が右翼に背後から狙撃されて瀕死の重傷をおうという事件が起きた。著者はこの2つの事例の共通点を検討している。

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船上発信の試み

2005年08月22日 | ねったぼのつぶやき
 いよいよ迫ってきて来週末はもう出航日となりました。申し込んでから9ヶ月。ボチボチの準備からエンジンがかかり始めたのは今月になってからヤットという有様でした。

 コミニュケーションの要に位置しているのが今やPCでしょうか?かくして我がPCのアドバイザーは自分のことのように気にかけて下さり、船上からの発信法の手ほどきや、はては船会社の通信機器の確認、利用状況、利用料、通信状況まで調べて下さいました。ここまできたら何としても成功させたいとハリキッテおります。

 といった次第で、手ほどきに沿ってやってみましたところ、ゼロから始めてブログの編集画面に到達できましたので、恐らく船上からもO.Kだろうと思うのですが?・・・・ホッ!!・・・(尤も通信事情がよければの話ですがーー悪いときは繋がるのに時間がかかりすぎ料金かさむらしい)  

 ココで一つだけ訂正を。クルーズといえば、ツイ熟年カップル用の豪華客船・・・・と思われがちですが、私の今回の船旅はそれとは趣を異にしたもの。乗客役1000名弱中50%は若者です。若者が出せる金額と言えばおのずと限度があります。その他価格の相違は部屋の形態(個室か相部屋か、部屋が海洋に面しているか、いないか、バスタブ有か、シャワーのみか)と各寄港地でのオプションの選択(ここの差異は大きい)によって決定されます。

 何といっても嬉しいことは、その気になれば若者たちと大いに交流を深め、若者がもつエネルギーを沢山もらえる事です。

 ともかく捨て猫さんには少々の不便は辛抱してもらいましょう。ある人はお守りを2つ下さり、お互いに「持・ち・っ・こ」して繋ぎ合っているようにデスッテ。またある方は「捨・て・猫」から「の・ら・猫」にならないようにデスッテ。同級生の皆さんありがとう。
  

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1985年の演説

2005年08月20日 | 捨て猫の独り言
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「荒れ野の40年」といわれる、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領の演説全文を岩波ブックレットで読んだ。私は皆さんに遅れることなんと20年ということになる。彼は1984年から1994年まで2期にわたりドイツ連邦共和国の大統領であった。特に任期の後半は統一ドイツの初代大統領をつとめることになった。アメリカなどと違って大統領の権限は小さい。大統領の権威の所在が権限よりもむしろ語るべき内容をもっているか否かの演説の影響力にあるとされている。

ヴァイツゼッカーの名前を世界的に著名にしたのは任期の初め1985年5月8日に連邦議会で行った敗戦40周年を記念する演説である。彼は国家元首という立場にありながら、自国がかって犯した罪責を一つ一つ具体的にあげて反省した。その驚くべき率直さが人々の胸を打った。敬虔なプロテスタント・キリスト者としての信仰的背景を見逃すことはできない。この演説が「荒れ野の40年」と呼ばれるようになったのは、演説の終わりの箇所で旧約聖書が引き合いに出されていて、イスラエルの民は約束の地に入って新しい歴史の段階を迎えるまで40年間荒れ野にとどまらねばならないとあることによる。

大統領就任当時の夫婦の写真をみて二人の節度ある笑顔に毛並みの良さと知性を感じて祝福したい気持ちになったのは私ばかりではあるまい。彼は1989年に昭和天皇の葬儀参列1995年に広島原爆慰霊碑に献花等で来日している。戦後60年の今年、ブックレット「〈荒れ野の40年〉以後」が出版された。写真は割烹「いろりの里」の待合室にて。

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頭の中と手先が大混乱

2005年08月16日 | ねったぼのつぶやき
必要があって電気店に出かけた。専門店なので当然のことながら地下から5~6階まで電気器具その他関連用品が溢れんばかりに陳列してあり、どのコーナーに向かって行けばいいのか戸惑うばかりに細分化されている。

 自分たちが所帯を持ち始めた頃は、冷蔵庫、ステレオなど行くべきコーナーはすぐわかった。それからウン十年、イマや電気製品は軽薄短小化やIT機器の台頭、更にはより多機能を装備して購入者に迫ってくる。機械音痴を自認する私にとっては店員さんのお世話にならなければ品定めが出来ない。そのお世話すらも反芻しなければ理解困難なこともしばしばである。

 サテそうやってヤット求めてきたものを、仕様書に沿って拡大鏡片手にアレコレ接続してみる。それらはとても大変な作業である。Simple is Best といいながもヤッパリこだわってしまうのは、より高度なものを試してみたい。ある程度時流に乗っていなければマスマス時代に遅れをとってしまう。孫たちにもついていけなくなってしまうことを恐れるせいもある。

 時間が出来たら・・・・と多くのことを後回しにしてきたツケが今大きく影響している。PCをはじめ、より多機能の付いた携帯、デジカメ、さらには昨日購入したポータブルCDプレイヤー等の使いこなし方である。ソレもコレも一気にマスターせねばならなくなったのは長期船旅が迫っているせいであるが、頭の中と手先が大混乱を起こしてパンクしそうである。

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徴兵忌避の話

2005年08月14日 | 捨て猫の独り言
ある本のなかに、過去に私が興味深く読んだ新聞記事が取り上げられているのを見て懐かしく見入った。

俳優の三国連太郎さんは昭和18年に20歳で戦争反対運動の隅っこの方にいて捕まる。大阪の警察署に入れられて、そこに赤紙が届く。三国さんは静岡の出身で静岡に戻ってそこから兵隊になる。しかし大阪駅まで来て、三国さんは逃げようと思う。自分は人を殺したくないし、殺されたくもない。徴兵忌避をやろうと貨物列車に乗って西へ向かい、山口県の小郡まで来た時に母親に手紙を書く。「自分は迷惑をかけるかもしれないけれども逃げる。朝鮮に渡り、最後は中国に行くつもり」と。そして佐賀県の唐津まで来て船を捜しているうちに捕まってしまう。さすが三国さんで、そのとき女性連れだったという。なぜか拷問などなく静岡に連れていかれて兵隊に行く。そこに母親が最後の面会に来て 「いろいろたいへんだろうけれども、お国のために・・・・・・・・・」というようなことを言う。母親が憲兵隊に手紙を見せたんだなと思う。

しかし幸い生きて帰ってきた。そのあと下積み時代を経ていよいよ俳優として売れるようになってから両親がつぎつぎつぎと亡くなる。父親という人は代々棺桶作りの職人で差別を一身に受けながらそれに負けなかった。三国さんは「チチキトク」というときには、取るものもとりあえず帰った。「ハハキトク」というときにはなぜかすぐに帰る気になれず「ハハシス」というのを受け取って帰る。そして母親の遺体の入った柩を抱きかかえたときに背筋をゾーッと冷たいものが走った。そのとき三国さんは、ああ自分は自分を国に売った母親をどこかで許していなかったんだなと思う。しかしあのころ息子を国に売らなかった母親はいない。

このインタビューで三国さんが言いたかったことは、反戦というよりも親子の関係の在り方ではなかったか。親は子が自立したならば一個の人格として尊重すべきである。親としてこれを実践することは意外と難しい。また最近は、子としてマザコンと言う言葉がある我が風土である。三国さんは、母親に 「あなたの人生だから、自分の考え通りに生きなさい」と言って欲しかったのではなかったか。

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夏の再会

2005年08月13日 | 捨て猫の独り言
2年続けて7月末に鹿児島に帰った。両親のいる鹿児島市内には弟と下の妹が所帯を構えている。妹は自営業なので忙しい。弟は公務員だ。帰省のたびに弟には世話になる。滞在中のある一日を車で案内してくれる。今年は弟家族の手づくりのカヤックに乗せてもらった。まず弟の奥さんの実家がある薩摩川内市までドライブした。そこを拠点に、介護のため神奈川に家族を残して帰っているというお姉さんをまじえた大人4人が童心に返って、唐浜の海水浴場でカヤックを漕ぎそして泳いだ。陽射し強く人影まばら。姉妹によれば子供の頃にあった松林がなくなっているという。

昨年は開聞岳のあたり知覧、山川、指宿を回った。このとき年老いた両親も一緒だった。1985年に知覧町の公費で建てられた平和会館はありふれたデザインの建物である。そこに父の戦友会は石灯篭を奉納した。父の名が刻印された灯篭を皆で探した。父はあの戦争のことを話すときは几帳面に事実のみを淡々と話す。なぜか私は平和会館の展示の有り様についてこれまでに父と議論したことはない。

平和会館は壁に特攻隊員の顔写真そして手紙と日記の遺品が展示の核になっている。若さゆえに虚勢をはるのはありがちなことだ。若い男は華々しい死をロマンチックにみがちなものである。彼らは自らの死を喜ぶように育てられた。若々しい理想主義が逆手にとられ無駄な企てに動員された。特攻攻撃は全くの命の無駄遣いであり、戦争を長引かせる役にしか立たなかった。平和会館には無理な戦争をやった政府や軍閥への批判が抜け落ちている。自己犠牲の美化への飛躍は単なるセンチメンタリズムといわれても仕方がないのではないか。彼らの行動が平和にどう貢献したのか私にはよく理解できない。

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暑~い夏! あれこれ

2005年08月11日 | ねったぼのつぶやき
  緑道の蝉しぐれの中をスポーツバッグを肩掛けした学生や、サマースクールに通う異年齢層の人々が行き交う。一方では我が家の木々の下から舗装道路に這い出したミミズが、酷暑の日差しを受けて乾き切り遂には果ている。

 お手伝いをしているミニ職場では、広島、長崎にメンバーを派遣すべくカンパを募っており、千羽鶴折に余念がない。この暑い夏のさなかに熱射に焼かれた多くの人々のことを思うと辛い。2つの式典が終わるか終わらぬうちに国会のドタバタが挙行され、今も混沌のさなかにある。

 通勤通学時間帯の電車はすいているが、飛行場はどこも満員で人が溢れ返っている。法事に帰るべく羽田から機内に移り安全ベルトを閉めたとたん、「原因不明の停電が発生しました。乗務員の指示に従ってください」と機長からのアナウンスがあり、イヤナ気分だったが結局出発が90分のびただけで済んだ。

 法事は小さな親戚の集まりで、母のどの兄弟姉妹も既に老い、あちこちに故障を抱えたり独り身になっており車での送迎を要した。「唐湊墓地」の草刈は市の方でやり、以前まで年中行事だった土手刈りをせづに済む分は大助かりである。私もここに眠るわけではないけれど、長寿を全うできた親がココに眠ると思えば「必然の死」ゆえか死すらも身近に思う。

 さて8月も10日を過ぎた。20日から旅行カバンの集荷が始まる。最終的な荷物のチエックや長期不在中に発生する運転免許証の書き換えが残っている。昨日は外貨交換のため渋谷に出た。

 用事を済ませた序にデパート案内係のところで大人が一人でも楽しめるところはないか聞いて寄り道をした。若者の町渋谷では少ないようだが、駅を背に左手方向高速道路に平行して立つホテルの2階にあるJZ Brat。毎晩国内外を問わづ演奏している。ちなみに会計の内容はチャージ4200円プラス飲み物食事代(昨夕は〆て7580円)何十年ぶりだろうジャズの生バンドを聞いたのは。ビールを飲み、夕食をして帰り着いたのは11時前。ヤッパリ疲れタ ~。オツト・トこんな事位で疲れていてはいけない!これからが挑戦の ハジマリ~ ハジマリ~ ナノダカラ。

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湯治の宿

2005年08月02日 | 捨て猫の独り言
車は隼人町で10号線を左折して天降川(あもりがわ)沿いを北に向かい、鹿児島に古くからある湯治場を目指す。日当山(ひなたやま)、妙見、安楽、塩浸(しおひたし)のうち妙見にある湯治の宿である妙見館に投宿した。30年ほど前は町衆と、お百姓で年間を通して賑わったらしい。もちろん炊事場がある。名古屋からきて自炊しながら二ヶ月近くも滞在しているというお婆さんがいた。他にこの宿を拠点に指宿、桜島へのドライブをしているという福岡からの熟年夫婦などいたがお客はそれほど多くない。私はといえば、ともに80歳を過ぎた両親と3人で2泊3日の温泉ざんまいである。わざわざ自炊を選んだ。その方が退屈しない。

あもり川の川もを眺めながらヒノキ風呂に入る。とくに夜景は素敵だ。打たせ湯のあるもうひとつの風呂もあり、どちらもお湯が絶え間なく放出されていてもったいないと思うことしきりである。1泊1500円(部屋代のみ)冷暖房費300円、布団500円、テレビ1台300円など格安である。電話番号0995-77-2211だ。

この流域はあの坂本竜馬とお竜さんが訪れ、それは日本で初めての新婚旅行と言われている。宿から1500メートルのところに犬飼の滝がある。竜馬もこの滝を絶賛したと伝わる。高さ36メートル、幅16メートルという。滝に100メートルほど近づいた場所で滝を見上げた。水量が少なく岩と岩の狭い隙間からかすかに青空が見えて、滝はそこから2メートルの幅でゆったりと流れ落ちていた。そのときよからぬ連想がおきて一人慌てていたのがおかしい。峡谷の道には鹿児島アララギ会同人の歌が木の杭に書かれていくつか紹介されている。その中から一つだけとりあげてみたい。「轟きて流れ落ちくる犬飼の滝壺に浮く泡限りなし」滝への途中には奈良時代に道鏡によってこの大隈の地に追放された和気清麻呂が入浴したと言う和気湯がある。畳1枚ほどの小さな風呂の真ん中を岩でしきった露天風呂だ。岩床の岩の隙間からしゃぼん玉のようなお湯が湧き出ている。油膜のように見えるのはナトリウムだそうだ。通りの真ん中にあるのたが、たった一人で入浴してみた。

妙見の上流にドライブした。その昔薩摩藩が運営していた塩浸から、竜馬が姉の乙女に送った手紙には 「げにこの世の外かと思われるほどの珍しきところなり。ここに10日ほどとどまり遊び谷川の流れにて魚を釣り、ピストルをもちて鳥をうちなどまことおもしろかりし」 とある。帰路に日当山の小学校とその隣の中学校に立ち寄った。

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周遊バス

2005年08月01日 | 捨て猫の独り言
鹿児島を訪れる人にお知らせしたいことがある。中央駅(西駅)を起点として市内10箇所の観光スポットを55分かけて30分間隔で運転されているのがカゴシマシティビューである。とてもかわいいバスだ。一日に何回でも乗れて600円である。お気に入りの場所で降りて30分ないし60分見学してつぎへ移動するシステムだ。施設の入館料の割引がついている。さらに市電、市バスも乗り放題の一日乗車券である。観光以外でも利用する人が多いのではないか。観光スポットの2つほどを紹介してみよう。

中央駅のすぐ近くに西郷隆盛、大久保利通らが生まれ育った土地があり、そこに維新ふるさと館がある。音や光やロボットによる多彩な演出で幕末から維新を体感できる。

センガンエンとは仙厳園と書く。磯庭園と呼ぶ人の方が多い。桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた雄大な借景をもつ、島津家の別邸である。日本で初めて移植された孟宗竹の竹林や、曲水の庭など中国風の造園を感じさせる。島津家は幕末において製鉄、造船、紡績などの諸産業を興し、日本の近代化の原点になったといわれる。

天文館で昼食なら吾愛人(わかな)がいい。こむらさき、和田屋、くろいわのラーメン横丁の中ほどにある。黒豚とんかつ定食950円。ご飯のお椀の蓋をとると中蓋があって、そこには山川漬。甘い麦味噌のみそ汁。新鮮なお刺身を甘い刺身醤油でいただく。小鉢には季節の一品。野菜たっぷりの皿にうすくてからっと揚がった黒豚のとんかつ。ご飯はお替り自由。最後にコーヒーか、アイスクリームがつく。さて天文館から歩いて10分ほどの山形屋デパートなら安心して買い物ができる。そしてそこに行けばエレベーターガールがいまでも活躍しているのを目撃する。


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