玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

親は廃車で娘は新車

2019年12月30日 | アトランタ便り

 最近とみに高齢運転者の事故に対して世間一般の目は厳しい。そんな中、不本意ながら私自身も後期高齢者という立場に身をおくこととなった。今春までは、運転を辞める積りは毛頭なかったので車検を終えていた。それから順次、誕生日を迎えいよいよ後期高齢者という節目を迎える月が近づいてきた。肝腎の免許証、車の保険契約の切り替えの時期も近づいていた。しかも息子は、「母さん 頼むよ」という顔を向けてくる。注文の少ない息子の意向ゆえ止む無く免許更新を断念した。一方アメリカでは娘の自家用車の寿命がつき、買い替えが必要となっていた。そんな訳で先月は丸1ケ月、日本では車を手放す算段をしながらやっと終え、アメリカでは新車購入の算段をするよう娘に申し付け、アトランタにはサンタさんとしてやって来たのだった。

 私の車は購入後13年目に入ってるとはいえ、傷一つなくしかも総走行距離は3万キロメーターに過ぎない。ガタともビシともいわないのだが、売るとなると買いたたかれる。あまりの安値にウンザリして、いっそ知人に上げてしまおうと段取り迄整えていたのだが、ナンダカンダの騒ぎの中で10万円で引き取られた。簡単にフェリーで車を運べるなら、娘は喜んで乗っただろう。今夏私の大手術に立ち会った娘は娘で、「親孝行」とでも思ったのだろう。一足先に新車を購入し、空港で颯爽と私達を出迎えてくれた。私は毎年夏に訪れているのだが、夫の訪米は2度目。彼にとって娘宅の新居訪問は初めてのことで、丁度クリスマスイブの日に当たり、電飾で煌びやかに飾り付けられた街並を通り抜け暗くなって到着したのだった。

 翌日は近隣の散策を始めた。またその翌日には、遠出をして日本流にいえば片側5~6車線の高速道路に飲み込まれた。そんな中、スイスイと車線変更を繰り返しつつ娘はハンドルを裁く。私がそうであったように、夫も並行して走る大型車やタンクローリーに、はらはらしたことだろう。明後日は冬休みの家族旅行で片道6時間の長距離移動が待っている。その往復路の移動を終えたら、米国の車事情にも慣れてくるだろうか?

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*歴史

2019年12月23日 | 捨て猫の独り言

 下の●は南北戦争と人種問題をテーマに「地球の歩き方」と「アトランタビーツ」からのまとめです。話は変わりますが、マルチタレントの松尾貴史「違和感のススメ」に「人間は何をやってもストレスがかかるものですが、質の悪いストレスが蓄積してしまうと、健康は害され人格は破綻してしまいます」とありました。ここ数年で日本は随分いびつになり薄汚れてしまいました。私はこのたび、あの人の顔をテレビで見ることがない国外へ旅する幸運を得ました。逃避行にすぎませんが、リフレッシュぐらいの効用はあるでしょう。しかし辺野古のゲート前と海上で忍耐強く闘っている人たちを忘れることはありません。また台湾の総統選挙にも注目しています。なんだかんだで年末年始はブログを休みます。

 ●1861年に起きた南北戦争というのは、北部は戦争を連邦政府に対する反逆と位置付けているのに対して、南部は合衆国からの分離独立の戦争と考えていた。リンカーンの大統領在任中の期間はほとんどが南北戦争だった。リンカーンは奴隷制度の存続は各州の意志に委ねようと考えていた。リンカーンの予想に反して戦争は4年に及ぶ長期戦になった。

 ●長引いた理由の一つは南部にはロバート・リーやストンウォール・ジャックソンといった優れた指揮官が存在したことである。また戦場の多くが南部にあったことも理由の一つだ。北軍にグラント(後に第18代大統領)やシャーマンといった有能な指揮官が現れるのは戦争の後半になってからである。(ダイコンとサザンカ)

 

 ●黒人差別を撤廃しようという公民権運動のリーダーとなったキング牧師はアトランタにある教会の牧師の長男として1929年に生まれた。1955年に起きた「バスボイコット運動」で一躍有名になり、無抵抗の黒人たちが白人の暴力に耐えている姿は、多くの白人たちの良心を呼び覚ますことになった。キング牧師の生誕日は祝日になっている。個人の功績を讃えた祝日は他にコロンブスとワシントン(大統領の日)のみだ。

 ●アトランタでは1974年に初の黒人市長が誕生した。アトランタでは政治は黒人でビジネスは白人とよく言われる。アタランタジャーナル紙のマシューズ氏はつぎのように述べている。「黒人と白人は違うふたつの社会を持っているのは事実です。しかし日常生活では街で会えば知らない白人と黒人でも一緒に座り、互いに挨拶して楽しくおしゃべりする。アトランタには智恵があり、何でもよく討論してきたんです。アラバマ州のような大きな暴動はありませんでした。静かに移行していきました」

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*アトランタの街

2019年12月19日 | 捨て猫の独り言

 1996年の中山清美の著作「アトランタビーツ」にあるアトランタがその後どのような変貌を遂げたか見てこようと思う。

 ●摩天楼が並ぶダウンタウンから北へビジネス街は移り、ダウンタウン、ミッドタウン、バックヘッドと新しいビジネス地域が形成されている。郊外に向けてのこうした新しい地域にはたいてい巨大なショッビングモールが同時に建設され、職住接近の理想的な街づくりが行われている。

 ●ダウンタウンを歩くと晴れた日でも日陰になって寒い思いをする。路上に面したしゃれた小売店、レストランがあるわけではないので灰白色のコンクリートの壁沿いにとぼとぼ歩くことになる。人は郊外の住宅に引っ越してしまってダウンタウンの人口は減少している。ビジネスアワーが終わると廃墟のようになってしまうビジネス街。そこには貧しい黒人とホームレスが徘徊して麻薬取引と銃撃事件の巣窟と化してしまう。ダウンタウンの再活性化が必要とされている。

 ●アトランタを歩いてみるとピーチツリーという名前がやたら目につく。車のナンバーブレートのジョージア州のデザインにはズバリその桃が描かれている。しかし市内で目にするのは桃ではなくてハナミズキだ。ピーチツリーストリートには桃の木は一本もない。春になるとハナミズキのクリーム色やピンクの花やスイカズラ、黄色のジャスミン、そして白、赤などのアゼリアが咲き始める。街をドライブすればすぐに緑に囲まれた田園風景に出くわすことになる。

 ●日本人商工会の女性事務長はつぎのように話す。「気候が温暖ですし、四季もありますから日本とよく似ているんです。住宅環境も優れていますし、生活費、固定資産税が低いのでかなり余裕のある生活ができます。南部の人間は経済を度外視していわゆるヨソ者を暖かく受け入れてくれますから気持ちよく入ってこれるのではないでしょうか」アトランタは「サザン・ホスピタリティ」で有名という。

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*訪ねてみたい場所

2019年12月16日 | 捨て猫の独り言

 今年も友人から鹿児島銀行が発行する一枚カレンダーが郵便で届いた。写真は鹿児島湾(錦江湾)の奥にある重富漁港からの桜島だ。北岳だけが見えて鹿児島市内から見る桜島とは違う鋭角的な姿だ。早朝、山腹に低く垂れこめながらたなびく雲、一人乗りの漁船が一艘、その漁船の上を無数の海鳥たちが飛び交っている。うっすらと雪化粧しているようにも見える。はたしてどうなのか。さっそく新しいカレンダーに差し替えた。

 

 この時期のアトランタは観光客もまばらだろう。場所よりも人々のライフスタイルと態度を見てこよう。私は言葉が不自由だから娘を頼るしかないのだが。とはいうものの訪ねてみたい場所はいくつかある。まずダウンタウンにある「CNNセンター」は24時間ニュースだけを流し続けるケーブルテレビ局だ。徹底して質問を続けるCNNの記者に対してトランプ大統領が「フェイク」と言い放ち取材許可証が取り上げられるということがあった。

 同じダウンタウンに「公民権&人権センター」がある。アトランタは公民権運動の町でもある。その歴史を知るために訪れたい。公民権運動のみならず世界各地の人権問題を考える博物館だ。「国連における世界人権宣言の実現」をゴールに掲げている。

 ミッドタウンから東へ約3㎞。アトランタが火の海に包まれた際、北軍のシャーマン将軍が町を見下ろしていたという丘の上に、「ジミー・カーター・ライブラリ―」がある。農家から政治家への転身、ジョージア州知事時代、そして第39代大統領へのカーター氏のあゆみが見られる。現在ではNGO(非政府組織)として環境、貧困、軍縮、平和をテーマに、さまざまな活動を実践している。日本の造園家中根金作による日本庭園もある。

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*新年はアトランタで

2019年12月12日 | 捨て猫の独り言

 予期せぬことに、娘と孫が住むアトランタで新年を迎えることになった。一か月の滞在予定だ。成田からアトランタまでデルタ航空の直行便が毎日一便運航されている。所用時間は往路約12時間30分という。この時期の運賃は格段に安い。これが引き金になった。私は11年前に当時はノースカロライナ州のダーラムの娘を訪ねて以来二回目のアメリカだ。その時の季節は春で、のどかな田舎町の散策やデューク大学の構内を見て回ったことが記憶に残っている。

 その後まもなくして娘はアトランタに引っ越した。そこで数多く進出している日系企業に職を求め現在に至っている。二人の娘の教育に追われる毎日のようだ。その子供たちはサッカーチームで練習に参加している。異国の地で暮らす娘にはエールを送るしかない。日本に戻る気などこれっぽちもないようだ。ITの時代は世界のどこにいても、いつでも互いの消息がわかるので昔のような別離の寂しさなどとは無縁である。

 これまで毎年、孫たちは夏季休暇になると二人でやって来て6月から7月まで日本の小学校に短期留学してきた。それぞれ日本の学校に6年間お世話になり、今年で日本の友達は中学校に進んだ。日本の中学校に進む気のない二人は「また来年ね!」とあいまいな言葉を残して帰国したが、受け入れる側の体力などを考えるとここらが潮時だろうと考えている。区切りをつける時という思いが今回のアトランタ行きの理由の一つでもある。

 今回は季節は冬、しかも長期の滞在だ。冷静に考えるとアトランタでどのように暮らしたものか具体的なイメージ湧かない。車社会で車を手繰れない状況は最大の弱みだ。暖かい季節なら、まだ自分の足で歩き回ることもできる。ここは娘にならってなるようにしかならない精神でゆこうと腹をくくった。アトランタについて手がかりにした本は「地球の歩き方・アメリカ南部編」と都市ドキュメント「アトランタビーツ」だった。

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*アトランタ1996

2019年12月09日 | 捨て猫の独り言

 アトランタに関する本を図書館で一冊だけ見つけた。1996年出版の中山清美著「アトランタビーツ」である。序文に「私が生れた鹿児島県はアトランタが州都であるジョージア州と姉妹県の関係にある。そんなことはアトランタに行くまでは知らなかったのだが、同じ南ということで、なぜか親近感があった。はたしてアトランタの匂いと風土は私の感覚にぴたりとはまり、以後、何度となく出かけることになった」とある。

 この本の発行日付はアトランタ・オリンピック開会式の前日の7月18日になっている。最終章は「アトランタに祭りがやってくる」である。異色のオリンピックだったことを知り、彼と我の違いに感動を覚えた。他の章のことは後回しにして最終章を見てみる。オリンピックをアトランタに誘致したのはたった一人の元弁護士だったという。最初は頭おかしいんじゃないのと言われたそうだけど、さすがアメリカ、無から有を生んだ。

 その人の名はビリー・ペインという。市長は我慢しながらもビリーの話を聞いていたら、だんだんビリーの意見に賛成するようになる。そして立候補するだけでもイメージアップに繋がると最終的に判断した。結局、市とビジネス界が協力してビリーをバックアップすることになった。コカ・コーラで財をなした企業家ウッドラフの基金や大手銀行などが大どころとして寄付を行った。

 アトランタオリンピックには公的な援助は一切ない。コンベンション都市として設備は整っているし、競技場などのインフラも十分で、メインスタジアムを除けば、改めて建設するのはごくわずかだった。アトランタはメガイベントを契機とする都市改造を行い、その政策手法はアトランタモデルとして知られる。公共施設、インフラ管理費の増大問題に対処する上でも、不必要な不動産を公的機関が保有する必要がないというものだ。

 

1996年夏季オリンピック 開催地投票
都市1回目2回目3回目4回目5回目
アトランタ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 19 20 26 34 51
アテネ ギリシャの旗 ギリシャ 23 23 26 30 35
トロント カナダの旗 カナダ 14 17 18 22
メルボルン オーストラリアの旗 オーストラリア 12 21 16
マンチェスター イギリスの旗 イギリス 11 5
ベオグラード ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビア 7

 

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*岡田武史語録

2019年12月05日 | 捨て猫の独り言

 新聞の毎日と朝日の二紙を一年ごと交互に購読紙ている。11月から朝日になった。元サッカー日本代表監督で現在は来季J3に昇格するFC今治の会長である岡田武史へのインタビュー記事が22日の朝刊にあった。日本人の自立心が中心だった。「お上に従っていたら間違いないというのが染みついている。自分たちで勝ち取った民主主義とか、自由とかいう発想がないから命令された仕事をこなすようになる。今の日本で、自分たちで何かをやっているという実感を持てる人って少ないんじゃないかなあ」

 「スポーツって、感動や共感、夢とか目に見えない資本を売っている。今は株価を上げるためにお金を回す方がいいという民意があるけど、オリンピックは経済効果や国威発揚ではない、新しい価値を社会にもたらすんだという理念を持つべきだ。本来なら招致の段階から夢を描くべきだった。今治で経営者になって初めて気付いたことがあった。稼ぐことだけに振り回されず、人間らしさを取り戻したい人が住み着く地域、街づくりをしたいと思うようになった」

 「スポーツ界でパワハラがなくならないのも、選手が自立してないからだと思う。コーチの言いなりの方が短期的にはいい結果が出る。社会でも、どう考えてもおかしなことが、まかり通るくらい、人が自立していない。たとえば日本って今、貧困なんだ。子どもがいる一人親世帯の貧困率は最悪レベルなのに、みんな関心がない。日本人は素晴らしいという本が書店には並んでいるけれど、日本人の多くは自分の生活が来週どうなるかで頭がいっぱいだ」

 「先生が子どものダメなところやミスを指摘する傾向を感じる。そんな学校には、これからの子どもは行かなくなる。学校にいけない子が、社会の落ちこぼれなのか。社会の方が、適応できていないのではないか。〈通信制のN高〉が人気だ。その理事が言うには、そこに通う子どもは落ちこぼれではなく、優秀すぎたり何かに特化したりして自分の生き方を選択した子だ。スポーツもそういう人を生かすように変わらないといけない」

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*日展2019

2019年12月02日 | 捨て猫の独り言

 曇り空のもと東京開催最終日の日展を見るために六本木に出かけた。日展見学は恒例行事になっていて中断を惜しんでのことだった。私の場合は五科のうち洋画会場での滞在時間が多くなる。一つのテーマを毎年繰り返し描いている会員の入選作品にマンネリを感じることも少なくない。洋画の特選になった松本貴子の名は覚えてしまった。彼女はつい最近の回も特選だった。(古典的技法の松本貴子そして春日裕次)

 

 私の郷里の桜島や、この10月に訪れた羽黒山五重塔がないかと探したが見当たらなかった。その代わり11月の奄美旅行で記憶に残った粟国島と硫黄島があった。粟国島は沖縄本島の西にあり、粟国島産の黒糖を奄美の酒蔵で見た。また俊寛は平家打倒の陰謀に加わって鬼界ヶ島に流される。その鬼界ヶ島の場所とされるのが種子島の西にある硫黄島である。その一方で奄美の喜界島にも俊寛の座像があった。

 

 私の絵をみる仕方は作品それ自体の出来栄えよりも、その背景にある物語性に強くひかれている。それと同郷の作家に関心が向くのは自然なことだろう。鹿児島県姶良市の塩屋信敏は今年も「南風」と題する緑の中の少女を描いていた。今年の少女の顔は凛々しい顔つきだ。もう一人出会いを楽しみにしているのが若き女性彫刻家・いちき串木野市の丸田多賀美だ。型破りでユーモアに満ちた作風で、今年は「買い物帰りに」と題する、子犬を連れた量感あふれるおばさんの彫像が人目をひいていた。

 

 彫刻では鹿児島市の脇園奈津江「道しるべ~春をさがしに~」が特選だった。1967年生まれで2017年にも特選になっている。これから注目していきたい。偉人像で知られる1926年生まれの中村晋也の今年の出展はなかった。もとの職場で親しくしてもらっていた同僚の中に書家が二人いる。退職後よく日展に出品している。書の会場入り口で二人の名をさがす。あれば一目散にその書の存在を確認に行くのが習わしだ。

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