玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*山本五十六を読む

2020年12月31日 | 捨て猫の独り言

 山本五十六の生涯を描いた「海燃ゆ」を年末に10日ほどかけて読んだ。図書館のリサイクル本だから書き込み自由だ。工藤美代子(1950年生まれ)が2003年に「海続く果て」と題して新潟日報に連載したものだ。長岡に観光で行くと、良寛と河井継之助にくらべて五十六の名を目にすることは少ない。しかし長岡には「山本元帥景仰会」「山本五十六記念館」があるという。読後に印象に残ったことを記してみた。

 

 五十六は4年半アメリカに駐在したことがある。52歳のとき海軍次官としてロンドン海軍軍縮会議の予備交渉にも参加し、まとめる努力をしたが1936年に条約は失効する。国防の主力は航空機であり、「大和」「武蔵」などの建造に職を賭して反対したのは五十六だった。しかし1936年二つの大艦の建造が決定する。五十六は三国同盟反対を主張した。そこで脅迫状が舞いこんだり、国賊と非難する雑誌もあった。しかし1940年三国同盟は調印される。将棋とブリッジはめっぽう強かったという。

 長岡藩の祖父と実父の高野貞吉は戊申の役でそれぞれ戦死そして負傷している。五十六は貞吉の六男として貞吉が56歳のとき生まれた。高野五十六が長岡藩家老山本家の名跡を継ぎ山本五十六となったのは32歳のときである。34歳で12歳年下の会津出身の三橋礼子と結婚。「父山本五十六」の著者である長男義正氏によれば「生来寡黙で、家にいるときも、どちらかといえばむっつり屋で言葉は少なかった。庭に面した縁側の椅子に寄りかかって、じっと目をとじている姿が最も強く残っている」

 貞吉の長男の譲の長女に高野京がいる。姪といっても4歳年長で五十六にとっては姉のような存在だった。また、きわめて優秀であり帝大附属病院の看護婦長をながく勤め、高野家のためと生涯独身だった。京に海軍兵学校から、「兵学校案内記」と題して、写真と共に詳細に学校生活を綴った長文の手紙を出している。五十六は早く精神的に自立しており、母親に甘える感情は乏しかった。それだけに年上の京は、どこか心の底辺で深くつながっている唯一の女性だったのだろう。五十六はその生涯にわたって京に膨大な数の手紙を送っている。

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*アンケートに回答

2020年12月28日 | 捨て猫の独り言

 小平市環境部「水と緑と公園課」から「新設公園」に関するアンケート用紙が封書で届いた。場所は我が家のすぐ近くだ。1963年に都市計画されたという。西武国分寺線の鷹の台駅の東側には駅に隣接して小平市の中央公園がある。この公園は津田塾大生の通学路にもなっている。今度の公園は線路をはさんで中央公園の西側だ。駅前商店街の通りに面し、つい最近まで高い防護ネットの創価高校の野球場があった。

 

 1963年の計画というのであれば、創価学園は最近までその土地を借りていたのかと疑問が湧き市役所に質問してみた。そうではなかった。この計画は地権者が誰であれ、このあたりに公園があれば良いという曖昧模糊としたものだった。このような計画は他にもあるという。創価学園が野球場を移転させたので、それを契機に今回の計画が動き出したという。

 中央公園は東京ドーム1.4個分の広さがあり、体育館、野球場、400mトラック、テニスコートなどの体育施設を備えている。今回予定の公園はその中央公園の2割ほどの広さだ。両者は歩いて5分ほどの近い距離にある。名称は「たかの台公園」でほぼ決まりだろう。アンケートは複数回答可として、期待することを15項目の中から選ぶ形式になっている。完成予定日の記載はない。

 私は5項目ほど選び、さらに具体的に記述回答した。①中央公園のサクラ、イチョウ、メタセコイヤの並木は見事。新設公園はクロガネモチあるいはクスノキの並木で公園を囲う。並木の下にはベンチ。②大道芸人とそれを見学する子供たちのための広場。③子どもの広場にはターザンロープ。④大人用の四角囲いの鉄棒2基。⑤名物の「小平糧うどん」の店舗を建築し、経営は民間委託。メニューはうどんのみ。値段は市価の半値とし、差額は市が負担する。 

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*故郷のカレンダー

2020年12月24日 | 捨て猫の独り言

 新聞の連載小説を読むことはすくない。よく知る近くの町が登場するということで、毎日新聞の高村薫の「我らが少女A」を読み続けたのは3年前だった。その名を初めて知る松浦寿輝の「無月の譜」が、同じ毎日で12月から始まった。将棋の駒をめぐる探究の物語だ。囲碁と似た将棋の世界のことなので読んでみる気になった。

 東京のコロナの感染者数が急増したこともあって、10月から再開した公民館の「碁苦楽会」の参加者は最終日の18日金曜日には6名という寂しさだった。比較的若い方の私は3カ月間皆勤で終えた。この時期に前向きでいられたことを誇りとしたい。それに今期は勝率も良く、来期からは持ち点を上げて打つことになる。

 新聞歌壇の故郷鹿児島からの投稿の2人に注目している。ともにますます活躍しているようだ。12月15日掲載された垂水市の岩元秀人さんの作品は感動もの。《やわらかく「霧ね」とつぶやきかけしときあなたはすでに夜霧でありき》評には「あなたの姿の消え方が美しい。夜霧のメルヘンというべき静かな作品である」とあった。

 

 今年も友人が、鹿児島銀行発行の年間カレンダーを関西から送ってくれた。奄美の「大島海峡」を俯瞰する2014年のものは今でも保存してある。昨年は「桜島」だった。今年は「鶴丸城の城門」である。背後には城山、その地形を利用した独特の城の城門が、今年4月約150年ぶりに民間主導で復元された。10月に帰省したとき、私もこの城門の前に立っている。

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*障子紙の張替え

2020年12月21日 | 捨て猫の独り言

 障子紙を張り替えることにした。新築から25年になるが、一度だけ張り替えている。おそらく10年以上前だろう。この度、なぜその気になったか判然としないが、ともかく思い立ったが吉日だ。明日から寒波襲来という日に、雪見障子2枚を庭に持ち出し、古い紙をはがすことにした。ガラス入りなので障子がちょいと重い。

 職人が貼った障子なら、のり付けしてある部分をよく濡らして、ゆっくりときれいに剥がれるものらしい。前回の素人仕事の哀しさで、こびりついた紙カスが多く残り、タワシや竹へらで悪戦苦闘した。やり過ぎて、やわらかい桟がけば立ったりする。そして初日は紙はがしだけで終わった。(12月の紅葉と36m道路予定地)

 

 翌日、量販店で紙幅94㎝紙長7.2m「仮止めシール付き」という障子紙を買う。そこには「障子の上手な貼り方」の説明書きがあり、読んでいくうちに自分のやり方の間違いに気づいた。これまで最初から障子の桟枠ぴったりに障子紙を裁断し、糊づけした上にふわりとかぶせていた。これだと一人でやることは困難で、紙がゆがんだりすることがある。

 「仮止めシール」を理解すると一人で貼ることができる。外枠より広い障子紙の一辺をシールを用いて固定し、巻き戻してのり付けし紙をゆっくり転がして張る。最後にナイフで化粧断ちする。そのために「ハケがいらない、桟からずれないガイド付きのり」と「職人さんがつくった障子紙ナイフ」をそろえた。仕事にはそれなりの道具が必要だ。コツがわかりました。どこかに障子の張替えを予定している方がいましたら、お手伝いします。

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*果てなき殲滅戦

2020年12月17日 | 捨て猫の独り言

 8月15日に放送されたBSスペシャル「終戦75年特集」を再放送で見た。NHK鹿児島放送局の制作である。米軍を指揮していたのは米陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルで、その資料館がバージニア州にある。6月に沖縄を制圧した米軍は九州南部、吹上浜、志布志、宮崎に上陸する作戦だった。日本軍は11月1日の上陸を想定し、志布志ではゲリラ戦を展開するための16㎞の地下壕が掘られた。

 日本は女性や子供までも動員して戦い抜く、一億玉砕を主張していた。機密文書には「すべての日本人が武装した兵士となった。もはや日本に一般市民はいない。一人でも多く探し出し殺害する」とある。南九州上陸のために、輸送網や、軍需工場、特攻基地の徹底した破壊が行なわれた。3月から8月にかけて川内など鹿児島大空襲では3千人余りの死者が出た。(小平市中央公園のメタセコイヤ)

 

 作戦は広島、長崎の原爆投下後も続けられていた。南九州に上陸する3つの軍団は、それぞれ3つの原子爆弾を用意する計画だった。当時0歳だった私は川内の近くに疎開していたと聞く。上陸地点の近くだから危険な場所に疎開していたわけである。敵の戦車の下に潜り込んで手榴弾をキャタピラに投げ、走って塹壕に逃げる訓練をしていたという当時13歳の義勇兵の川辺町の前橋竹之さん(88歳)の証言は胸に響いた。

 「皇国の安危は諸君の双肩にかかっている。本土防衛のため薩摩半島は重要な位置になった。今後一身を呈して国家に忠誠を尽くしてもらいたい」と陸軍大佐は語ったという。「戦争は一度始まると、人権は無視されて国の維持が中心になる。ひとりひとりの命が盾にされてしまう。戦争はドミノ倒しのように一度崩れると止められない」「あのね・・・。あれは75年前の戦争じゃない。今でも起きうる。何かの拍子で起きるような気がする」 

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*菜園黒マルチ

2020年12月14日 | 捨て猫の独り言

 すべてのものには名がある。畑で見かける白や黒のビニールなどのフィリムの名を初めて覚えた。畑のそれはマルチという。mulch=(根覆い、敷き藁)からきている。multi=(多くの、種々の)と混同するのはしかたがない。物の名を商品名で代用することも多い。私が飲んでいる安価な乳酸飲料をヤクルトと呼んで通用している。

 これまで多年草の「おいらん草」が占めていたせまい場所を、無残にも掘り返して整地した。花より野菜というわけだ。さて整地したもののこの時期に植え付ける野菜は数が少ない。ニンジンで苦杯をなめた後だが、これまた初めてタマネギに挑戦することにした。この時季は「たまねぎ苗」が出回っているというアドバイスを受けて農協に出向いた。

 職員に「苗」のことを尋ねると、そんなもの見かけたこともないというような顔つきである。不安を抱きながらつぎに量販店を訪ねた。色とりどりの草花が並んだ片隅に、泥のついた段ボール箱の中に、皺になった新聞紙で覆われて、ネギとタマネギの苗が横たわっていた。葉の半分は枯れている。あまり予想してない姿との出会いだった。

 

 たまねぎ苗の植え付け方をパソコンで調べたのは、そのあとだった。教えられた通り量販店に「菜園黒マルチ」と「S型シートおさえ」を買いに出かけた。マルチを張る意味は、保湿、保温、雑草防止だという。霜についての記述はないが保温がそれに対応しているのだろう。肝心の土づくりについては全く自信がない。苦土石灰をやや多めに、かき混ぜただけである。

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*短歌と詩と

2020年12月10日 | 捨て猫の独り言

 歌人の穂村弘が「そりゃそうだよな」と、反論の余地がない、ある意味身も蓋もないことを言っている歌として例示したのはつぎの二首だ。啄木の「ふるさとの山に向かひて言うことなしふるさとの山はありがたきかな」と俵万智の『「勝ち負けの問題じゃない」と諭されぬ問題じゃないなら勝たせてほしい』(駅前銀行跡地の杭抜き工事)

 

 啄木は和歌という伝統の上に彼自身の短歌をきずき上げたのではない。近代の詩精神の適切な表現様式としての新しい短歌を樹立したとする評価もある。啄木の詩集「呼子と口笛」に明治44年(死去の前年)の「飛行機」という詩がある。当時日本では、短距離の浮遊飛行に成功したばかりだった。

 この詩について佐藤春夫は「彼の短歌の特色をさながら詩で見せたおもむきがある。啄木自身の分身とも思われる貧しい少年に寄せた愛情の美しさと、この前人未踏の詩境の発見の功とが尊い作品である」と述べている。以下に示す詩がそれだが、萩原慎一郎の歌集「滑走路」に繋がっているような気がしてならない。

 「見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高く飛べるを。給仕づとめの少年が たまに非番の日曜日、肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、ひとりせつせとリイダアの独学をする眼の疲れ・・・見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高く飛べるを。」

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*コロナいつまで

2020年12月07日 | 捨て猫の独り言

 玄関を出たとたんマスクを忘れて取りに帰ることがよくある。道行くほとんどの人はマスクをしている。日本人ってすごいなと、よそごとみたいに感心したりする。定時のニュースはいつもコロナで始まる。ウイルスとの戦いはマラソンのような長期戦というが、なかなか先が見えないのは鬱陶しい。

 私のような年金生活者は恵まれている方だ。外出を控えていればそれですむ。たとえば飲食業で働く非正規の人たちは、生活費を稼ぐために、仕事に出なければならない。仕事があるのはましな方だという人たちもいるだろう。ウイルスは誰にでも平等ではない。はたして公助は足りているか。(ヤツデとクロガネモチ)

 

 コロナへの感染対策と経済対策のバランスをとるのは難しいことは誰で知っている。先月「GOTOトラベル」で白馬八方温泉にへ3泊4日の旅行をした。ホテルでは到着時に非接触型赤外線電子温度計で検温、食事のときは使い捨てポリエチレン手袋が配布される。カラマツの黄葉を見て無事帰宅した。

 「朋あり遠方より来る、亦楽しからず乎」そんな楽しみが失われるのは残念だ。毎年のように我が家にきて泊まってゆく友人がいるが、一度も来ないめずらしい年になる。公民館の囲碁の参加者も、普段の半分の10人より少なくなった。雨の日などには5人の時もあった。勝率が後押しして、今のところ皆勤である。

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*藤沢里菜22歳

2020年12月03日 | 捨て猫の独り言

 藤沢里菜(22歳)は日本棋院東京本院所属の囲碁の女流棋士である。数々の最年少記録を持っている。 長年、女流棋士は7大タイトル戦で本戦入りを果たしても、勝利すらできなかった。昨年、藤沢が天元戦本戦で初勝利、上野愛咲美(19歳)が竜星戦で初めて決勝進出など男女の差は縮まってきている。

 囲碁の7大タイトルではないけれども、今回第15回若鯉戦で藤沢四段が孫 喆(まこと)七段に勝ち、男女混合棋戦での女流棋士初の優勝を遂げた。11月23日の新聞は、男性優位が続いた囲碁界に新たな歴史の一ページを開く快挙と報道した。藤沢は、祖父に故藤沢秀行名誉棋聖、父に藤沢一就八段をもつ、いわばサラブレッドだ。

 11月25日の高尾紳路九段のブログ「たかお日記」はつぎのような記事だった。「師匠の藤沢名誉棋聖が今年の囲碁殿堂入りに選ばれました」さらに「若鯉戦優勝」のこと、そして「藤沢里菜四段は今日行われた第39期女流本因坊戦五番勝負最終局で勝利し、女流四冠となりました。着々と偉大なお爺さんに近づいていますね。師匠も喜んでいるだろうな・・・」

 

 鶯谷駅の近くにある小野照崎神社に「強烈な努力」と刻まれた記念碑が建っている。親族やゆかりの棋士が集まって、その碑の前で「藤沢秀行6年祭」が行なわれた。「たかお日記」で知り、私は出かけたのだった。今から5年前のことだ。藤沢里菜17歳のときである。そのとき撮影した写真をあらためてながめる。

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