玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*こもれびの里

2013年09月25日 | 捨て猫の独り言

014

 シュンギクの種をまくとすぐに芽が出た。直後の台風18号は芽吹いたばかりの畑の畝が水没するのではないかと心配するほどの大雨をもたらした。水没をまぬがれて順調に育っている。わが畑では冬野菜としてシュンギクが定番である。毎年寒い頃に収穫して暖かくなるまで放置しておくと花が咲く。日本や中国ではシュンギクは葉を食用としているがヨーロッパでは鑑賞用の花として栽培されているらしい。わが畑では花が咲いてからの葉も食用にする。同時に植えこんだワケギも大丈夫そうだ。

006

 国民体育大会・障害者スポーツ大会の今年の開催地は東京である。会期は9月28日から10月14日までだ。開会式が調布市の味の素スタジアムで行われる。小平市と羽村市は成年女子のバレーボール試合会場となっている。各ブロックから選抜された都道府県代表16チームのトーナメント戦が29日から始まる。3試合勝ちぬくと10月2日が決勝戦である。小平市民総合体育館での29日の第2試合は鹿児島県と東京都が対戦する。会場は歩いてすぐの市民総合体育館だから応援に出かけるつもりだ。

011

 秋晴れにはほど遠い秋分の日に2人で国営昭和記念公園に出かけた。公園は自宅から自転車で30分ほどの距離にある。途中のスパーで昼食を調達する。広大な公園だから自転車で移動する人が多い。歩行者と自転車は完全に分離されている。各所に駐輪場が設けられていて自転車利用者はそこから歩いて目的の場所に近づく。大ケヤキを中心に東西に花畑がある「みんなの原っぱ」は公園の中央部にある。多くの人がシートを広げて食事をする場所でもある。私たちは早めの昼食をそこですませた。若い家族、若い二人連れが多い。

012

 公園内に6年前に開園したという「こもれびの里」の存在を初めて知った。昭和30年代の武蔵野の農村風景を再現しているエリアである。11年前にボランィア団体と公園事業者の共同作業として始まった。共に検討を重ねながら整備運営を行ってきたという。ボランィア団体は今でも管理運営に携わっている。実際に公園の敷地を開拓して雑木林、炭焼き小屋、水車、田んぼ、果樹園、畑、茶畑などを出現させた。今年の8月に「農家」が完成して「こもれびの里」は完結した。田んぼ、果樹園、畑からは収穫があり、田植え体験、サツマイモ掘り体験、うどん作り、炭焼きなどのイベントが開催されている。まちがいなくホッとする気分にさせてくれる場所である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何を・・どうしてる・・?

2013年09月20日 | ねったぼのつぶやき

 我家に帰りついて2週間が過ぎた。わずか5週間、普段の生活から遠ざかっていただけなのに何とも長い時間で、しかも異次元の日々だった様に思えてならないのはどうして?帰国便は空いており、横3席のアームを持ち上げて横臥出来たのも初体験で楽な方だっだのに。夜自宅に辿り着き風呂を浴びた。毎度の事ながら計りが示すその数値に先ずは驚かされた。記憶にある限り最小の数字だった。持参しつつ着なかったスラックスを一本捨てたのもムリからぬ筈だ。2~3日ぐずぐずと過ごし4日目から仕事に出た。それでも身心はシャキッとせず一週間がかりでやっと体調を取戻した。生活のペースの違いがかくも体に負担を懸ける事を実感した次第だ。そして朝に夕に、今頃アチラは何時で何を・・どうしている・・と思いを馳せている。

080

  体調が戻るといきおい目は庭周りの木々や芝に向かう。夏は取分け雑草は伸びる。手入れをしおいて出かけた筈であったが、アチコチ手が加えられた場所や、及ばなかった場所など目につく。側枝の多い雲南百薬は反転をくり返し、蔓が手の届く範囲に納めていたのだが、生木に沿って木のてっぺんで絡まりあっており、手の施しようもない。生垣のツゲはピンピンと思い思いの方向に新芽を突き出している。早朝剪定バサミの音を立てると、隣の室内犬が吠えていたけど静かだ。ゆっくりを心がけ作業は夕刻まで続いた。終了間際、上唇に違和感を覚えムヒを塗りビールを飲んで就寝した。

  翌朝何やら口周辺に違和感を覚え目覚めた。ヤッチャッター! 数年前グアム島で結婚式に立ち会った後海に入り、カサゴに咬まれて足を腫らして以来、小動物に咬まれると脹れあがる体質に変わっていたのだ。外見上あまりにみっともないため、受診すべく出かけたが休診で、3連休中放置せざるを得ず冷やしに冷やしてどうにか治まった。息子がいうにはアレルギー体質はしばらく続くらしい。今日はどうしても礼を欠かせぬ人に、ヤットの思いで辞書をひき引き英文のメールを発信した。一先ず庭が落ち着き、本を読む気分も戻ってきたので、図書館で数冊の本を借り入れた。ボツボツそちらにも取りかかり普段に戻ろう。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*彼岸花

2013年09月19日 | 捨て猫の独り言

 それは昨日の我が身に起きた。一日中鼻水が止まらない。今日も同じ症状が続いている。そこで「秋の花粉症」と入力して検索を試みた。春はスギやヒノキの花粉だが秋にはブタクサやヨモギなどキク科の花粉という説明がなされている。私はこれまで春の花粉症に悩まされてきた。これからは秋も悩まされるのか。花粉症は一年中気をつけなくてはいけない症状というのだからうんざりである。

 今年も庭の内外に知らないうちに増えて彼岸花が出現した。まだつぼみの状態のものもある。玉川上水にもあちこちにその姿を見せている。秋の彼岸の頃に咲くから彼岸花である。この花には異名がおどろくほど多い。また「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」「悲しい思い出」「想うはあなた一人」などと花言葉も多様だ。天上の花という意味で法華経などの仏典に由来するという「曼珠沙華」は有名だ。

 彼岸花に関する二つの歌を昨年度の手帳に発見した。手帳にメモするのは最近では「歌」か「囲碁の格言」ぐらいしかない。一つの歌は塚本邦雄の「いたみもて 世界の外に 佇つわれと 紅き逆睫毛の 曼珠沙華」というものだ。なるほど彼岸花は睫毛のようにもみえる。もう一つは山崎方代の「あかあかと ほほけて並ぶ きつね花 死んでしまえば それっきりだよ」というものだ。それっきりだと私も思う。

 何年か前に知ったのだが韓国で呼ばれている「相思華」というのはいい名だ。韓国の人たちは彼岸花をつぎのように観察したのである。この植物は花が咲く時には葉は出ておらず、葉が出る頃には花は散ってしまう。同じ根から発しているにもかかわらず花と葉はお互いを見ることができない。葉は花を思い、花は葉を思う。ところで先日の台風の翌日はよく晴れて、突き抜けるほど高い空だった。うすい雲がその高さを教えてくれた。さて今夜は十五夜である。これほど条件のいい十五夜はめずらしいという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*二十四節気の白露

2013年09月12日 | 捨て猫の独り言

 サルスベリの花が咲き続けている。ニガウリはいつもとくらべて葉の繁りはそれほどでもないが、今だにぽつりぽつりと実をつけ続けている。7日から22日までは二十四節気の白露である。大気が冷えてきて露を結ぶ頃の意だそうだ。この節気には中秋の名月を楽しむことができる。旧暦では7月、8月、9月が秋である。中秋は旧暦の8月15日のことである。今年の中秋の名月は9月19日という。

 私にはススキを活け、団子や栗にさつま芋などのお供え物をする行事を経験したというはっきりした記憶がない。寂しいことだと思う。私は絵本や写真を見て感情移入するだけだった。この行事は、実りの秋の五穀豊穣に対する祈りと感謝を表したものだ。鈴木さんの白露の「さんぽ暦」にはヌルデ、コムラサキ、カラムシ、アカネ、(チヂミグサ)、(カラスノゴマ)、ススキ、(カリガネソウ)、ヒガンバナ、ヤマジノホトトギス、イノコズチ、ヤマブドウ、ガマズミ、ニシキギとあった。

 秋の月がきれいな理由を知った。冬の月は空高く、夏の月は割と低い位置にある。適度な高さにある春と秋の月が見やすい。春はよく「おぼろ月夜」といわれるように空気中のちりや花粉などが多い季節である。春にくらべて秋は空気中の水蒸気の量が少なく比較的乾いている。だから秋の月がいちばんなのである。

 夏野菜のトマトとキュウリのあとの畑を掘りかえし、苦土石灰をまいてしばらく放置していた。やっと一昨日に畝をつくりシュンギクの種をまいた。シュンギクの隣にはワケギの球根を植えた。南九州では千本(センモト)と呼ばれていて、ネギとタマネギの雑種の野菜である。球根を風通しの悪いところに放置していたのでだいぶ傷んでいる。芽吹いてくれるかどうか心配している。悪い予感が的中して近くの新堀用水の流れは未だに止まっている。季節の変わり目にあたり私の体調とそれにともなう気分は沈みがちだ。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*安倍クン気をつけて

2013年09月02日 | 捨て猫の独り言

 昨年暮れの沖縄旅行のメンバーの一人から「まだでしたら、どうぞご一読を」のメールが届いた。『月刊「新潮45」9月号、86頁~92頁に「安倍クン、気をつけて」という青柳氏の文章が掲載されています。以前の毎日新聞のインタビューをご自分の論説として敷衍・展開したものです。とくに卒業生に必見です』とある。さっそく図書館に出かけた。図書館では新着本のコピーは禁じられていることを知る。興味深いことに直前の78頁~85頁に「妻から見た素顔の安倍晋三」という安倍昭恵総理夫人へのインタビュー記事がある。編集部のちょっとした配慮かもしれない。

 「安倍君、刮目して読んでみて欲しい」1970年から3年間成蹊高校で「倫理社会」の担当だった恩師が諭す「天に口なし人をもって言わしむの伝」という長い副題がついている。まえがきの部分で「私は一市民として、本誌紙面を借りて安倍君に直言することにした。民主主義社会はこれと敵対するような政治権力には市民一人ひとりの批判と行動を求めているからである」と青柳氏は書いている。

 本文は「安倍少年との出会い」「安倍晋三君の反論」「安倍晋三批判序説」「叔父の警告」という章だてになっている。私なりに要約して紹介してみる。青柳氏は川崎市の市立中学校で教職経験を積み成蹊に着任する。その最初の年に倫理社会を履修した高校一年生の安倍君と出会う。ある日の授業でギリシャ哲学とは関係ないように見える「安保問題」をふと口にした。安倍君は安保条約には経済協力協定もあると反論してきた。のちに安倍首相が「美しい国」の中で彼の反論にあった私の顔色の変化から反権力を唱える人間の「うさんくささ」を実感したと書いている。

 どのような印象を抱くかは自由である。だが、歴史的事実に基づいて「安保問題」を生徒と共に考える教師を反権力者として単純に決めつける思考様式こそ「独断」と「偏見」に引きずられているのではないか。「安倍一族」に代表される特権的地位に立つ人々は「普遍概念である人権」には無意識的な拒否反応を起こす。特権は特殊な人々しか享受できないから、両者は対立関係にある。そのことを彼等は肌身に染み込まされて育った。首相もその例外ではない。特権意識とその裏返しとしての差別意識は安倍首相の思想と人柄の形成の核となっている。

 安倍晋三の超タカ派路線を危惧する人が、彼の身内からも出た。晋太郎の異父弟、晋三の叔父にあたる西村正雄(日本興業銀行最後の頭取)である。安倍晋三の首相(第一次)就任は二十年早いと判断し阻止しようと各方面に働きかけたのである。晋三の能力と資質から判断すれば至極当然な警告であった。甥に宛てた手紙に書いたという。「偏狭なナショナリストと離れろ。・・・「リメンバー・パールハーバー」の精神が生きている米国でも靖国神社は軍国主義の社(やしろ)と捉えられている。国家を誤らせる偏狭なナショナリストとは一線を画すべきじゃないか」けだし至言であろう。今は亡き叔父上の言葉に耳を傾けるべきではないだろうか。

 政治とは、福祉とサービスを国民に行き渡せることだと君は再認識すべきです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

散歩中に迷子になる

2013年09月01日 | アトランタ便り

 昨日、事は起きた。午前中は例によって保存食をつくり、午後多少の買足したい物もあってアパートを出る。歩いて2分の大通りを渡り、モール形式になっている専門店の寄り合いビル(これが又巨大で、複数列ある左右通路が交差する地点は全て吹き抜けになっていて、休息用の応接セットやコーヒーショップ、新車数台の展示やピアノの設置など、利用客を飽きさせない工夫満載である)を突き抜け次なる大通りに出た。娘は仕事に出てる為最初から一人歩きだったので、大回りをせずに済む様、各出入口とアパートの方位の位置確認にほぼ一日費やしたのだった。

P1100451_2

 普段から歩行自体は嫌いではなく、一旦散歩に出ると休息を含めて3時間位は苦にならない。前回通った道を頼りに更に少しづづ探索してゆくと、ココに繋がるんだという箇所が増えて来る。今回も一年前歩き回った箇所に何度か遭遇した。私が一番困難を覚えるのは、道路は車社会を前提に作られており、横断道路は限られしかも車が停滞しないよう信号待ちの時間が長い事である。それに大回りをせずに済むようビルを横断したいのだが、アップダウンの多いアトランタの街は、地下数階~ひょっとしたらビルの3-4階に至る迄、パーキングや店舗、事務所、貸室果てはホテルの部屋に繋がっており、ビルに入ったはいいけれど、出口を求めてウロウロ。意を決してたどたどしく尋ねても、駐車場に通ずるエレベーターを教えて呉れる程度である。

 昨日はこうだった。3時に出かけ、6時に帰りつく娘より早く帰宅している筈であった。別方向に見かけた他のマーケットを目指した。しかし一向に行き着かない。買物は諦め、その界隈を探索しようと歩き回っている内に、スッカリ方位が分からなくなった。誰でも入れる高いビルがあれば、アパートの所在が確認できる建物が探せるはずだが、生憎それらしい物はない。それ以上移動を続けても返ってムダと判断し、見かけたお巡りさんに「Excuse me I lost my apartment-house.Please phone to my daughter where we are」とヤットコ伝えた。彼は私が差し出した電話でしばし退社中の娘と会話し、娘が依頼したコーヒーショップを、自分のI Phon上に示し、そこで待つよう言った。そこは娘達と何度か利用した店で、帰宅途中に少々周り道をして私を拾ってくれホッと安堵した。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする