玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

方丈さんの結婚式

2006年09月29日 | 捨て猫の独り言

 高円寺界隈のお寺めぐりを決行する前に結婚式の招待状が届いた。新郎は住職と数学の非常勤講師の2つの仕事を同時に持つ37歳である。私の職場では席が隣である。正法眼蔵随聞記を贈ってくれた。曹洞宗の修行の場といえば、まず永平寺で、つぎに東京別院、名古屋別院があり、さらにその他の地方にも存在するという。彼は東京別院において修行=安居(あんご)証明書を取得した。住職の居室を方丈といい、引退すると東堂さんとなる。

 結婚披露は9月16日(土)の夕刻であった。大江戸線の都庁前で降りて新宿中央公園前を歩く。途中に路上生活者の住居が散見された。これから過ごす時間とくらべると気持ちは複雑である。薄暗く人影まばらな場所に出たが、吸殻や空き缶の散乱する狭い階段を昇ると超高層複合ビルのパークタワーは目前だった。道を迷わずにすんだ。さらに好都合なことに一人の僧が袈裟を着て先を歩いていく。39階のロビーには袈裟やスーツ姿の僧が団体でいた。これだけの僧が集まると壮観だ。気おされて部屋の隅に行き眼下の新宿の街並みを眺める。よく冷えたカクテルジュースはこれまで経験したことのない上質の味だ。この頃にはあの路上生活者の身の上のことなど忘れてしまっていた。大勢の僧に囲まれて埼玉県高麗(こま)の里の過剰な100万本の曼珠沙華を連想した。

 出席者は160人ほど。円卓17のうち7卓が僧で占められていた。例えば「露草」 の卓には常仙寺住職○○○○様、道場寺東堂○○○○様などと10人の名がある。「桃」 の卓も10人で、私の右隣には同僚としてはこの日私と2人だけの男性、左隣には新郎に小学校でフルートを教えたという和服のご婦人である。白ワインのつぎの赤ワインも普段私が飲みつけないなかなかなものだった。あまりお飲みにならない当のご婦人がドイツワイン専門店銀座ワイナックスを紹介してくれた。ワインの試飲にあたり特別な計らいをしてくださるとのことだった。ワイン通なら知っておかねばならない店だろうなと思いつつ神妙に聞く。会場の大型画面には新郎自身が住職である寺において午前中に挙行された仏式の結婚式が映し出された。執り行った老僧も生涯で2度目という稀なものだそうだ。新婦は一般のご家庭の出である。これから家族ならぬ寺族(じぞく)の仲間入りをする。意義深い披露宴なのだと感じた。

 にぎやかな卓がある。東京別院で共に修行した僧達であろう。東日本の各地から参列しているという。同世代の絆を意識するのは出家でも在家でもそれほど違わない。老僧の挨拶を聞くとき新郎は合掌して聞く。それ以外新郎新婦に特別のことはない。その後二人は1週間のフランス旅行に出かけた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

69)フジモリ氏の何故?

2006年09月28日 | ピースボート世界一周
Peace_boat_827_1

 フジモリ氏は熊本から移民した両親の元、1938年リマ市で生まれてのち勉学を果たし、知的エリートから90年大統領にまで登り詰めた、いわゆる立志伝中の人として、又現地の日本大使館公邸では大使と共に暴徒を鎮圧した大統領として私の中にあった。(日本のジャイカが寄贈した診療所)

Peace_boat_780_1

 それ故なぜ、国際会議の帰途日本に亡命しなければならなかったか気になっていた。大統領になりフジショックといわれる経済の立て直しや、国内の混乱の歯止めに実績を上げていた筈で、同情的な気分ですらあった。パナマを離れてペルーに向かう今、再び向き合う問題となった。(貧富の差が極端な結果治安も悪い。富裕層、観光客向けの公園には「地上絵」が模写され植栽されていた。公園の先は切り立つ太平洋)

Peace_boat_796

 このBoatが初めてペルーを訪問したのは96年12月。トゥパク・アマル革命運動が日本大使公邸を占拠している最中で、約100名のboat参加者が公邸前で平和的解決を求めてアピールしたそうだ。2度目の立ち寄りは2000年11月、訪日中の彼が大統領辞意を表明した直後で、「大統領がペルーに戻るよう日本政府に働きかけて欲しい」との要請を受けている。NPOの立場からBoat側は「公正な裁判をうけるよう働きかけているグループ」に属していた。(夕食の間合いに、コンドルは飛んでいくの音曲で馴染みの竹製の楽器演奏=壇上=に乗せて、民族衣装華やかにプロ集団が舞うのを鑑賞)

Peace_boat_781

 洋上で学んだ事は改革断行のため権限の強化と乱用。大統領3選に向けてペルー憲法に抵触しかねない強引な手法や現金授受の事実。大使公邸人質事件では投降した人質の虐殺。公正な裁判の遺棄。法律改正前とはいえ元首の2重国籍(日本国籍=藤森謙也)問題・・等であった。(スカイダイビングに興じているのは地元の富める人たちであろうか)

Peace_boat_810_1

 05年6月次回のペルー大統領選出馬を表明していたフジモリ氏は、同年11月極秘出国してサンチャゴ入りし、7日チリの警察に身柄を拘束された報に接した(私達が丁度ペルー滞在中であったが知ったのはペルーを出てチリ入国直前だった)  つまり同時間帯にチリに居合わせた事になる。その後国民はペルーへの強制送還を求めたがチリ政府は法的解決を模索し、結果的には06年1月ペルーの選官は大統領選への出馬を認めないとした。今は支援者である日本人の女性実業家と結婚しサンチャゴの自宅で暮らしているという 。Peace_boat_806 当年68才。移民の子としての思いや日本の援助の引き出しも大きく左右しての事だろう。タイでは先日タクシン首相が訪米中にクーデターが起こり、イギリスへの出国を余儀なくされた。(日系移民の1,2,3世と交流するため移動するバスからみた貧民層街。地方から野放し状態で都市に流れ空き地に次々と掘っ立て小屋を立て住み着く。小屋は丘の上まで延びていた。こんな人達には絶大な支持があり、彼の帰国を待ちわびているとガイドの説明あり) 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

68)日系3世JETで来日

2006年09月26日 | ねったぼのつぶやき

Peace_boat143_1

 GET Teacherの多くはJFTプログラムといって日本の学校で英語を教える目的で来日し、もう少し滞在したいという人が多かった。中には海外から応募してきた先生方もいる。リーブシィはその1人だった。JFTは英語に接する機会の少ない地方ほど割り当てが多かったようで、徳之島、宮崎、群馬、金沢から集まっていた。リーダーのKumarもそうやって3年間宮崎で働いたのちBoat乗船5回目だと言っていた。

Peace_boat132_1

 スペイン語教師のN氏(カナダ、ペルー、イタリア国籍)から聞いた話はこうである。祖父が沖縄からペルーへ移民してきた。祖父は若かったのだろう沖縄の女性と見合い写真で結婚を決めたらしい。イザその女性がペルーへ来て所帯を持ったが不満もあったようだ。娘が生まれ長じてその娘はイタリア系の男性と結婚した。つまりN氏は日系とイタリア系の祖父母を持つ事になった。

Peace_boat039_1

 日系の祖父母は働くだけ働いた。躾も厳しかった。一方イタリア系の祖父母はヨーロッパスタイルで事あるごとに集い賑わっており、自分達もイタリアの祖父母になついた。2世である両親は商売をし一時は繁盛もした。勿論働き通しで夜は9時頃まで働いており、子供の養育はアフリカ系のメイドが主にした。そんな家庭環境で学業に励み、学業、スポーツ共にいい成績だった。(スペイン語の無料講座)

Peace_boat181

 その後ペルーの経済が破綻し母方の親戚が在住するカナアダへ移住した。父親はフランス語をしゃべれず仕事を得られないため主夫をするしかなかった。妹も大いに落ち込むこととなった。母親にはバイタリティがあって働いた。スポーツの得意な少年は程なく言語も獲得し周りに馴染み大学を無事卒業した。(語学学習グループでのミニ運動会 スペイン語研修希望者は少なく総勢9名)

Peace_boat195

 そんな訳で彼はスペイン語、フランス語、イタリア語、英語が話せ、3年間日本でJFTをやったというから日本語も可なりできたと思うが、アフリカの「英語でサファリ・ツアー」では私達の担当であったのに日本語での会話はせずじまいだった。Peace_boat196 風貌は日本人で沖縄顔。日本語読みの○○○は1世の祖父母の命名になるといっていた。将来はイタリアに住みたいと言っていた。ペルーには親戚も多数あるのだろ。会場から合流した親戚と抜け出す姿を見かけた。(同運動会で総数150~60名。最後はゼスチュアー 英語で書かれた短文を代表者がゼスチャーし正確に答える競争 ×チィームの代表はごらんの通り水没!)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彼岸花

2006年09月24日 | 捨て猫の独り言

 少し汗ばむが自転車で通勤していると 、どこからか金木犀の甘い香りがしてくる。通勤途中の玉川上水の土手に彼岸花がある日突然姿を現した。いつの頃からか我が家の庭の内外にも彼岸花が自生して、少し遅めではあるが毎年その時が来ると律儀に姿を見せてくれるようになった。その数が今年は150本ほどだ。むかし墓所などに群れ咲き不吉な花と忌み嫌われていたという記憶がある。

 雨が続いた先週は電車で通勤した。久しぶりの電車で目につくのは 「紅満ちる華の秋」 の色鮮やかな車内広告だ。所沢の奥には高句麗からの渡来人が住んだ高麗(こま)の里がある。蛇行する高麗川の一部に、まるで巾着袋のような特異な地形が存在してそこは肥沃である。そしてそこは巾着田と呼ばれ春には菜の花、秋にはコスモスのハイキングコースができる。その巾着田になんと100万本の曼珠沙華の大群落がある。まさしく今が見頃で大変な人出だろう。ボランティアの支えがあるという。以前は無料であったが現在は200円の入場券が販売されているということだ。

 京の味便りという通販誌に彼岸花についてつぎのことが掲載されていた。『赤い花は1週間もすると萎え、花が終わった後に葉が伸びてきます。1本の茎を共有しながら花と葉は決して出会うことはないことから韓国では彼岸花を 「サンシチョ」 と呼び 「相思華」 と書きます。花は葉を想い、葉は花を思い焦がれているから 「相思華」 というわけです』 これまで私はこんな思いでこの花を見ることはなかった。

 曼珠沙華を辞書で調べてみると天上に咲く花。白くて柔らかく、見るものに悪を離れさせる働きがあるとある。昨年の故郷の同級生のメールで彼女の庭の白い彼岸花の話があった。いつかこの目で見たいものだ。ところが先の通販誌には 「天上界の花、赤い花」 という意味で、おめでたい花が天から降ってくると仏教の経典にあると書かれている。赤か白かで多少の混乱がある。盛りが1週間のなんとも不思議な花だと思う。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

67)2大運河と関係者達

2006年09月23日 | ピースボート世界一周

Peace_boat_720

 スエズ運河を開通させたレセップスは、パナマ運河も海面と同一水位の水平航行式のスエズ運河方式で1880年着工したが資金、技術的な問題で9年で放棄せざるを得なかった。両運河の地形的条件は違いすぎたのだ。(いよいよ運河通過だよー)

Peace_boat_726

 引き継いだ米国の手法は、人造湖や閘門(水面に高低差のある場合、水量を調節する堰で、水面を昇降させて水や船を行き来させるための装置)を作り、大西洋より24M海面の高い太平洋へ船舶を階段式に押し上げ、80Kmに及ぶ道のりを岡超え(水超え)させて移動させる方式であった。(向かって左側の水路、特別士様の電気自動車も準備態勢をとる。船から身を乗り出す人々)

Peace_boat_728

 最初のガトゥン閘門は立て続けに3つ堰があって、1回毎にユックリ給排水を繰り返し9mづづエレベーター様に揚がり、海抜26mガトゥン湖に船を押し上げた。各エレベーター様の巨大な堰は幅居32、3m水深12mでパナマックスと呼ばれていたが、我々のBoatも真上から見下ろす限りギリギリの幅に見えた。1回の通行料が2000万円やに聴いた。(両軌道から数台の自動車で船を固定して曳航。前方の水面は一段高く揚っておりあの水面まで曳き揚げるのだ)

Peace_boat_739

 閘門は下の写真の様になっていて、夫々が反対方向に一方通行になっていた。幅のある中央壁の上にあるコントロール室を挟んで、左右に電気自動車用の軌道が敷かれ夫々対岸にも同様の軌道があった。つまり両側の数台の電気自動車は船舶が閘門の中央に位置する様に固定して走る牽引車だ。(ガトゥン閘門をぬけ一部狭くて難工路を極めたというゲイラード水路。2001年に3億円掛けて拡幅工事がなされ船のすれ違いが可能になったという)

Peace_boat_751  専用の電機機関車は日本の東洋電機製造製で、自分達が作った自動車を見たいがために乗船したという方がいた。我々には不確かだったが、ある種の記号を見つけて「あった!」と喜んでらした。土地の方だろうか。船上の我々を日本人と知るやポケットから日本紙幣を出して、愛嬌をふりまいてくれる人 もいた。日本人も2~3人見たが(監督orメンテナンス?)仕事熱心で気ずかないのか声掛けしてヤット話が通じ「どちらまで?気をつけて」と手を振ってくれた。アフリカでも自分達が建てた電柱が残っていたと感激している男性もいた。同じような思いを各地で抱いた殿方ももっと沢山いらしたろう。(太平洋岸に近づき段々に水面を下げている。左右の水路が同じ高さになっており通行、軌道の様子がよく解る。自動車に曳航されたBoatは左で見えないが、右の最後の堰は太平洋の水面と同じ高さになっている。3つの閘門=6つの堰を渡り通すのに朝から夕迄要し、運河を抜け切った時にはライトがつき始めていた)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

66)パナマ運河鉄道車窓

2006年09月18日 | ピースボート世界一周

Peace_boat_693

 小さな国は常に利権に絡んだ数々の歴史を歩まされてきた。パナマの歴史も例外ではない。運河はパナマ地峡を開削し太西洋と大平洋を結ぶ要所だったため、アメリカは一方でコロンビアからの独立を支援しつつ、他方ではパナマ運河条約を結び運河の建設権、永久租借権を取得して1914年開通させ、パナマ共和国に正式に返還されたのは1999年だった。(運河と沿って走る鉄道)

Peace_boat_672

 鉄道は運河に先立つ1855年に開通し、大西洋岸のコロンから太平洋岸のパナマまでを結んでおり、運河建設の際も重要な役割を果たした。2001年再開された鉄道に乗って1時間余り、車窓からほぼ並行して走る運河や運河上の船、熱帯林の風景を楽しんだ。(熱帯林を思わす向こうに運河をユッタリ渡っている客船)

Peace_boat_698

 鉄道を走る貨車は客車と貨車と連結されており長かった。客車のうち2両は天井、側面いずれも透けて見渡せる作りになっていて、冷房も効き快適そのもの。各車両ではカウンター越しに飲み物やおつまみも注文できる仕様になっていた。(窓越しにほぼ180度みわたせる列車内)

Peace_boat_650bokashi

 各車両のサービスはそれだけではなかった。見所案内。綺麗どころを集めたと思われる笑顔と合唱、小楽器の演奏、オット!忘れてはいけない「お土産」の販売まで付いていたのだ。Peace_boat_704 彼女らは元々の肌なのだろうが小麦色で健康色、笑顔も自然で嫌味がない。肌が小麦色だからなお目立ったのだが歯が白くて笑顔全体がひとしお輝いて見えた。(カウンター前で舌ベロおじさんと、合唱のサービスをする乗務員。赤シャツの青年はズット船旅を共にした通訳ボランティア・同じ立場の青年達が14~15人いてレクチャーの時も大活躍)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

捨てる

2006年09月14日 | 捨て猫の独り言

 来年の3月には私の職場の机を明け渡さねばならない。そのための準備を始めよう。処分しようか迷って自宅から職場に運んだ本がある。手書きの学級通信2年分、学外の研修会の報告集、校内の各種委員会の最終報告書などがある。どれもかなり昔のものばかり。いつか読み返すこともあろうかと保存するが読み返したためしがない。使いかけのノートもいくつかある。学生の時からノートを使い切ることができなかった。私を特徴づける性癖の一つと自覚している。

 筆記用具などの文具類で古くなりすぎて使えないもの、同種のもので使いかけのものなど数多くある。写真はクラスの入学記念、生徒のスナップのほか教科の送別会や職員旅行などかなりの枚数になる。写真のいくつかは裏返しにしてシュレッターにかけよう。机の上で目立つのは教材プリントを集めたB4サイズのクリアファイルである。これは再利用している数少ない例だ。めんどうだがいずれプリントはファイルから一枚ずつ取り出して処分することにしよう。

 自宅の全ての部屋が天井までゴミで埋めつくされた。奥のベッドまではヘッドランプを頼りに匍匐前進で辿り着くしかない。こんな特殊なドキュメンタリーを見たことがある。いわゆるゴミ御殿である。匍匐前進するリポーターの姿が長々と写し出される。そこで生活している当事者を徹底的に取材できていたら秀逸な番組になっていただろう。当事者のコメントを引き出すことは不可能だったのだろうか。惜しまれる。

 仏法者はお袈裟と応量器のほかは物を持ってはならない。こんな生き方もある。私は職場でも自宅でも多数の不要物に囲まれて生活している。ワープロ、ビデオ、カメラ、テープ、レコード、ステレオなど使うことのない古い型の機器がある。これからも読むことはなさそうな読まれていない本、もう袖を通すこともなさそうな衣服、その他数限りなしである。無駄こそ文化と自らを慰めてみる。早い機会に多くのものを捨てよう。捨て猫を名乗る私に 「分別さえも捨てよ」 との声がどこからか聞こえる。すなわち自分を捨てるのだ。

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

65)誕生日を祝って貰う

2006年09月13日 | ピースボート世界一周

Peace_boat_738

 運動会の際にも触れたが、船会社からサービスの一環として、乗船中に誕生日を迎えた乗客にケーキが届けられ、ウェイター、ウェイトレスも集まってハッピーバーズディを歌ってくれるシステムになっていた。

Peace_boat_7183

 実は私も運よくその期間に当たっていて、あやかる事にした。当日の朝先ずホワイトボードにHappy Barth Dayと記名されていた。昼時、語学クラスののちそのままダイニングルームに直行し、昼食を共にしてクラスメートと職員、周りのテーブルの人達に祝ってもらったのだ。自分の誕生祝は初めて。入口でいつものカードを提示し、誕生日ですと告げるだけで食後にケーキは運ばれて来た。予め会社の方は数を把握しているのだろう。

Peace_boat_719_1

 私の3日後には担任のリーブシーの誕生日だったのだが、彼は地球資源、環境保護、動物愛護などの立場からベジタリアンより更に厳格なビーガンだったのだが、動物から産生される肉は勿論のことミルク、卵すらも摂らない彼用のケーキを会社は用意してくれたのだった。見事なものと感心した。

Peace_boat_721_1

 ここでも老若男女で差異がでた。若手の男性の多くは自分の誕生日を申し出て、祝ってもらうのは「やぶさかではなかった」。ところが中高年のオジサマ方はといえやっぱりテレるのか「やぶさかなよう」でホンの数人のみだった。女性の大方はチットも「やぶさかではなかった」けれど。殿方テレるのも程々にしないと、人生後半楽しみ半減ですゾ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

64)帰国後の自主企画2

2006年09月09日 | ピースボート世界一周

Peace_boat_038

 去年の今日の日記にはダナン寄港没、ビンゴ大会、GETwell come party、ボックササイズ参加とある。アレから悲喜こもごもの一年が過ぎた。下船後の最大の悲しみはkumarを失った事であり、最大の喜びはビデオの試写会で51名の皆さんにお会いできた事であった。

Peace_boat_015

 そして先日私にとっては2回目になるお誘いの連絡を戴いた。ウォーキングの自主企画や、埼玉県人会の担い手?である方からの案内であった。内容は10月13日、「武蔵野の雑木林でのウォーキングと、小江戸川越城下町の散策」をしませんか?と14日の川越祭りにかかる日取りでのお誘いであった。勿論参加だが長野の船友にお知らせしたら「行く、行く」の返事でこれまた楽しみ!(GETteacherの紹介、中央は今は亡きリーダーのKumar)

Peace_boat_937

 船内では船を運航する船会社による歓送迎会やライブ。ツアーを扱う旅行業者による船上説明会や時差調整日、1時間で1日を過ごす「スーパーダッシュディ」。GETteacherによる語学学習やお楽しみ企画。NPOのBoat側によるレクチャーを含むあらゆる企画等、船の巡航に沿って適宜調整しながら、長い船旅をより楽しく、実りあるものにしていく工夫がなされていた。(満月の夜、親日派のギタリストのギターを楽しむ)

Peace_boat_988_1

 その一角に自主企画が大きなウェイトを占めており、Boat側もサポートしてくれたのだが運営や参加は全て乗客に任されていた。コミットの仕方いかんによって、船旅の楽しみも左右されたのでは?。(日本の和芸の舞台。三味線の上手い方が自分の物を持ち込み、お弟子さんを募って仕込み、ご両人が発表した。歌っているのが師匠。民謡が又聞かせる。お琴を持ち込んで弟子を募ったご婦人もいた)Peace_boat_985

 単発的なものと違い一つの企画を長丁場に渡ってやり通すという事は容易ではない。強い意志と体調管理なくしてはやり通せない 私は企画者とは異なり早朝の3大企画に対して参加者に過ぎず、95%位の出席率だったがそれでもかなりの努力を要したPeace_boat_1463_1。何せ飲み屋は24時過ぎまで営業。時差調整で1時間前倒しはしばしばだったのだから。(同じ舞台。女装の紳士が脚本を書き、男衆4、女衆2人でシラをきる白浪6人男女はヤンヤの喝采を浴びた。下段の紳士はいつもギターを爪弾き、周りには常に聞き手が集まって来て楽しい語らいが繰り広げられていた)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鴨池垂水フェリー

2006年09月07日 | 捨て猫の独り言

_103  鹿児島に8月25日から4泊した。滞在中に地元紙の読者の投書欄に注目した。この夏の甲子園での鹿児島工高の健闘を地元はどのように称えたか。私のような県外組にとって 「なんつぁならん」 は事件だった。準準決勝の福知山成美戦でのことである。決勝ホームランを放った主将がインタビューに答えて 「言葉にならないくらい嬉しい」 ということを方言で言い切ったのである。「なんつぁならん」 を理解できる多くの人たちにある種の感動をもたらした。鹿児島工高は準決勝においてあの早稲田実業に敗れた。地元投書の反応は生真面目で冷静との印象だった。 

 市立美術館で開催されている 「20世紀イタリア具象彫刻最後のマエストロ・クロチェッティ展」 を見た。市内の中学生や高校生がレポート用紙を片手に作品を見ながら何やら書き込んでいる。ジュニアガイドという栞が受付で配布されていた。5つのみどころをあげて解説している。受付に引き返し私にもぜひとお願いして手に入れた。この日初めてクロチェッティの作品を見て魅了された。おしゃれで洗練されているねと思った。彼は03年に90歳で死去している。

 鴨池から垂水行きのフェリーに乗ることにした。船から県庁の建物の方を見ていまさらのように気がついた。手前に見えているホテルはつい5ヶ月前に娘の結婚披露を行った所である。フェリーは鹿児島市から大隈半島の中核都市である鹿屋市へ行く場合などに利用される。乗船時間は40分だ。垂水港には広大な無料駐車場がある。車のフェリー代金は馬鹿にならないからだ。今回の小旅行の楽しみは桜島を裏側から眺めることであった。垂水港から国分方面へのバスに乗る。日本一長い足湯がある新名所 「道の駅たるみず」 で降りて温泉に入る。再びバスで桜島口まで引き返して乗り換える。バスは2人の乗客を乗せて溶岩道路を疾走して袴腰に出る。そこからはお馴染みの桜島フェリーで鹿児島に戻る。ぐるり桜島囲い込みコースと名づけた。故郷再発見で頭を悩ますのもまた楽しい。

 鹿児島中央駅の駅ビルの最上階には大観覧車とシネマ街がある。昼間に一人で観覧車に乗った。少しでもその気があればすぐ実行が最近のモットーである。高いところには弱いほうなので足の裏の神経が過敏に反応する。15分で料金は600円である。夜になって89歳の父と82歳の母と3人で外食した。そのあと駅ビルに誘って父母を観覧車に乗せた。冥土の土産ができたと言いつつ降りてきた。まんざらでもない様子である。写真は道の駅たるみずにて。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする