玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*小平アートサイト

2019年11月28日 | 捨て猫の独り言

 柿とハナミズキとサルスベリは時を同じくして、すっかり葉を落とした。これでようやく落ち葉ひろいから解放される。器量がいいとは思わないが、庭ではツワブキの黄色の花が輝いている。その肉厚の葉は生命力に溢れ、茎は食用にもなる。そしていつもより遅く、ヒガンバナ科のネリネがようやく花開こうとしている。長年見慣れていた車が庭から姿を消して一月ほどが経った。

 本年度で32回目という小平アートサイトが11月15日から24日まで開催された。武蔵美の大学生と若干の他大学生の作品が中央公園を中心に、通学路、商店街に展示される。私の見学は何だかんだでのびのびになり、残すところ3日になっていた。あいにくその3日は冷たい雨が続き、ようやく最終日の24日の午前中に晴れ間が見えて、あわただしく見学した。そして午後にはこれも最終日となっていた日展の見学に出かけたのだった。

 

 中央公園に本部テントがありそこでパンフレットをもらうことができる。会期中はさまざまなイベントが催されたようだ。主催は小平アートサイト実行委員会、後援は武蔵野美術大学、小平市役所、小平市教育委員会である。油絵学科の作品は鷹の台駅の地下通路で見ることができたが、ほとんどは彫刻学科、デザイン学科の野外展示を見ることになった。いくつかの作品をカメラに収めたのでご覧ください。

 

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*奄美旅行補遺

2019年11月25日 | 捨て猫の独り言

 喜界島2日目の午前中に地下ダムを見学し、トンネルの出口にある農産物加工販売施設にあるカフェで休んだ。すぐそばにオオゴマダラを観察できるネットで囲われた場所があった。勝手に中に入ると食草や、蜜源の花々の間を「新聞蝶」とも呼ばれている無数のオオゴマダラがゆったりと飛び回っていた。食草のホウライカガミには「黄金色のさなぎ」が多数ぶら下がっているのを見ることができた。

 大相撲の西前頭二枚目の明生は瀬戸内町の出身である。期待が集まる24歳の力士だ。1965年に20346人いた瀬戸内町の人口は毎年減少を続け今年の9月末現在は8937人という。なかでも加計呂麻島などの減少は著しく中心地の古仁屋への集中化が進んでいる。加計呂麻島にある体験交流館に「広報せとうち」が置いてあった。その11月号の表紙には「明生関とせとうちの宝物たち」とあり、明生が島の宝物である8人の小中学生と一緒に写っていた。   

  最終日は一番のフェリーで加計呂麻島から古仁屋に戻り、観光案内所でくわしいバスの時刻表を手に入れて、一日乗車券を購入した。途中下車の最初はマングローブパークで、展望台からマングローブ原生林を見下ろした。つぎは鶏飯専門店での昼食、最後は奄美パークにある田中一村記念美術館で日本画鑑賞である。田中一村は栃木県の生まれ、奄美大島と運命的な出会いをした画家である。それから予約していた18:50奄美空港発の飛行機で鹿児島へ戻った。(喜界島のビーチと巨大ガジュマル)

 

 案ずるより産むが易しというが、今回の旅は人との出会いなどいろいろなことがうまい具合に展開したように思う。体力的にはきつかったが予定になかった自転車で走り回ったこと。90分かけて(料金は300円)喜界島をバスで一周したこと。黒糖焼酎の蔵で丁寧な説明を聞いたこと。加計呂麻の来々夏(ここなつ)ハウスが貸し切りだったこと。奄美大島縦断で予定になかったマングローブパークに立ち寄れたことなどである。

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*奄美旅行②

2019年11月21日 | 捨て猫の独り言

 今回の旅行は喜界島がメインであり、一般の旅行会社は企画することのないコースだ。大型フェリーは喜界島には立ち寄らない。「フェリーあまみ」は鹿児島を17:30に出港し、時速38㌔(20.5ノット)で11時間の船旅である。ほとんどの人が乗船早々に和室で横になり目を閉じていた。早朝4:30に喜界島の「湾」の港に着く。喜界島のフェリー発着は一日に早朝と深夜の2回だけだから港湾関係者は大変である。(鹿児島・北埠頭、サトウキビの一本道)

 

 喜界島は隆起珊瑚礁の平坦な地形の島だ。そこに基幹作物のサトウキビ畑が広がっている。恒常的な水不足を解消するため、海に流出していた地下水をプールする地下ダムが建設された。そこから汲み上げられた水は7月~9月にかけてスプリンクラーでサトウキビ畑に散水される。予約なしで地下ダムのトンネルに入り見学することができた。「いのちの湖」というパンフレットに地下ダムの詳しい説明があった。(朝日酒造、早朝の出港)

 

 初日は自転車でまず島の中央部分にある台地を目指した。好天に恵まれ汗だくになりながら自転車を押して登ってゆく。人影はほとんどない。道に迷ったら海を目指して下れば必ず島を一周しているバス通りに出るから心配ないと教えられた。その通り、この日に道に迷った三人が別々の道を駆け下って最後には合流できた。「蝶の島」と呼ぶだけあって、見晴らしのよい「百之台公園」辺りでは各種の蝶が私達を出迎えてくれた。(加計呂麻島の来々夏ハウスにて)

 

 2日目の午後は朝日酒造で三人だけの酒蔵見学が実現した。宿の主人と同級生だという方の案内で、黒糖焼酎ができるまでのすべての行程を見て回った。意外なことに、原料はタイ米と沖縄県の粟国島産の黒糖を使っていた。翌早朝に喜界島を出たフェリーは大島海峡の古仁屋に着き、そこから小型のフェリーで加計呂麻島に渡った。宿は大島海峡の白砂のビーチにあり、宿泊客は他になく宿の環境は喜界島のそれより数段上だった。

 

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*奄美旅行①

2019年11月18日 | 捨て猫の独り言

 鹿児島への帰省とさらに南の奄美への旅行を終えて18日の月曜に我が家に戻った。9泊のうち奄美には5泊している。一人暮らしで頑張っている95歳の母を訪ねるのは1年3か月ぶりだった。足腰が弱り耳も遠くなり記憶力も急激に衰えていた。もっとも耳の遠いのは私も同じなのだが。近くに弟と妹がいて生活のサポートをしてくれている。連続的に母の変化を見ている弟と妹と、久しぶりに見る私とは母の様子について感受するものは違うだろう。

 旅を終えて最寄駅から自宅に戻る道すがら、歩道には落ち葉が風に吹かれてカサコソ音をたてていた。南では秋の訪れを感じたことはなかったのでその違いをあらためて気付かされた。今回の旅は帰省が第一の目的だったが、それだけではもの足りないという思いが私には強かった。それぞれの事情でほぼ二カ月おきに鹿児島に帰省している高校時代の同級生二人に奄美旅行を提案したところ、快く応じてくれたのだった。

 私は幼い頃に奄美で育ち、その後も何回か奄美を訪れたことがある。誘った二人は奄美で暮らしたことはなく、旅行計画は私が担当することになった。この時期は旅行客の混雑もなく、各種運賃も安めだろうという思わくがあった。そして75歳の男三人は黒っぽいリュックサックを背負って鹿児島本港の北埠頭に各地から集結した。旅は飛行機でも列車でもなくフェリーでスタートした。

 奄美の案内役を無事に果たしたいという思いもあった。この旅で私が期待していたことの一番目は大島海峡のクルージング、二番目は隆起サンゴ礁の島である喜界島を360度展望できる百之台公園に登ること、三番目は喜界島の中央に位置するサトウキビの一本道を辿ること、四番目は蝶の島でオオゴマダラの黄金のさなぎをこの目で確認すること、五番目は喜界島にある黒糖焼酎の酒蔵見学などであった。しかし順位付けするのはおかしなことだ。 

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*戻ってきた野外展

2019年11月11日 | 捨て猫の独り言

 10月27日に武蔵野美術大学芸術祭に出かけた。会場の雰囲気が毎年微妙に変わるのは当然だろう。12号館の地下にある食堂で食事するのも楽しみの一つだ。同じ地下にある広い展示室には芸術祭コンクールにエントリーされた38作品が一か所に集められていた。これまで作品は異なる場所に分散して展示されていた。この方式は踏襲して欲しいものだ。

 ゲスト審査員の3名によって優秀賞が3作品に、投票による来場者賞が1作品に与えられるという。審査員の3名の中に油絵学科卒業の松本大貴という方がいた。日展に出品しているのではないかと調べてみたが、白日会の会員であるが、これまで日展には出品していない。後日パソコンで4つの受賞作品を調べてみた。私が良いと思った作品が山本大貴賞を受けていた。(右は山本大貴賞作品)

 

 大学の美術館の展示はいつ訪れても見応えがある。ポーランド共和国と日本の国交樹立100周年を記念して、同国を代表するアーティスト、スタシス・エイドリゲヴィチウスの50年に及ぶ活動の中から、細密画、パステル画などの絵画作品などが展示されていた。併せて大学90周年記念として「帝国美術学校の誕生」という展示もあった。

 11月5日の市報に「小平アートサイト」が11月15日から10日間小平市の中央公園などで開催されるというお知らせが大きく掲載された。たしか3年ほど前にこれまで長いこと続いていた小平から撤退し「ムサビアートサイト」として開催場所を国分寺公園に移したのだった。市報にはそのような経過はどこにも書いてない。まあ、そのことは水に流そうではないか。戻ってきてくれたことを喜びたい。

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*ねぎの話と聖書

2019年11月07日 | 捨て猫の独り言

 「火の海でもがいている意地の悪いお婆さんは生涯に一度だけ畑からねぎを抜いてきてこじき女にやったことがある。神様はお婆さんの守り神の天使に、ねぎをさし伸ばして火の海から引き出せたらお婆さんを天国へやってもよいと言いました。大かた引き上げられたところへ、ほかの餓鬼どもがそのねぎにつかまりだしたので、わたしのねぎだよ、おまえさんたちのじゃない、と言うが早いかねぎはぷつりと切れました」というのが「カラマーゾフの兄弟」にある「ねぎの話」である。

 これは不幸な過去を負う奔放な美女のグルーシェンカが子供の頃に聞いた話となっている。アリョーシャにもっと早く会いたかったという彼女は、私はその意地の悪いお婆さんなのだからいい人間なぞと思わないでちょうだいと訴える。アリョーシャは感激の微笑を浮かべつつ、ぼくはきみにほんの小さなねぎを一本あげただけと応じる。師と仰ぐゾシマ長老によると僧侶の仕事とは、このようにねぎを与えることだとなる。(話題のスミレちゃん)

 

 ゾシマ長老はカラマーゾフ家の事件の直前に死去する。人々は偉大な長老の早すぎる腐敗のにおいに衝撃を受ける。アリョーシャはグルーシェンカと別れて夜遅く僧院に戻ると棺の前に身を投げ出す。パイーシイ主教の読誦の声に耳を傾けはじめたが、疲労しきったからだはしだいにまどろみに落ちてゆく。読誦はイエスが水をワインに変えるという「ガリラヤのカナの婚礼」の場面にさしかかっていた。

 イエスが初めて奇跡を行なう時にあたって、人間の悲しみでなく喜びを訪れたと作者は強調している。さて、ヨハネによる福音書は、ほかの三つの福音書とは枠組みや形式が異なるいう。内容が神学的にもっとも進んでいることから福音書の中で最も新しいとされているようだ。「初めにことばがあった」で始まる。これまで聖書には無知の状態で「カラマーゾフの兄弟」を読んでいた。この機会にあと少し聖書に親しんでみたいと思う。

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*霜降の頃

2019年11月04日 | 捨て猫の独り言

 庭のツワブキが咲きだした。この季節の蝶の蜜源にはほかにサザンカ、チャノキ、菊の花などがある。ヒガンバナの後に咲くネリネはいつ咲くのだったか。今はまるでその気配さえない。道路に散らばるハナミズキと柿の落ち葉ひろいは適度な運動だ。今年は5月4日に経験したことのない大粒のヒョウが降った。特に柿はその時のヒョウで葉をズタズタにされた。ちぎれた姿でそのまま大きくなって落葉になっている。

 近くの農地に収穫寸前の大根が、勢いのある大きな葉を繁らせている。10月初めに種まきした庭のダイコンはやっと本葉が4~5枚になった。あと少しで間引いて1か所1本にせよと教科書にある。収穫までには3か月かかるという。はたして1月には教科書にある写真のような大根に会えるのだろうか。不安の方が大きい。初めての栽培だから葉っぱだけの収穫でも良しとしよう。

 以前からの上腕部の痛みが、不思議なことにやわらいできた。まだ、なにやらしこりが残っている。痛みだしてからは鉄棒のぶら下がりを止めた。いつのまにやら2時間ウォークにも出かけなくなっている。それで気に入っていたナンバ歩きから遠ざかった。筋力の劣化が進んでいるのは間違いない。ここで深刻になることもあるまい。時の流れに身を任せ、75歳を迎えようと思う。

 

 新堀用水の白濁と、クヌギの樹液が隠されるという二つの異変があった。9月9日の15号、10月12日の19号の台風は甚大な被害をもたらした。家の近くの新堀用水は玉川上水に沿って流れる小川である。普段は透明な水だが19号から4週間も経つというのにいつもと違う白濁した多摩川の水が流れている。そして玉川上水のクヌギの樹液には多くの動物が集まる。スズメバチの危険を理由に管理者が樹液部分を隠してしまった。これではルリタテハの観察を楽しみにしていた小学生が可哀そうだ。 

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