玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*文字なき世界

2007年07月31日 | 捨て猫の独り言

 インカ帝国は南米アンデス地帯に15~16世紀(鎌倉室町時代)にかけて存在した。太陽を信仰し、トウモロコシなどの農耕が主体の豊かな社会。文字はもたなかったが、土器、青銅器、織物の製作技術は高く、多くの巨大石造建築を残す。私はまだ訪れたことはないがマチュピチュは日本人に一番人気のある世界遺産だそうだ。

 さて小林秀雄は講演テープの中で話している。本居宣長についての仕事は10年かかった。ここで宣長についてわかりやすく喋れなんてことはお断りだし、そんなことはできっこない。手っ取り早く苦労しないで解りたいということは現代の病気だ。解るということは苦労するということだ。宣長は 「人間は自分自身を知ることが出来るだろうか」 を問うたソクラテスと同じことを言っている。ソクラテスは文字を残さずに死んだ。

 文字なき世には文字なき世の心があったと宣長は言う。文字がなかったからそれだけ物覚えが良かった。記憶力は心の中にある。自分の力で過去を呼び覚ますのが生きる力である。現代の我々は新聞、本、テレビ、ラジオに託している。しかし物はよく知っていても自分の知恵はちっとも働かさない。対話の最も純粋な形は自問自答である。自ら問うことが大事なのに先生が隠している答えを探して、当ててみろという教育をやっている。これは自問自答ではない。

 このひと月自宅では坐禅をしていない。私の坐禅参加は流行追っかけのレベルであるようだ。しかし6月に続き7月も20日に参禅会に出かけた。私が現れるかどうか、若き住職は少しは気にしてくれたのかどうか。つぎの8月はお休みである。私は球形の座布団である坐蒲を自宅用に欲した。そして首尾よく手に入れることができた。実費は仏具屋さんに聞いてから支払うということになった。自宅の板の間でこれに座って講演テープを聴く。これで文字通り文字なき世界である。

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悲しき「さんさ時雨」より

2007年07月25日 | ねったぼのつぶやき

 「さんさ時雨」の記は公民館講座の今回版である。元武蔵野大学教授である山蔦恒氏がS54年念願叶って硫黄島を訪ねた時の記録であった。前大戦当時少年であった彼には戦争に確たる認識などありよう筈もなかったが、東北からの応召兵が多かった事と、恩師二人を亡くした事もあり心情の奥底にひたと疼き駆りたてる思いがあって、頼み込んでヤット遺族団のメンバーに事務局員として同行させてもらったと言う。

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 常のことだが、講師は手作りした資料を自分で朗読し解説を加えながら進めた。その日の講座は思いの詰まったもので心に沁みるものだった。28年前船に揺られて待望の島に近づくさま。船中で奇しくも両先生と同じ大体の人に会ったさま。戦傷であろう体型の変形のままに聞いた2人の死にゆくさまなど。

 漢文の先生は、ある日突如として日本刀を背に単身洞穴を飛び出し機銃斉射になぎ倒された。教練の先生は、栄養失調で殆んど動けない状態のまま洞窟内で火炎放射を浴びた。一番外側にいたため半身を焼かれ暫く苦痛に耐えていた後「俺も駄目だよ」の言葉を残し、壕の外によろめき出し自身に銃を放った。その時一番奥にいて助かったのがこの私だとその人は言った。

 次々と壕は潰され最後の洞窟に追い詰められた夜、僅かに生き残った部下達と別れの宴を開いた。食物も水さえなく、ただ湿った泥を布にくるみそれを皆で吸い合った。1人の兵士が嗄れ果てた声で「さんさ時雨」を歌ったが、その永別の歌声はとてもこの世のものとは思えなかった。薄明、重傷の隊長に別れを告げ兵は思い思いに敵中に切り込みついに1人も帰らなかったと言う。

 ~さんさ時雨か萱野の雨か 音もせで来て濡れかかる~ 「さんさ時雨」は東北の民謡で本来はめでたく、格調高い歌で祝宴には欠かせないとされているらしい。死におもむく切ない挽歌になろうとはと講師は話した。私は映画で見ていた各シーンの映像と、今日の話がオーバーラップし息詰まる思いで聞いていたが、「さんさ時雨」の段になって涙が溢れ暫く顔を上げることが出来なかった。

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*半端な生活

2007年07月24日 | 捨て猫の独り言

 これで良かったのだろうか。ついに一学期の終業式には出なかった。けじめもつかない状態で私の夏休みは始まった。そしてまた二学期の始業式にも出ることなく、二学期の授業に入ることになるだろう。非常勤という身分は半端なものだと生意気で贅沢な思いでいる。定年退職を迎えこれまでの生活を終わらせることの決断が出来ず、その生活を断ち切ることえの漠然とした不安で非常勤の生活を始めた。

 目標があればそれに向かって頑張ることができるとこれまで訳知り顔に教室では言ってきた。それでは今年の私の目標とは何であったか。正直に言って今年ばかりでなくこれまでの永い年月においても目標らしきことをあまり立てたことはない。あるいはそれに近いことを考えたとしてもやり遂げた例がない。これは欺瞞的な生き方と言われても仕方がない。いつも流れに流されるままに生きてきたような気がする。

 現在の興味はよちよち歩きの人のことである。つい最近まで 「はいはい」 していたのだ。保護なしには生きられないはかない存在への共感がある。あるいは意識の底に彼女の記憶の中に私が生き続けたいという願望をもつからか。幸い私にはそんな人達が合わせて三人いる。全て女性だ。もちろん関係の在り様は三人それぞれに異なることは言うまでもない。最近週末になると疲労を伴いながらも三人目のよちよち歩きの人との生活に心を奪われている。多くの人がしているように私もそうしている。

 夏休みになって10日ほどになる。高校数学はお休みだ。昼のテレビ番組(NHKスタジオ)で石田衣良とかカンサンジュンなどの素顔を偶然見て、ついつい聞き入ったりすることができるのも夏休みならばこそだ。小林秀雄の本居宣長を中心にした2時間の講演テープがありその肉声を一度聞き二度三度聞き直したりもした。時を忘れさせてくれるのが囲碁の勉強だ。長年腕を上げることが出来ずにいる。何かと継続が苦手な私だが今のところ碁盤に向かう日が続いている。いまで言う脳トレである。

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初・靴を履いておんもへ

2007年07月21日 | ねったぼのつぶやき

 8階建ての官舎と保育園を往復するベビーは、抱っこされての外歩きが大好きだ。家の近くにある緑道は刺激的らしい。そこは犬や人が絶えず通り、女学生に「かわい~い」と声を掛けてもらえて微笑み返している。川のせせらぎ、吹きぬける風、チラチラともれる木洩れ日、さえずる小鳥などで賑わい、アレコレ指さし声を出して共に囀っている。

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 ハイハイからにヨロヨロ歩きを始めるようになり途端に這わなくなった。ヨロヨロ~ヨチヨチと一週ごとに変容し、精神の発達も同様でまるで「人の進化の過程」を見ているようだ。

 近所の子供の声にも敏感で、先日初めてお靴を履いてオンモへ出た。双方とも興味津々。大きい子は小さい子を労わって遊ぶ。幼子の緊張の表情も緩んでゆく。驚くべきは早、ジーバーに対してパパママとは違った甘え方をも覚えつつある事だろう。

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祈・元気を取り戻して

2007年07月17日 | ねったぼのつぶやき

 今朝も早く目がさめた。ブラインドを開けると黄色い夜明けだ。黄色い夜明けや夕暮れにいい思い出はない。台風の前の風景だったような気がするが後だったろうか。私が中学まで住んでいた家は斜面を利用した造りで階下は物入れ仕様だった。そこの戸は荒作りで強い台風の時などは下から吹き上げる風で畳が持ち上がる事があって、3人の男兄弟達は面白がっていたが、私はいつも心配で一杯だった。(千葉で。新芽を吹く木)

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 この所日本全体がおかしい。世界がと言った方が正確だろう。昼前Babyの隣で添い寝をしていたらゆ~らゆらと来て一瞬身構えた。地震はいつも不安を掻き立てる。ただでさえ長い地下道や地下鉄はいつも私を不安にさせる。台風、水害に地震が続いた。夜次々と被害状況を報じるTVを見ていたらまたユラユラと来た。余震と思いきや全く別の震源地と続報があった。

 しかも震源地とは反対の太平洋側の広汎で発生した。その報道は無気味ですらある。被災地でTVを見ておられる方々の身体の苦痛と心痛をおもえばツライ。数年をおかず災害に見舞われている中越地方の方々”元気を取り戻して!”と祈らずにはおれない。    

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*移り気

2007年07月12日 | 捨て猫の独り言

 風邪に悩まされて、かれこれひと月になる。熱はないが痰が切れず咳が出る。咳で自分や隣人の睡眠が中断されることもしばしばである。まさか北京のスモッグのせいでもあるまい。やっと回復の兆しが現れてきたところだ。他人に感染するような悪質なものでなければいい。

 中国の蘇州の古典庭園は世界遺産になっている。そのうちの一つ拙政園の名は忘れることはないだろう。明の時代に造られた個人庭園で 「拙き者が政を為す」 に由来する名であるという。現代の日本で言うならば、さしずめ細川首相が引退後に私財を投じて造った庭園といったところだろうか。我が家の掛け軸の書は 「拙若(せつのごとし)」 の二文字である。ここに来て中国産の食品の安全性がクローズアップされている。中国よ急ぐなかれ。ここのところ私も安い商品に飛びつくことは止めにしている。

 昨年の暮れのことだ。西武ライオンズのファンクラブ加入の更新を止めた。同時にほとんど使用することもなかったレオマーク入りのクレジットカードは破棄した。今年になって西武球団にゴタゴタが起きた。ある日電車に乗っていてグッドウィル球場はその前はどんな名であったかどうしても思い出すことが出来ないでいた。家に帰ってネットで西武球場を検索してインボイスだったことを確認した。記憶力と同時に愛着の問題でもあるようだ。とうとう今年は新緑の季節に球場に足を運ぶことはなかった。

 週末に姿を見せる赤ちゃんが一年と二ヶ月で歩き始めた。こうなると赤ちゃんとはもう呼べない。この子はいつまで大人たちを楽しませてくれるのだろうか。6月15日に初めての年金の振込みがあった。このような境遇になって故郷の同窓生からの刺激も楽しい。有難いことに明日の答案返却で私の夏休みが始まる。久しぶりに碁盤を出して達人達の碁を並べるなどしてみよう。

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憲法学者・鈴木安蔵

2007年07月09日 | ねったぼのつぶやき

 鈴木安蔵の経歴を写すと1904年福島県にて出生。京大哲学科に進むが社会の矛盾を正すには経済学が必要と転科。’26年治安維持法違反代1号として検挙され大学を自主退学。以後憲法学と政治学を研究し民衆の立場に立った憲法学を確立。’37年衆議院憲政史編纂委員を初め憲法草案要綱の起草、憲法の普及に努める。 ’52年から静大、愛知大、立正大教授を歴任。’62年日本民主法律家協会憲法委員会委員長。’83年79才で逝去した。

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 ドキュメンタリーは硬苦しい。多くの人に見てもらうために「劇映画の手法」がとられた。従って笑い涙も織り込んであり、対社会、夫婦、親子の情景も描いている。老境の岩蔵のポートレートを見ると若い頃はソウであったろうと思えるほどに高橋和也は岩蔵を好演していた。その風貌は信念を貫いて年を重ねた清々しさも又示している。

 大沢監督は「九条の会発足式」に参加して老いてなおアピールしている人の姿に魂を揺さぶられ、10年振りの反戦映画は若者も引き込める脚本作りから始めた。改憲阻止の為には少なくとも2~300万人に見て欲しい。その為ならドンナ行脚も厭わないと話している。

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「日本の青空」を鑑賞す

2007年07月05日 | ねったぼのつぶやき

 自主企画映画「日本の青空」がこの春完成し各地で自主放映されている。 安倍総理になって特に「戦後レジームからの脱却」とか言って改憲を謳っている。介護や不登校など社会的な問題に取り組んできた小室氏は、「これまで60年間日本で戦争がなかったのは現憲法があったから。今こそ劇映画化すべきだ」と直感し、通常なら企業等から資金集めをするのだが、望むべくもなく1口10万円で2000口2億円の予定で委員会を立上げた。

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 一方原爆、学童疎開、東京大空襲、沖縄戦などの作品群を生んできた大沢豊監督は、一昨年日本の良心・知識人を代表する9人のアピールを聞いて映画人としての魂が揺さぶられ参加したという。

 商業映画でない映画をみることは一般的には少ない。宣伝は小ポスターと口コミだけ。そんな映画をディに参加された7人と職員で一昨日見に行った。私自身も知らなかったが、現憲法は憲法学者「鈴木安蔵」らの草案を下敷きにしたもので、草案を作る過程、男女平等を標榜した経緯、憲法発布に至る日米のヤリトリ等興味深く見た2時間だった。(戴いた花オクラ。大きくナ~レ。)

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