玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*小満の展示

2016年05月30日 | 玉川上水の四季

 東側のパネルケースには野菜を描いた数多くの水彩の小品が展示されている。ギャラリーを訪れた人の中には、今回はいつもと違うという印象をもつ人は多いだろう。私には「今年もお元気のようだ」という思いがする慣れ親しんだ展示だ。ブロッコリー、だいこん、ネギボーズ、なばな、きゅうり、のらぼうな、たまねぎ、オクラ、なす、ミニかぼちゃ、ピーマン、みょうが、いんげんなどを描いた小品が多数並ぶ。

 作品には小さく「か」という朱の落款があるだけだ。「直井一枝作品展~野菜との語らい」の「ごあいさつ」には「初めて展示したのは80歳の時です。以来毎年続けて今年で7回目になります。これまでは描くことにこだわっていましたが、最近は自分の作った野菜との語らいの時なのです。言ってみれば野菜が語りかけてくるのです」とある。作者はギャラリを始めて8年目を迎えた鈴木さんの姉上である。

 西側には「ウツギ、栗の花、ガマズミ、桑の実」と「ドクダミ、コヒルガオ、ユキノシタ、ヤブジラミ」の8枚の写真がある。解説に「マルバウツギ、エゴノキからウツギ、イボタノキと白い花が引き継がれました。これから栗の花が咲きだします。それを待っていたのがアカシジミです。桑の実には、まもなく育つムクドリの親子が集まります。小満とは万物がほぼ満ち足りていて草木は枝葉を大きく広げ繁るという意味」とある。

 だいぶ前からギャラリーには「ギャラリーの敷地内には蝶の食草であるスミレを育てていますので保護してください。立夏になりギャラリーで幼虫越冬したツマグロヒョウモンが産卵に来ています」という小さな注意書きがあった。先週わが家の庭に蝶が舞いおりた。撮影に成功して調べてみるとツマグロヒョウモンである。きっとギャラリーから飛来してきたに違いない。(ツマグロヒョウモンとエゴツルクビオトシブミ)

 

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*「漱石の孫」を読む

2016年05月23日 | 捨て猫の独り言

 単行本「漱石の孫」は、NHKテレビ2002年放送の「ロンドン100年ぶりに祖父の街へ」の収録のことから書き起こされている。それは漫画コラムニストを本業とする夏目房之介52歳の時のことである。房之介の父の純一は漱石の長男である。若い頃から欧州に遊学し、漱石の英国嫌いとは対照的に終生その地を懐かしみ「戦争がなければ日本には帰らなかった」とよく言っていた。バイオリニストであった純一は1999年に91歳で没している。

 この本に1950年生まれの房之介が幼い頃に姉と祖母の三人で池上の祖母の家で撮った写真がある。鏡子夫人はふくよかで穏やかな笑顔で写っている。その祖母は1963年に85歳で没した。「祖母は感情の器の大きい女性だったと思う。漱石のように<感情の底を掘り崩してしまう>ようなタイプにはこのくらい感情の大きな女性が必要だったかもしれない」と書く。そして祖母が三橋美智也を好んで聞いていたことなどを回想している。(白丁花、ガマズミ)

 

 祖父漱石の個人主義は倫理的な社会思想としての側面をもっていた。世の中の仕組みとして公共化されることを前提にした理念と言える。父純一の個人主義はそれよりはるかに個人で完結する色彩の強いものだったと思う。「利己主義は自分のことしか考えないが、個人主義は他人も同じ個人であることをつねに考え尊重する」と言い、個人の自然なありように近い思想で、そこには国家との身のけずるような緊張感はない。(センダン、ヤマボウシ、イボタノキ)

 

 僕の時代のその人らしさのイメージは他者の視線にさらされたその人の表面の乱反射でつくられるものである。自己視線に反射して見える自分は内面の自己のイメージとなるけれど、後者だけが「真実」で他が「虚偽」である根拠はじつはない。かんたんにいえば漱石の時代には自我の近代的枠組みの「建設」が必要だったが、それがむしろ邪魔なカッコになったのが僕の時代だと書く。あるページに新宿御苑の大温室で雪を眺めつつ色鮮やかな熱帯の花や巨大なシダに囲まれて熱いコーヒーを飲んだ。このときの、いわくいいがたい「うれしさ」は今でも覚えていると書いている。

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*「父・夏目漱石」

2016年05月19日 | 捨て猫の独り言

 朝日新聞は「吾輩は猫である」を連載中である。漱石はこの小説で英語教師から一躍国民的作家となった。漱石はよく読まれていると言われているが本当だろうか。私は今に至るまで漱石作品をまともに読んだことがないのでこの機会に新聞の連載に目を通している。半藤利一さんは「日露戦争後の悪くなっていく日本、国家がリアリズムを失っていく様子がよく書けている」と解説している。

 漱石への私の関心は高まり、夏目伸六著「父・夏目漱石」を読んだ。夏目伸六(1908~1975)は兄・純一と同様に潤沢な父の印税で若い頃にドイツをはじめとするヨーロッパ各地を遊学している。編集者であり随筆家であった。8歳で死別した父を私はずっと恐れてきたと書く。死後私はだんだんと父の病気のことを聞くようになったとし、小さい頃に父と兄と出かけた散歩の途中に自分だけが父から凄まじい打擲を受けた出来事について書いている。(写真は4・6武蔵美にて)

 

 二十数年後に「私の小さい子供などは兄が何かくれと言えば弟も何かくれと言う。すべて兄の言う通りをする。恐るべく驚くべき彼は模倣者である」と書いた父の言葉に出会って、あの時の父の激昂の原因に思い至る。「おそらく父は生来のオリジナルな性癖から、絶えず世間一般のあまりにも多い模倣者たちをー平然と自己を偽り他人を偽る偽善者達をー心の底から軽蔑もし憎悪もしていたに違いない」と書く。

 晩年の漱石は良寛の書に憧憬するようになったという。「父がこれほどの執心を示した相手は良寛の他にはいない。書体が次第に良寛に似てきたのもあながち無理とはいえない。常々あれほど模倣を嫌った父としても見る者の胸を浄化するような純一無雑な良寛の美しさにただただ頭の下がる思いを感じて知らず識らずに傾倒せずにいられなかったためかもしれない」と書く。その他「夫婦は親しみを以て原則とし、親しからざるを以て常態とする」という漱石の言葉に思わず笑いがこぼれた。

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*外堀通り

2016年05月16日 | 捨て猫の独り言

 子供の日は二十四節気の立夏だった。その翌々日に外堀通りを歩いた。陽射しの強い日だったが木陰、ビル陰が以外に多く快適に歩くことができた。外堀通りの正式名称は「東京都道405号外濠環状線」で全長約12.5Kmという。四ツ谷を起点に時計回りに歩いた。新橋での昼食時間を入れて4時間30分かかった。にぎわう皇居(内堀)ランに対して、稀に外堀ランが企画されることがあるという。

 外濠はかつて江戸城を取り囲み、また内濠や江戸湾ともつながっていた。現在はその外濠にほぼ沿う形で外堀通りが通っている。ところが外濠自体は戦後の瓦礫処理や、1970年代の飯田濠の埋め立てまで濠を埋めることが度々行われてきた。現在は都市景観の一つとして保存していこうとする考えが一般的だという。

 四ツ谷駅は埋め立てられた外濠に作られている。少し先の市ヶ谷橋から飯田橋まではかつての外濠がそのまま残る。右に法政大学、左に東京理科大を見て外濠は飯田橋で途切れて、つぎに神田川の一部となる。東京ドーム、順天堂大、東京医科歯科大を左にみて、昌平橋を渡り南の神田に向う。つまり外堀通りはここで神田川と別れる。ついで内神田の鎌倉橋交差点を左折して日本橋川にかかる新常盤橋を過ぎると左に日銀本店が見える。日本橋川は神田川の小石川橋のたもとから南下し永代橋付近で隅田川に注ぐ水路だ。現在は首都高速池袋線に蓋をされた形になっている。

 

 呉服橋でその日本橋川を渡る。ここから先は赤坂見附の弁慶濠まで水面を見ることはない。かつて呉服橋で日本橋川から分流し南下する外濠川があった。また溜池の特許庁の辺りから東へ流れる汐留川があり外濠川と新橋駅近くで二つは合流していた。それらが完全に埋め立てられて外堀通りとなっている。右に東京駅、有楽町駅を見て新橋駅を右折する。昼食の後、特許庁、首相官邸、日枝神社を右にみて赤坂見附を経て、紀尾井坂の辺りで外堀通りに並行している土手道に登る。右に上智大、左に外濠の底にできた上智大のグランドが見下ろせる。 

 

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*苗の植え付け

2016年05月12日 | 玉川上水の四季

 玉川上水緑道まで我家から50mの近さだ。深い玉川上水に並行している幅1mの新堀用水に架かる小橋を渡るとそこが緑道だ。もちろん緑道は舗装されてはいない。小平監視所から下流の玉川上水には下水処理された水が流れ、新堀用水をはじめとする市内の用水路には小平監視所で取り込まれた多摩川の真水が流れている。今年も15日は市内全域で用水路の水が止まり沼さらいが行われる。

 我家の近くの緑道にいくつか変化が起きている。笹の群落が姿を消している。棕櫚の数もめっきり少なくなった。同時に大木の伐採も大胆に進んでいる。日あたりがよくなったせいで近くでキンランを見ることができるようになった。その一方で貴重なやマユミやモミジイチゴが伐採されるということなども起きる。4月から緑道の街路灯が点灯を開始した。提灯の灯りのようでなかなか風情がある。(我家から55m清明の節気のキンラン)

  

 近くの中央公園で「こだいらグリーンフェスティバル」が8日に開かれた。野菜市、園芸市があり高校生漫才の「パンケーキ」などのステージイベントもありでにぎわったようだ。例年だとこの少し前に遠くの農協まで出かけて夏野菜の苗を購入した。同じ農協の扱う商品だ、これからはこのお祭りで手に入れることにしよう。トマト8本、キュウリ2本、ゴーヤ2本で単価は150円である。(上水を覆うマルバウツギ)

 

 「環境家計簿登録者に緑のカーテン用苗・堆肥を配布」という市役所の企画に応募して、12日にゴーヤ2本、キュウリ1本を受け取った。堆肥は剪定枝9割と生ごみ1割でできたものだという。これまで我家は毎年大量の剪定枝を生ごみとして出していた。これからは市役所に連絡して剪定枝として活用してもらおうと思う。今年からゴーヤに「摘心」という主茎を切る作業を行うことにした。横にも枝が伸び2~3回くり返すとよいそうだ。

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*内堀通り

2016年05月09日 | 捨て猫の独り言

 今年の新緑の季節は都心の街並みをひたすら歩いた。隔週土曜に3回連続で出かけ、2回目は内堀通りで3回目は外堀通りだった。内堀通りの皇居ランニングは皇居の外周を反時計回りに約5キロ走る。半蔵門を起点に私たちはランナーと同じコースをほぼ2時間かけて歩いた。国立劇場、最高裁、そして桜田通りに面した警視庁を右手に見ながら祝田橋を渡る。

 日露戦争の戦勝を祝した凱旋道路のために明治39年に造られたのが祝田橋だ。日比谷濠を分断して、その西側は凱旋濠と呼ばれるようになった。皇居前の大芝生広場に点在しているクロマツは約2000本あり、例年1月から3月に剪定が行われる。落された松葉が冬枯れの芝生に緑の模様を作り出す風景は冬の風物詩になっているという。

  

 寄り道をして読売新聞社(2013)と大手町ビルの間に行く。箱根駅伝の歴代の優勝校を記した碑があった。竹橋のパレスサイドビル(1966)には毎日新聞社がある。江戸城の竹橋門は撤去され石垣の一部が残る。ランニングコースは北の丸お堀端をショートカットする形で竹橋から代官町通りを走る。ここは千鳥ヶ淵によって行き止まりになっていたが明治33年に千鳥ヶ淵を埋め立てて濠を二分し内堀通りにつながった。

 

 代官町通りの途中から車道を横切り右手の高い土手に登る。舗装されていないこの道は「千鳥淵さんぽみち」と呼ぶ。ここから右下に主都高速環状線が千鳥ヶ淵濠で地下へもぐり込んでいるのが見える。今回歩かなかった桜の名所は「千鳥ヶ淵緑道」と呼ぶ。明治になって内堀が埋め立てられた場所が2か所である。すなわち江戸城には祝田門や千鳥ヶ淵門はなかった。帰りは半蔵門から新宿通りを新宿まで歩いた。新宿御苑北側に舗装されていない「内藤新宿分水散歩道」がある。浅くて狭い小川に沿って初めて歩いた。

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*桜餅とエナガ

2016年05月02日 | 玉川上水の四季

 清明の季節に桜餅を包む葉に興味を持った。桜餅の香りはクマリンという成分によるものだという。クマリンは生の葉にはなく塩漬けにすることで初めて生まれる。オオシマザクラの葉を小金井公園で採取し、近くの小平市中央公園でヤマザクラとソメイヨシノの葉を採取して塩水の入った小鉢に漬けてささやかな実験を行った。

 どの三つの葉も香りを出していることを確認した。そのまま放置していたらそのうち香らなくなった。現在桜餅に使われているのはオオシマザクラの葉である。江戸時代に使われていたヤマザクラより葉が大きく、クマリンが多く放出されるからだ。「桜葉漬け」は全国の7割が伊豆半島の西南部にある松崎町で生産されている。樽に塩漬けにし半年ほど寝かして真空パックする。

 エナガは尾の長い白っぽい小鳥である。私とエナガの出会いは十数羽の巣立ちしたばかりの雛が一本の枝に体を寄せ合っている写真を見たことに始まる。今年もその写真がギャラリーの穀雨の展示の中にある。そのつぎは巣立った後の巣を鈴木さんが手に入れてきて、実物を私たちに見せてくれたことだ。袋形の巣の外側はウメキゴケを貼り付けて完全防水し、内部にはたくさんの羽毛を敷きつめる。

  

 そして24日の穀雨の観察会で、ついに巣立ったばかりの雛を目撃することになった。この日は雨上がりの予報がずれて観察会は開催が危ぶまれた。出かけてみると主宰者である鈴木さんの姿も見えない。そのうち下流の方でカラスがエナガの巣を襲っているとあわただしい知らせがある。少ない参加者はあわてて現場に向う。巣から一羽ずつ飛び立った雛が草むらのあちらこちらにうずくまっている。上空では一羽のカラスとエナガの二羽の親鳥が飛び交っていた。最初の鈴木さんの挨拶や定番のキンラン見学もない異例の観察会となった。

 

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