玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*小泉今日子書評集

2020年08月31日 | 捨て猫の独り言

 本の背に「小泉今日子書評集」とある一冊に手がのびた。「検察庁法改正案に抗議します」とツイッートして話題を集めたことを私は記憶していた。悲しいことにこの国には、芸能界やスポーツ界の著名人が政治的発言をしようものならそれを誹謗中傷する輩が存在する。女優と書評の結びつきに興味が湧いて読んでみた。

 愛称キョンキョン(1966年生まれ)は2005年~14年まで読売新聞の読書委員を務めている。本来二年任期のところを五期も続けたという。小泉が「私の恩師」という作家、演出家の故・久世光彦さんの仲立ちで読売新聞の読書面デスクと会い、押し問答の末に書くことになる。書評は毎週日曜日に掲載された。

 委員会は隔週で開かれ、委員で選定した本を一冊づつ議論してゆく。会議が終わると皆でお酒を飲みながら懇談する。小泉は十年の経験について、話す言葉とかも確実に変わっている、何かを人に説明することがうまくなっている気がする。そんな時間が本になってここに残るんだと思うと、本当にありがたいと述べている。(隣町の公園にある戦跡)

  

「死とは生まれる前の場所」というフレーズがあった。その部分を紹介する。「私が四十歳になったとき、やっと人生の折り返しだね、と誰かに言われた。この世に生まれてヨーイドン!と走り出して、四十歳で折り返してみたら、生まれる前の場所、死に向かって走っていることに気付く。折り返す前はどこに向かっているのかわからないから、流れる景色を楽しむ余裕もなく、ただただ走る。折り返して向かう先がわかったら安心して景色を楽しむことができる。その景色が生きるということかもしれない」

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*危険な暑さ

2020年08月27日 | 捨て猫の独り言

 公民館の囲碁(碁苦楽会)は4月以降開かれていない。8月から開いてもよいという連絡があったが、いろいろ協議の結果9月まで自粛することになった。このままだと半年間の中断となる。年金生活者であり愛好者にとって、生活の大きな柱であった囲碁会を失うことは大きな痛手だ。それとは別に知人と直接会うことも控えざるを得ない。近くの散歩や買い物に出かけるぐらいだが、うっかりマスクを忘れて取りに帰ることもしばしばだ。

  キュウリはすでに畑から姿かを消したが、そこそこに収穫があった。しかしゴーヤはさっぱりだった。実りは少なく、小さな実のまますぐに黄色に熟してしまう。葉の一部は早々に茶褐色にしおれてぶら下がっている。日よけのために涼しくなるまで、そのまま残しておくことにした。それに今年はサルスベリの落花が少ない。この連日の暑さに、夕方になるとツゲの生垣にホースでたっぷり水やりすることが日課になった。

 図書館の本を読んでいる。集英社文庫の戦争と文学シリーズの第8巻「オキナワ終わらぬ戦争」である。その中で真っ先に読んだのは「水滴」で芥川賞を受賞した目取真俊(1960年生まれ)の初期作品「平和通りと名付けられた街を歩いて」だった。那覇市にある平和通りを私は何度も歩いたことがある。同じく沖縄が生んだ芥川賞作家には大城立裕(1925年生まれ)、又吉栄喜(1947年生まれ)がいる。この3人のほか、合わせて13人の作品が収録されている。

 目取真俊ほど反戦の思想を持続させている者はいないのではないか。還暦の彼が、少しでも工事を遅らせようと辺野古の海へ仲間たちと毎日のようにカヌーを漕ぎだす。そしてその様子を映像を駆使してブログで発信している。このように行動する作家、闘う作家がこれまで日本にいただろうか。みなさん、ぜひ彼のブログ「海鳴りの島から」をごらんください。そして「応援」をクリックです。https://blog.goo.ne.jp/awamori777

 

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*柳宗悦と沖縄

2020年08月24日 | 捨て猫の独り言

 柳宗悦は1961年に72歳で死去している。法名・不生院釈宗悦、墓所は小平霊園だ。小平霊園は私の散歩コースの一つで、これまでに柳家の墓所には、もののついでに二度ほど参ったことがある。柳と棟方志功のテレビ番組を見たことで柳についてさらに知りたいと思った。近くの図書館には柳に関連する4冊があった。全集は中央図書館にある。民芸運動の創始者で名高いが、民芸の枠をはるかにこえる多彩な生涯だったようだ。

 

 別冊太陽の「柳宗悦の世界」これは写真集だ。まず読んだのは岩波文庫の「美の法門」だった。仏教美学の四部作は還暦以降に書かれている。つぎに読んだのが阿満(あま)利麿(としまろ)著「柳宗悦~美の菩薩」だった。計らずもこれが「美の法門」の解説書になっていて、大いに役立った。その中の沖縄についての記載が私の興味をひいた。 

 柳は50歳の頃、太平洋戦争の前年、たて続けに4回ほど沖縄を訪問している。染物や織物、建築、踊り伝統文化のもつ美しさに共感し高く評価する。琉球語については日本語の古格を生きて保つものであり琉球語の知識が日本語をしてますます豊かにするものと確信していた。それゆえに沖縄方言の廃止は日本文化そのものに対する挑戦と、柳は厳しく反対することになる。沖縄県の役人は、県の方針を否定するものとして強く柳を非難する。(筆者の勘繰りだがこれも行政が沖縄戦を想定しての深謀遠慮か)そこで柳は1940年に「沖縄県学務部に答ふる書」を公表している。

 「県民よ。公用の言葉としては標準語を勤めて勉強されよ。だが同時に諸氏の祖先から伝はった土地の言葉を熱愛されよ。その言葉はあの女詩人恩納なべの雄渾無比なる詩歌を生んだその言葉なるを自覚されよ。諸氏の中から沖縄語を以て偉大なる文学を生むまでにそれを高揚せしめよ。・・・県民よ、再び言う。・・・諸君は日本国民として不必要な遠慮に堕してはならぬ。県人よ、沖縄県民たることを誇りとせられよ」このとき柳は1945年の沖縄地上戦のことは予想さえしなかったと思われる。

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*自然児とその師

2020年08月20日 | 捨て猫の独り言

 テレビの日曜美術館「自然児、棟方志功~師・柳宗悦」を見た。棟方を物心両面で支えて「世界のムナカタ」といわれる版画家に導いたのが、民芸運動で名高い思想家の柳宗悦(むねよし)だ。棟方は作品が完成すると真っ先に柳に見せる。ときに柳は棟方作品を自ら考えたデザインで表装する。棟方(33歳)と柳(47歳)の出会いから柳が死去するまで二人の交流は25年間続いた。この交流をくわしく知って心あたたまるものを感じた。

 出会いは2・26事件のあった昭和11年(1936年)の春だ。上野の「国展」に出品していた棟方の版画を初めて見た柳に衝撃が走る。そこへ現れた棟方の様子を柳はつぎのように記している。「心打たれた旨を棟方に話すと いいなあ と叫んでいきなり私にかじりつきました。見ると目に涙を浮かべ、額からは汗の雫が垂れています。小柄で髪がむしゃくしゃし、大変な近眼のようで、眼鏡の奥に大きな眼がぎらぎらし、また胸毛が濃く生えていました」

 この年に柳は大原孫三郎の経済的援助を受けて、東京駒場の自邸隣に「日本民芸館」を開設します。棟方との出会いの作品「大和し美し」を民芸館で買い上げることにしました。これまで棟方の版画などを買った人はなかったようです。値は後で知らせてくれるように頼みます。棟方は小踊りして例の「いいなあ」を連発します。ほどなく知らせがあって、それが高価であるのに驚きますが、「よいものはよい、なんとか工面して買おう」となりました。

 筑摩書房の柳宗悦全集の14巻に棟方についての記載があります。「棟方のとびぬけている点は、何が生れるか自分でも意識していない点にある。多くの作家たちはあるものをねらって意識的な計画を立てる。しかし棟方の版画は下絵などほとんどない。彫りつつ絵が生れしかも仕事がとても早い。だから棟方が仕事をしているというより、何は背後の力が棟方に仕事をさせているという方がよい。非常に個性的なようであって、他力的な本然的なところがある」棟方は版画の他に絵や書も残している。

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*思いがけない言葉

2020年08月17日 | 捨て猫の独り言

 毎月第2木曜日は寂聴さんのエッセー「残された日々」が掲載される。8月13日のには、つぎのように書かれていた。「泳げない人間が海に落ちて、必死に手足を、海中に振り廻しているいるような一生であったと思う。といって、では自分で生きてきたのとは違う道があったのかと思いめぐらすと、そんなものはどこにもない」

 

 これは私にとっては思いがけない言葉だった。目標を定めきれずに、また意志することもせず、その時々の風潮に流されるように生きてきた私である。凡人の私ならいざ知らず、大方の人が一つを極めたと認める寂聴さんの言葉とは思えない。だが私にとってはどこか慰められる言葉だ。

 さらに「ああしか生きられなかったのだと、自分の過去を回想する時、犯してきた人道の間違いも罪の罰も、すべて老いの一身に受け止めて、いさぎよくあの世の地獄へ堕ちようと思い定めてきた」と続きます。「ああしか生きられなかった」というのは、やり切ったという寂聴さんの自負なのだろう。

 人は間違うものであり、そしてたがいに迷惑をかけながら生きてゆくものだ。寂聴さんとて同じであったことは、自身の告白により大方の人が知るところだ。それにしても「いさぎよくあの世の地獄へ」とはなんたる宣言か。親鸞の「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」を思い起こさせる。

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*二人のこと

2020年08月13日 | 捨て猫の独り言

 つぎのやりとりに二人のすべてが現れていると思う。【編集部】島尾さんは三島文学についていかがお考えですか【島尾】ぼくは、読んでいないんですよ【編集部】三島さんは、島尾さんのことを、たいへん評価していますね【吉本】きっと、細大もらさず読んでますね【編集部】たとえば吉本さんの場合は「資本論」と「聖書」とファーブルの「昆虫記」というのが、自分の思想形成の根本になっているとお書きになっていますが、島尾さんの場合、そういうものはございますか【島尾】ぼくは、ないでしょうね。非常に雑な読書をやってきましたからね【編集部】やっぱり体験というか、ご自分の資質というものが「核」になっている・・・【島尾】そこのところは自分でもわかりません。

 島尾敏雄は奄美に移り住むために、発作の妻と二人で横浜港の白龍丸のデッキにいた。見送りの人たちの中には吉本隆明もいた。そのときのことを島尾が回顧している。《テープがいくつ投げられたのだったか。でもいっこうにうまくつかめない。と吉本が丸窓に足をかけ、船腹をつたって私たちの居る甲板によじのぼろうとした。ほんとうにどうやってのぼってきたろう。繋ぎ網がさがっていてそれにつかまり、船腹に足をかけてあがってきたのか。出港合図の汽笛も鳴っていて、危ない!と声を出そうとしたとき、彼は手すり越しに私にテープをいくつか手渡していた。まじかに彼のあつい皮膚の顔を見た。私は胸のあたりがさわぐのを覚えた。彼はすぐにのぼって来たようにおりて行ったけれど》

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*続・共同幻想論

2020年08月10日 | 捨て猫の独り言

 最後まで、どこにも所属しない「市井の思想家」だった吉本隆明の「共同幻想論」は「古事記」や「遠野物語」などの日本独自の物語から国家のありようを分析したものです。この自立する思想家には吉本用語と呼ばれる「逆立」「対幻想」「関係の絶対性」などがあります。それらのおおよその考えをテキストは教えてくれます。

 「共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている」と吉本は言います。講師の解説はつぎの通りです。「ここで逆立とは対立よりももう少し伸縮性をもった概念で、共同幻想に心が占拠されれば個人幻想は消滅し、逆もまた考えられます。二つは本来緊張関係をもっていなければいけない。とりわけ戦前の日本では緊張関係が失われたと吉本は考えていました」

 「共同幻想の発生には、もちろん対幻想(=家族という疑似性的関係)が関わっているのですが、さまざまな形の断絶や亀裂や違和があって、しかし最終的には国家になる」と吉本は考えています。講師は「エンゲルスが経済的理由から権力が発生し国家を誕生させたと説明したのに対し、吉本は「性(生)」と「死」に国家の起源を見出した」と解説します。このあたりがとても難解なのです。

「マチウ書試論」に出てくる「関係の絶対性」は否定的と肯定的の二つの意味が含まれると解説しています。「他者との間で形成される価値観は共同幻想に過ぎず、かつてのファシズムまた現代のポピュリズムのように正しくない(同調圧力)可能性がある。だから不断に個人幻想によって精査されなければならない。しかし、その個人幻想も独善に陥る危険があって、他者との関係によって生じる共同幻想に照らしてみる(確認しあう)必要がある。こうした循環構造が関係の絶対性ということばがもつ二つの意味になっている」解説により、より理解が進んだと思います。

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*内と外

2020年08月06日 | 捨て猫の独り言

 梅雨が明けて日照が戻った。目の高さにゴーヤが一つ二つ小さな実をつけているのに気づいた。さらに見上げると10センチほどに成長した実が五こほどぶら下がっている。一時的であれ、今年は実をつけないのかと悲観していた。ゴーヤの前で一人空咳をする。放置していても育つ茗荷は、天候に関係なくこの時期に例年通りに顔を出している。(ゴーヤとヤマユリ)

 

 鹿児島県徳之島の当時世界最長寿であった泉重千代さんは、好きなタイプの女性はと聞かれて「私は甘えん坊なので、やはり年上かのう・・・」と答えたという逸話がある。毎晩ちびりちびりやる黒糖酒が楽しみだった。

 養老孟子先生は、小学生から「お爺ちゃんでも虫取りをするんですか」と質問され、「ちがうちがう、虫を採っていたらいつのまにかお爺ちゃんになっていたんだよ」とあわてて返事をしていた。

 蝶になって飛んでいる夢を自分は見た。飛んでいる時は明らかに蝶であったのに、目が覚めると荘子である。蝶であると思っている自分と、荘子と思っている自分はどう違うのか。「胡蝶の夢」について辞書には「自他の区別を超越してしまっている境地の例え」とあった。たとえば現実に銀河を仰ぎ見ている自分がいる。そしてまたその自分は目を閉じて内なる銀河を見ることができる。(瞼を押さえると光が見える) このような現象のことだろうか。

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*遅い梅雨明け

2020年08月03日 | 捨て猫の独り言

 7月中旬のある日、曇り空のもと武蔵野日赤病院に自転車で片道50分かけて出向いた。昨年末に新薬を服用し、C型肝炎ウイルスは完全に体内から消えた。そのことの最終確認だった。結果を主治医は笑顔で告げた。しかし半年後の検査が申し渡される。この検査はこれまで何度も受けていつも異常なしだった。自己判断では無用と考えるのだが、半年後どうすべきか迷っている。

 7月下旬の曇り空のある日、近くの眼科医に出向いた。右目の緑内障がこれ以上進行しないための目薬をもらうためである。長年続いているが症状は安定している。半年に一度は気の進まない視野検査を受ける。これは左目を隠して見渡せば症状が進行しているかどうかは自分ですぐわかる。目薬さえいただければこまごました検査など受けたくない気持ちがこちらにはある。

 目薬は開封して一月経過したら破棄するように言われてきた。それを順守すれば3か月に一度の通院になる。ところがもったいない精神で通院の間隔が伸びることが多かった。これまでもそれとなく注意を受けていた。今回は5カ月も間隔があいていた。しかし眼圧は適正値である。几帳面な男性眼科医の堪忍袋の緒が切れた。「こんなことでは責任持てない。何だったらよそに行けばいい!」その堂々の叱咤で、今後は指示に従うことを心に決めた。(注目の?鹿児島県知事選挙)

  

 関東地方は8月1日やっと梅雨明けが宣言された。平年より11日、昨年より8日遅いという。7月31日に財布をもたずに散歩に出た。折り返し地点にスーパーがあった。マスクは持参していたので、涼しい店内に入る。野菜の値段が高くなったと聞いていたので、それを確認してみる気になった。キュウリと長ネギの一本の値段がそれぞれ70円と130円である。その他の夏野菜も1.5~2倍になっている。翌日の折り込み広告では多少値下がりしていた。これは生産者・流通業者の犠牲によるものだとラジオが伝えていた。

コメント (2)
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