玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*ラグビーW杯

2019年09月30日 | 捨て猫の独り言

 来年の東京五輪・パラリンピックの期間中はどこか無人島に行って暮らしたい気分である。この国ではまだ大きな反対運動は起きていないが、準備の足取りは決して順調と言えるものではない。国民の大多数が望んでいたのならこんなことにはならなかった。「アンダーコントロール」や「お・も・て・な・し」の文句が私の記憶からなかなか消えてくれなくて困っている。

 ラグビーW杯が日本各地で始まっている。五輪やサッカーとラグビーの違いはラグビーは国籍主義でないことだろう。その国に3年以上継続して住むなどしていれば代表になれるという。試合後に健闘をたたえあうノーサイド精神は、選手だけでなく観客にも根付いている。ラグビーの観客席はサッカーのようにチーム別に分かれていない。ファンは交ざり合って座り、よいプレーにはたとえ相手チームであったとしても拍手が起こる。(29日の散歩にて)

 

 旭日旗騒動というのがある。東京五輪の組織委は、旭日旗の持ち込みを容認する方針だが、韓国側は「侵略戦争の象徴」と反発している。ところが今回のラグビーW杯では旭日旗は話題に上がっていない。韓国が出場していないということだけでなく、その背景にはラグビーの代表選出の国籍不問、観客席の敵味方一体などのスポーツ文化が関わっていそうだ。W杯をきっかけにラグビーの多様性が日本社会をより成熟させてくれることだろう。

 日本を率いるジェイミー・ジョセフ・ヘッドコーチ(HC、49歳)はエディー・ジョーンズ前HCの後任として2016年秋に就任した。29日の新聞の一面トップの見出しは「日本アイルランド破る」「世界2位に19-12」だった。その大一番を前にジョセフHCが、選手を鼓舞した言葉がなんとも素敵だった。「誰も勝つとは思っていない。誰も接戦になるとは思っていない。誰も僕らがどれだけぎせいにしてきたか分からない。信じているのは僕たちだけ」

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*22日の薬用植物園

2019年09月26日 | 玉川上水の四季

 ある実験のことを読んだ。アルバイトの学生を被験者として外界からの刺激を遮断した状態を二日続けたところ、被験者は三日目にはきわめて暗示にかかりやすくなり、2+2=5と教えられるとすぐに自分の正答をひるがえして誤答を信じ込んだという。これは外界から切り離された意識がどれほどもろいものかを示すものだ。退屈で、しかも何をする気にもなれないときは外へ飛び出すに限る。外からの刺激で意識は活性化される。

 22日は台風17号で西日本は大荒れだったが、東京地方は日中は平穏だった。大相撲の千秋楽の中継が始まる前に薬用植物園に出かけた。自転車で15分かかる。つぎの日は「春分」と同じく昼夜の長さが同じになる日の「秋分」である。これからしだいに日が短くなり秋が深まる。あちこちで彼岸花が姿を見せている。(里芋の花と紫苑)

 

 秋に収穫される里芋は稲作より古く日本に入ってきていたという。そこで芋煮会というのは、そもそもは豊作に感謝する行事で各地で催されてきたものという。この日の植物園の入り口には「サトイモの花開花中」のお知らせがあった。仏炎苞とは肉穂花序をとり巻くラッパ状の大型の総苞のこと。玉川上水緑道で初夏になると見かけるウラシマソウとか、写真でよく見るミズバショウのあれである。(ナタマメ)

 

 背の高い2m近くにもなる草から紫の花びらに中心が黄色い花を咲かせるシオン(紫苑)が大きく風にゆれていた。平安時代から薬用や鑑賞に親しまれてきたという。キンモクセイと違って、街中で見かけることが少ないギンモクセイが甘い香りを漂わせていた。そのほかにはハギ、オミナエシ、スイフヨウが咲き、クズの花はしおれていた。ナタマメが実りその花も見ることができた。暗くなってから雨が落ちてきた。明日は強い風が吹くという。

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*活躍する女性たち

2019年09月23日 | 捨て猫の独り言

 秩父生まれの友人に、埼玉の三大偉人を教えられたことがある。渋沢栄一と塙保己一と荻野吟子だという。渋沢栄一は日本資本主義の父と言われる。21年には渋沢栄一を主人公にしたNHK大河ドラマ「晴天を衝け」が放映される、そして24年には新紙幣一万円札の顔となる。塙保己一は全盲の国文学者。荻野吟子は初耳だった。日本初の女性医師だという。女性が医者の試験を受けられる道筋を開いた。

 荻野吟子は17歳で結婚するが、夫に性病をうつされ、子供の埋めない体になって離婚。自分と同じ運命言泣いている女性のために医者になる決意をする。女性に医者の資格を与える制度はなく、吟子は医学校を優秀な成績で卒業しながらも医術開業試験の願書を再三にわたり提出したが却下され続けた。受験が許可され、女性医師第一号となったのは34歳のときだった。

 調べてみると1970年には吟子の生涯を題材にした渡辺淳一の「花埋み」が出版されている。そして翌年にはさっそくテレビドラマ化される。1980年には山本陽子主演、1998年には三田佳子主演でそれぞれ舞台化された。知らなかったのは私だけだったようだ。そしてこのたび映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」が10月から各地で上映されるという。主演は仲代達矢主宰の「無名塾」出身の若村麻由美。

 この映画の監督が山田火砂子という87歳になる女性である。この監督については17年の作品「母 小林多喜二の母の物語」を見た。「一粒の麦、もし地に落ちて死なずばただ一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし」はヨハネ福音書の言葉である。吟子は39歳のとき、13歳年下のクリスチャン志方之善と結婚。夫はキリスト教による理想郷建設を目指し北海道に渡る。吟子も合流し、そこで医院を開業。夫の死後、1908年に帰京し墨田区で医院を開業するが1913年に62歳で死去している。

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*珍事

2019年09月16日 | 捨て猫の独り言

 この頃は4時半になるとテレビのスイッチを入れる。大相撲中継をを見るためだ。そしてひいき力士の「明正」の相撲に注目する。先場所は大きく負け越して番付を4枚目から10枚目に下げた。まわしの色が故郷の奄美の海の色と同じコバルトブルーだ。どちらかと言えば技能派だろう。遠藤ほどの華やかさはないが、遠藤のような力士を目指して欲しい。そしてそのうちの三役入りを願う

 6日目の土俵で、これから先に見ることがないと思われる場面に遭遇した。いや見てを行けないものを見てしまったというべきか。行司受難の日だった。その日私が中断していたテレビのスイッチを再び入れると朝乃山と豪栄道の一番だった。そこで見たのが三役格の行司木村玉治郎が土俵下に転落し、控えの立行司式守伊之助が慌てて立ち上がろうとしていた。なんとか軍配だけはあげることができた玉治郎はつぎの結び前の玉鷲と栃ノ心の取り組み中に土俵下で額の血を自ら拭きとっていた。

 私はリアルタイムで見たわけではないが、転落前の一番、遠藤と貴景勝をさばいたのも玉治郎だった。貴景勝の右足と玉治郎の左足が接触したように見えて、決まり手にない「つきひざ」で貴景勝は初黒星を喫した。ふりかえると転落はその影響もあったのではないか。事はそれで終わりではなかった。転落した一番に続く玉鷲と栃ノ心をさばいた伊之助は、物言いがつき行司軍配差し違えとなってしまった。

 翌日の毎日新聞の見出しは「貴景勝崩れて土、行司の足につまずく」とあるが。転落や立行司の軍配差し違えには触れていなかった。武士の情けというところだう。一方でスポーツ紙はさすがに詳しい。玉治郎の「足は乗ってもいないし、触れてもいない」という談話を紹介し、取り組み中にバランスを崩して土俵下に吹っ飛んだとする写真が添えられている。打ちだし後に協会理事長に口頭で進退を伺いを申し出た伊之助の「頑張ってくださいと激励された」という話も報道している。

 

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*私と宗教

2019年09月12日 | 捨て猫の独り言

 それは親鸞アニメ上映会スタッフの誘いから始まった。場所を変えて開かれる公民館の上映会は一巻が2時間である。アニメの出来の良さもあって順に全六巻を鑑賞した。上映会とは別に2時間ほどの講座もセットされて交互に開かれる。どちらも参加者はごく少数で、若者はほとんどいない。講座にも何回か参加した。講師とアニメ担当の男性二人で切り回している。そして私には月毎に開催案内の葉書が届く。

 単行本「歎異抄をひらく」の広告が盛んに新聞に出ている。著者は1929年生まれの高森顕徹でこの本は2008年に出版されている。今年になって「歎異抄をひらく・映画製作実行委員会」がたて続けに2本の劇場版アニメを作成して一般の劇場で上映している。富山県射水市には親鸞会館があり、そこの二千畳の講堂でこの10月に高森氏が講演するという。その2泊3日の富山旅行に勧誘されたが辞退申し上げた。こちらの旅行と日程が重なり、断ることができて実はホッとしている。

 浄土真宗が日本社会において広く根づいた宗教であることを実感したのは、都内の墓地を巡っているときだ。そこには「阿弥陀仏」と刻まれた墓碑が数多く存在していた。アニメで親鸞の生き方を知り親鸞に興味を持つようになった。さらに最近になって高森氏を中心とした「親鸞会」の存在を知った。しかし一つの宗教組織に心を預けることは私にはできそうにない。多少心もとないが「個人宗教」とでもいうべき行き方になる。

 浄土真宗の人が朝晩の勤行で読みあげる「きみょうむりょうじゅにょらい」で始まる親鸞聖人の「正信偈」が親鸞会発行の手のひらサイズの冊子にも掲載されている。現在の私にはこれを読み解くことは難しい。親鸞に近づくための手がかりではある。つぎは親鸞の遺言なのか伝説なのか分からないが、とてもひきつけられる言葉だ。「一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり」

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*二十四節気の白露

2019年09月09日 | 捨て猫の独り言

 昨日は大気が冷えてきて露を結ぶころという白露だった。深夜に台風の襲来があり、今朝はぬれ落ち葉ひろいに励んだ。収穫を一時あきらめていたゴーヤが遅ればせながら例年並みほどに実った。ゴーヤカーテンの撤去はもうしばらく後になる。サルスベリの赤い花の下では、小さな白いアベリア、その横でハギも咲きだした。せっかく大きくなったカキの実がぽつぽつ落ちてそこにダンゴムシが群がる。この時期は庭に小鳥の姿はなく、キアゲハやジャコウアゲハやキチョウなどの蝶が飛び交う。

 肩の痛みはよく話題になる。ここしばらく左腕の痛みに悩まされている。肩の上げ下げや回転は問題ない。左の肘をあげた時などに鈍痛が走る。だから本人は上腕部が痛いという。いまある目や耳の不自由に比べれば何ほどのこともないと思うが、寝返りを打つ時などに気づいて目が覚める。だから鉄棒のぶら下がりも、しばらくは止めにしている。これではますます筋力は衰える一方だ。鏡の中に以前より細身になってしまっている自分を発見して仕方なしと思う。

 大相撲秋場所が始まった。上位陣が大勢休場しても満員御礼が続く現象には驚かされる。権力や権威に対して何かと寛容な日本の大衆ならばこそかと思われる。そして今年だけの現象であればいいのだが私のMLBへの関心は冷え切っている。ひいきのレッドソックスが宿敵ヤンキースに勝率で大きく引き離されて、ポストシーズン出場の可能性は全くない。NHKのBSは相変わらずこれまた不調のエンゼルスの試合を放映し続けている。大谷出場予定とはいえ、優勝に絡まないゲームは緊迫感がなく面白みに欠ける。

 現在欠かさない日課といえば、6時半のラジオ体操、生活習慣病に直結する夕食前の飲酒ぐらいだ。そうそう「カラマーゾフの兄弟」のコツコツ読書はめずらしく続いている。読書のたびに小林秀雄の「成熟したドストエフスキーが自在に腕を振るっている」との批評を思い出しながら、その作家の腕の冴えをじっくりと味わっている。いろいろあって7月は公民館の囲碁会を無断で全休して碁仇に心配をかけたが、その後は出席している。勝率は5割をキープしているが、気もちを奮い立たせて6割を目指す。

 

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*難解本読みくらべ

2019年09月02日 | 捨て猫の独り言

 1932年生まれで脳生理学者・品川嘉也の ①「意識と脳」(紀伊国屋書店)と1937年生まれで解剖学者・養老孟子 ②「唯脳論」(青土社)を読んだ。①の出版は1982年で②はその7年後である。ウィキペデアによれば品川は右脳ブームの仕掛け人とあり、1992年に亡くなっている。読後の要約をつぎに記してみた。

 【①の序文】宇宙の誕生から、生命の起源を経て、人間の意識が生まれるまでを「情報構造」の立場から統一的に説明しようとするものである。すべての構造は情報によって造られる。情報は宇宙の膨張(光の速度で膨張している)によって産れた。宇宙の情報によって、物質・生命・意識が生れたのである。物質も生命も意識も情報構造にほかならない。

 【②のエピローグ】現代社会の禁忌は、じつは「脳の身体性」である。脳は必ず自らの身体性によって裏切られるからである。脳はその発生母体である身体によって、最後に必ず滅ぼされる。それが「死」である。個人としてのヒトは死すべきものであり、それを知るものは脳である。だからこそ脳は統御可能性を集約して社会を作り出す。個人は滅びても、脳化=社会は滅びないですむからである。

 【①で意識とは】人間が生長過程で外界を認識していくときのことを考えると、自分でないものの総体として世界を認識していく。しかし次には認識された世界の中に、世界の構成要素として、世界の一部としての自分が存在していることに気づく。こうして世界の一部である自分が全世界を認識したとき、自意識が生じる。さらに世界像の中の自分も意識をもっていて、その意識の中にさらに世界が映し出されている、という循環が成立していることに気づく。

 【②で意識とは】進化の過程を考えてみよう。ヒトが外界の条件に反応だけしていればいいうちは意識はなくてもいい。脳には剰余がなく、自分の中で何が起こっているか「知る」だけの容量がない。しかし、ヒトの脳ほどに大きくなれば自分の体に関することがある程度わかっても不思議はない。ヒトの脳は外界だけでなく自分の脳に気がついてしまった。それが「意識」に他ならない。

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