玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

うつら・~。とろ~り・~。

2010年07月20日 | ねったぼのつぶやき

 夕刻仕事から帰る。暫し賑やかだった我家がヒッソリしている。朝から優にに30度を超えている日々。シャワーを浴び早くもビールに手が出た。家人はすれ違うように、3泊4日長野滞在したばかりの私を残して老親へひ孫見せに帰省した。私は旅の疲れもあってうつらうつら・とろ~りとろ~り明るい内から食卓でまどろんでいる。

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 今頃”ひいジジババ”に会っている筈だ。2年ぶりに対面した彼ら双方はどんな第一印象を持ったろうか?。昨夕4日ぶりに帰宅した私を彼らは満身の喜びで迎えた。「アイラブユー」だけは英語だが妹のソレは常に効果的にタイミング良く発せられ恐れ入るバカリ。私に纏いつき「椅子に座って」と流暢な日本語で椅子を勧め、私不在の4日ですら日本語力をアップさせていた。今や姉妹間の会話は全て日本語に成り切っており、私の予想を遥かに超えて喜ばしい成果を見せている。

 ご老人によく聞かされている。「ひ孫はかわいいけれど疲れるから自室に逃げる」。之は真理だ。彼らは一時もじっとしていない。その多動ぶりは老人の眼や心身を疲れさせる。義父母は高齢ながら自宅での生活を望み生活至便・好環境のマンションヘ引っ越したばかりだ。旧宅はそのまま残されておりそこからの通いとなる。確実に老いに向かっている我が身と、新しい住まいにに馴染もうとしているであろう老親と、一時もじっとしてない孫達の中でツレアイは何を思う・・・。

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*禅問答

2010年07月19日 | 捨て猫の独り言

 西日本の大雨被害をよそに東京地方は平穏である。ここしばらくは「ヤマユリが咲いて梅雨が明ける」という文句が気になっていた。今年はユリが庭に5本も姿を見せている。いずれも2メートルを越して自力で垂直に立てないほどに伸びてしまっている。ほど良くたたずむユリに仕立てるよい方法はないものか。みっともないことおびただしい。気象庁は17日に列島の広い範囲の梅雨明けを宣言した。前日までは閉じていた庭のユリが梅雨明け宣言当日見みると暑い日差しの中で一部が花開いていた。ずばり的中に感激である。いつの間にやら百日紅も咲き始めた。

 最近「禅」に対して興味深い一つの見解に出会った。多くの宗教はユーモアや笑いと対立関係にあるが、それとはまったく逆なのが仏教であろう。仏教のなかでもとりわけ笑いとかかわりが深いのが禅宗だというのだ。先日2才児を自転車に乗せて子守途中に平櫛田中(でんちゅう)彫刻美術館に飛び込んだ。冷気にあたり、気分転換するには入場料300円は安い。何度も目にしていたパンフレットだが今回は田中(でんちゅう)が影響を受けた一人に禅僧の西山禾山がいたという記述に注意が向いた。

 他に入場者の姿はない。木彫りの「気楽坊」を前にして「アハハしているね」とジジは解説した。「アハハ?」「そうアハアハ」。笑いがテーマという作品では他には「法堂二笑」という微笑する僧の2体のブロンズが目についた。そういえば漫画を描くことが得意な私の同級生は広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像を好んでいたことを思い出す。おそらく仏師は仏の慈悲の最高表現としてあの微笑みを選んだのだろう。

 禅問答で「神とは何でしょうか?」=「おまえはだれだ?」、「経典によれば万物は一に帰すといいますが、その一はどこに帰すのでしょうか?」=「わしは青洲にいたとき、衣を一枚作らせたがその重さは七斤だった」、「一切諸仏の師匠は誰でしょうか?」=「タタン・タンタン、チチン・チンチン」などが有名のようだ。理性は万能という妄想図式から解放されたときひとはどうして笑わないでいられようということか。こざかしい分別を捨てよというのが「禅の哲学」らしい。

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*悩むだけ損

2010年07月12日 | 捨て猫の独り言

 最近気付いたのだが新聞の朝刊第2面に詩歌コラムがある。担当は俳人の長谷川櫂氏である。先日河野裕子氏の「美しく歳を取りたいと言う人をアホかと思ひ寝るまへも思ふ」の歌が紹介されていた。アホかと思うという強烈な表現がとても小気味よくて何度か歌を読み返していた。ところがそれに続く長谷川氏のコメントを読んで痛快感はどこかに雲散霧消してしまった。

 「美しく年をとるとはどういうことなのか。それはともかく今の日本にはその夢のために日夜、努力する多くの人々がいる。産業界も夢の恩恵をうけている。この歌への感想はさまざまだろうが、人生の実相をとらえた歌として紹介したい」というのがそのコメントだ。これは歌の心をつかんでいるとはとても言えない。作者は実相などというものをとらえようとしたのではなく、かなり強硬な主張あるいは心の叫びを歌にしたのではないか。

 07年春にこの世を去った池田昌子はこの問題に対してつぎのように述べていた。人生相談への回答という肩の凝らない場面である。「悩んでもしょうがないことは、悩んでもしょうがない。悩むことでどうにかなることなら、いくらでも悩むが得ですが、悩んだところでどうにもならないことは、悩むだけ損です。年をとることについて悩むなんてのは、その損の悩みの最たるものですね。

 きょうびは世を挙げて、年をとることを否定しようとしている。人生というのは、年をとってゆく過程以外のなにものでもない。だとすると、年をとることを否定するとは、人生そのものを、反価値として否定することになる。若さを価値とし、年をとることを反価値として生きる人の人生は、必ず苦しいものであるはずです。だって本来不可能なことを遂行しようとているのだから。年をとることを反価値とするのは、肉体にしか価値を置いていないからです。だけど精神の側、心や気持ちや知恵の側を価値とするなら、年をとることはそれ自体で価値となります」

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逃した小学校の同窓会

2010年07月08日 | ねったぼのつぶやき

 2~3ケ月前世話役さんから打診があった。中学校以後は何度となく催され参加もしていたが小学校は初であった。92才になる恩師はその地に健在でお呼びするという。最終的には欠席せざるを得ず、事後報告の電話や写真同封のお手紙を頂いた。

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 私の故郷は当時小学校4校と1分校があり、全児童は一つの中学校(約250人)に通うことになっていた。日本中がそうであるように、人口が減少するにつれ小学校も漸次縮小されて今や小、中共に1校づつという。更に市町村合併で町すらも隣の市に合併されてしまった。

 58名の卒業生の内32名にお知らせを出し(住所不明20、死去5)、半分の16名の参加だった由。県外からの参加者はそのまた半分の8名。大いに弾んだという。小さく丸くなられた恩師を囲み、孫をもつ世代になった同級生が居並んだ写真を何度も見返しながら、50年ぶりのお顔にかっての童顔を重ねてみた。恐らく今後同じ企画はできまい。無理を押して出るべきだったか!そして今日、来年の別の同窓会の幹事会を今月末に開くと連絡が入った。あと10年位はこの種の集まりは賑わう事だろう。

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*子守の時

2010年07月06日 | 捨て猫の独り言

 梅雨前線は日本列島の南に停滞し大気は不安定で夕方になると連日のように降雨に見舞われている。湿度は75%でまさしく日本の夏だ。母親が幼児2人を残してヘアカットに行ってしまった。そこで午前中は少し離れた児童館へ出かけることにした。ジジが保護者として付き添い、車での送り迎えはババである。児童館では通し番号の利用カードを発行している。2年前に登録した現在4才の子の番号もパソコンに残っていた。

 児童館は比較的新しい。プレイルームには、ままごとコーナーや図書コーナーやパソコンスペースもある。高校生まで利用できるのだ。この日は絵本の読み聞かせが30分あるという。車座になって幼児は膝の上で聞くのだが、保護者の願いもむなしく幼児たちは聞く耳をもたず歩き回りはじめる。最後は読み手の周りから誰もいなくなってしまった。それが終わり再びプレイルームに戻る。しばらくして気付くと絨毯の部屋は母親たちで足の踏み場もない。子育ては大変だなという思いに至るのはこんな時である。

 事務職員も女性ばかりでただいまこの空間に大人の男は私だけである。私は部屋の片隅で野鳥の図鑑を開いてみる。ヒヨドリは「ピーヨ、ピーヨ」でシジュウカラは「ツツピー、ツツピー」でカワラヒワは「キリキリ、コロコロ」と鳴くとあった。お昼近くになって窓から小学3年生ぐらいの集団が見えた。どうやら畑の作物の観察に来ているらしい。引率の男性教師は時計ばかり気にしている。この蒸し暑さの中では観察もおざなりになるのも致し方ないことだ。

 たまに私が子守をまかされた場合のもう一つのスポットは中央体育館である。3階建ての建物の中を階段を昇り降りして走り回らせる。ひと時も目を離せないのがつらいところだ。走らせないでくださいの貼り紙があることは承知である。体育館の一角には幼児向けのプレイルームがある。午前中は親子連れでにぎわっている。顔なじみの母親もいる。保護者は若い母親ばかりだ。部屋の中で付き添っている他のジジやババを見かけることはほとんどない。4才の方は英語より日本語での発語が優勢になってきた。「私眠れない」と寝室から顔を出す。必ず「ワタシ」から始まるのが興味深い。

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