玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*安達太良山

2019年03月25日 | 捨て猫の独り言

 大相撲春場所で22歳の貴景勝が大関昇進を遂げた。ひそかに期待する23歳の明生は勝ち越しの9勝をあげた。13日目に元大関の琴奨菊を上手出し投げで破ったのは殊勲だが、千秋楽で対戦した28歳の遠藤には全く歯が立たなかった。明生にはこの遠藤のような力士になって欲しい。ちなみに遠藤の最高位は小結だ。明生には同一場所中に白星と黒星が目立って連続する(ツラズモウ)の傾向がある。

 安達太良山の下に位置する岳温泉のホテルで、春分の日を最終日として3日間過ごした。東北新幹線の大宮駅から郡山駅に行く。迎えのバスは北上を続け前方には雪の安達太良山がいつまでも見えていた。岳温泉は全国的にもめずらしい酸性泉で、連峰を形成する鉄山のくろがね小屋付近から約8㌔の距離を40分かかって温泉街まで流れてくるという。2泊したことで温泉を満喫した。

 

 安達太良山といえば、高村光太郎の智恵子抄に「あれが 阿多多羅山。あの光るのが阿武隈川。ここはあなたの生まれたふるさと、あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫」とある。長沼智恵子は二本松市の郊外の酒造屋の長女として生まれ、女子大学を出てから太平洋画会の研究所で絵を描いていた。3歳上の光太郎と29歳のときに結婚する。49歳のときに精神分裂の兆候を示し、50歳で自殺未遂を起こし、53歳で没した。

 この温泉旅行の後で本棚の吉本隆明の「高村光太郎」を読んだ。吉本はつぎのように述べている。『留学中の高村は父である光雲の「身体を大切に、規律を守りて勉強せられよ」といういじらしい手紙に排反意識を持つ。智恵子との結婚はデカダンスからの浄化であった。夫婦が階上と階下に閉じこもって、絵と彫刻をやる、食事もろくにとらない、生活の煩瑣がない。智恵子抄では、夫人の方は無機物のように表情をもたずに、つっ立っているだけで、操作はもっぱら高村の内的な世界でおこなわれている。ここに愛情と呼べるものがあるとすれば、高村の独り角力としてあるだけである』

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*大相撲

2019年03月18日 | 捨て猫の独り言

 2時間ウォークの時は2㌔の砂袋の入ったリユックを背負い、旧式のやや重い登山靴を履いて出かける。適度の負荷をかけるためだ。そして、この時ばかりは最後まで意識してナンバ歩きで押し通す。ナンバ歩きといえば鹿児島弁の落語の三遊亭歌之助が先日の高座でやっていた。渡世人が仁義を切る時は右手が前で右足が後ろだと、こうなりますとやって笑わせていた。

 

 最近は大相撲のテレビ中継をよく見るようになった。テレビも大相撲とMLB中継の他は、天気予報と囲碁番組そして、たまに映画を見るぐらいだ。大相撲は、もともと体の大きな人が体重を増やす食生活に励み、トレーニングによって「特殊な身体」を作り上げる。基本の「突き押し」はナンバ歩きだ。過酷な格闘技にどの力士もどこか怪我を抱えている。

 見る方はその方が良いのだが、昔とくらべて力士が最後まであきらめずに本気を出して闘うので怪我もそれだけ多くなったのではないか。それから「手つき不十分」で仕切り直しすることがある。そしてその時力士が審判に頭を下げて謝る場面をよく見かける。判定は従ってもことさら謝る必要もない。昔は力士同士で立ち合は解決していたような気がする。

 ときおり土俵際の見物席で茶色のちゃんちゃんこの集団を見かける。親睦団体の会員たちで、なにやら弓取り式が終わるまで席を立ってはいけないなどの掟があるという。かつて高校野球のバックネット裏最前列を占拠していたグループのことを思い出す。相撲を支援するならもっとのびやかにできないものかと考えてしまう。私の注目している力士は前頭下位の「明生」である。1995年生まれで奄美の瀬戸内町出身、立浪部屋。

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*予期せぬ再会

2019年03月14日 | 捨て猫の独り言

 私の住む地区の駅前通りは、空き店舗が増えている。意欲的な本並べ、文化的な催し場の地下室を持つ名物書店が姿を消したり、あるいは銀行支店が二駅先の国分寺に移転して不便になった。大学生相手の古本屋、新鮮な刺身の魚屋、花屋が姿を消して久しい。最近になって改札口の近くに予想もしていなかった個人経営の駐輪場が二か所もできた。駅前通りは小学生から大学生までの登下校時に一番のにぎわいをみせる。

 地方では過疎化が進む中で、近くの農地のあちこちは、驚くほどの速さと規模で戸建て住宅が造られ、新住民が生活を始めている。毎年蕗の薹をコッソリいただいている線路わきの広大な農地が、今年は手入れの形跡もなく荒れた感じになっていた。ここも近いうちに宅地になり、来年からの蕗の薹の入手がは困難になりそうだ。格差拡大、過疎と過密が進行する現在の社会の変化はバランスを欠いていると思われる。

 鈴木さんのオープンギャラリーが閉鎖されてほぼ2年ほどになる。その約9坪ほどの狭い土地は他人に渡って更地のまま放置されている。その傍を通るたびに寂しい思いがしている。ところが今月の5日に思いがけなく鈴木さんにお会いした。私は自宅から西への2時間ウォークで金毘羅橋を折り返して帰る途中である。小川橋の近くでエナガの巣を捜していたという鈴木さんとの予期せぬ出会いだった。(玉川上水・宮の橋あたり)

 

 ギャラリー閉鎖はご子息の終末期医療のためだった。わが子を見送った後に、今度は自身が昨年10月に大きな手術を受けたという。それでも相変わらず「季節の狩人」としての今後の計画を熱く語る鈴木さんだった。自宅の周りには、蝶のための食草、蜜源を育て羽化の様子などを皆さんに見てもらおう。別棟のアトリエには蝶や小鳥の写真を屋内展示しよう。自宅の1階は全て片付けて2階で生活している。そのうち「うどん会」を開きますかと語られた。

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*「雨ニモマケズ」

2019年03月11日 | 捨て猫の独り言

 このところテレビを見たことがきっかけで、これまで本棚に埋もれていた宮沢賢治に関する本を4冊ほど読むことになった。その中の一冊に谷川徹三の講演集「宮沢賢治の世界」があった。二人が生まれたのは一年違いで、谷川は童話の代表作を挙げよと言われたら「グスコーブドリの伝記」を、詩ならば「雨ニモマケズ」と答える。そして「雨ニモマケズ」を「この詩でない詩、そして同時に詩の中の詩」と讃えている。

 さらに「私は鴎外の墓の前にも、漱石の墓の前にも、ほんとうにへりくだった心をもって跪きたいとは考えません。しかし賢治の墓の前では跪きたい」と述べている。また聞いたこととして、賢治が自分でも死の近いことを自覚し父親に枕元に来てもらった時に、うず高い原稿を指して「これは自分の今までの迷いの跡であるから、どうにでも適当に処分していただきたい」と言った。同じ日の晩弟を呼んだ時には、原稿の中の特に詩と童話とを「これはお前にやるからどこかの本屋で出したいというところがあったら出したらいい、しかしこちらから持って行くにはおよばない。向うから何かいってくるまでそのまま預かってくれ」という意味のことを言ったと紹介している。

 全くの余談だが、盛岡高等農林学校時代に嘉内と一緒に写っている賢治の写真をテレビで見た瞬間に感じたことがある。それは賢治が今年からMLBに挑戦するマリナーズの菊池雄星投手とそっくりだということだ。これは私だけの感想ではないような気がしているがどうだろう。しかも雄星は盛岡出身であり、昨年二刀流で話題をさらった大谷翔平と同じ花巻東高校を卒業している。

 「雨ニモマケズ」に関しての吉本隆明の解読を要約してみた。「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」について判断力、理解力、記憶力といったものをたくさんのなかから選択していることが難解なのだ。たぶんこれは「法華経」のじぶんは無であり偏在しながらすべての事象と人間の心の動きを〈察知〉する能力というものを詩語にしてみたかったということなのではないか。「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」というのは現実の賢治とはまるで反対のことである。これはあくまでも弱小なものさげすまれているものの〈善意〉や〈無償〉でなければ意味がないということなのではないか

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*「銀河鉄道の夜」

2019年03月07日 | 捨て猫の独り言

  岩手はかなり以前に小岩井農場に立ち寄ったことがあるくらいで、よく知らない。花巻の観光は「宮沢賢治の世界」に集約されている。東北新幹線・新花巻駅すぐの賢治記念館をスタートして、レストラン・山猫軒、ポランの広場、喫茶・イーハトーブ館、蕎麦・なめとこ山庵、賢治童話村とめぐる5時間コースなどがある。また土日には2014年に復活した釜石線のSL銀河が運行されている。土地の人々は尊敬の念を込めて「賢治さん」と呼ぶという。

 家族の中で賢治に影響を与えたのは父と妹トシだ。父は家業の質、古着商を継がせるつもりだった。しかし進学の希望も、家業の拒否も、農村運動の実践も大体において賢治は自分の思うとおりに行動した。そして経済的基礎はほとんど父の援助を受け続けた。真宗を信仰していた父に日蓮宗への改宗を熱望したが容れられず上京し、自活自炊しながら大乗仏教を拡めようと創作に熱中する。しかし妹トシの病気の報に短期間で帰郷して稗貫農学校の教師となる。

 生涯娶らなかった賢治にとって、彼のもっとも愛した女性は二歳年下の妹トシではなかったか。彼女は花巻高女から日本女子大を卒業し、帰郷して母校の英語教師として在職中に結核になり臥床一年で歿した。トシは家庭内で打てば響くように賢治のいうことを理解し、かれの日蓮宗信仰を肯定し、かれの歌稿や童話を整理したりする文学的な理解者だった。それだけに妹トシの死に深刻な衝撃を受ける。このあたりのことについて、吉本隆明はつぎのように解読する。

 賢治は妹の死を契機に、それまで獲得していた知識のすべてをあげてかれなりの死後の世界の在り方を構成しようと試みた。それが詩「青森挽歌」であり、そのあとこれ以上の死後世界の探求はほとんどなされなかった。賢治が死のまぎわまで手入れし、未完に終わった童話「銀河鉄道の夜」の底を流れているのは「青森挽歌」で追尋したし死後の世界である。客車に乗って旅するのは、賢治のかくありたいという願望の象徴であるように設定されているジョバンニだ。〈子供〉は決して死後の世界を構想したり、想起したりはしないが〈橋〉の向こう側にあるきらびやかな世界の〈夢〉をみることはたれでも体験している。 

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*ETV特集宮沢賢治

2019年03月04日 | 捨て猫の独り言

 ETV特集「宮沢賢治 銀河への旅~慟哭の愛と祈り~」を見た。盛岡高等農林学校での友人である保阪嘉内との交流を描いた番組である。エンドロールには参考文献「宮沢賢治の真実・修羅を生きた詩人」、音楽は「パリは燃えているか」の加古隆、映像協力は国立天文台とあった。どの本の賢治の年譜にも保阪嘉内の名は登場しない。しかしウィキペディアには賢治の親友として知られ、代表作の「銀河鉄道の夜」のカンパネルラのモデルとされると記されていた。(徒歩10分の梅)

 賢治20歳の時に、賢治より1年遅れて山梨の嘉内(同年生まれ)が入学してくる。嘉内は寮の室長である賢治に対して「トルストイの生き方を知って盛岡に来ました。百姓こそ人間のあるべき姿です。自らを犠牲にして農民のために尽くすのが理想」と述べる。嘉内は数日で一気に書き上げた「人間のもだえ」という劇を賢治らと演じる。山頂で日の出を迎えようと松明を掲げて二人だけで岩手山に登る。また文芸同人誌「アザリア」が創刊されると二人はその中心メンバーとなる。

 その5号に投稿したニヒリズムが関わる一節で嘉内は退学処分となる。賢治は学校当局に再考を求めたが覆らない。山梨県立文学館には賢治から嘉内への73通の手紙が保存されている。そのうち56通は嘉内の退学後のもので、二人で登った岩手山の夜のことが多く書かれている。それ以前に賢治も見たであろう嘉内のスケッチブックには1910年のハレー彗星が描かれており、そこには「銀漢(河)を行く彗星は夜行列車のようにて、はるか虚空に消えにけり」と書き込まれていた。

 賢治は19歳のときに、釈迦の「宇宙は広さも時間も無限」という言葉に感激し、妙法蓮華経を座右において読誦することになる。退学の決まった嘉内に賢治は「漢和対象妙法蓮華経」を贈っている。二人は3年4カ月後に東京で再会するが、その日の嘉内の日記には「宮沢賢治 再会来」と書かれた文字を上から斜線で消している。賢治もゴッホ同様死後にその才能が認められた人物だ、生前自費出版した詩集の題は「春の修羅」である。春は自然、修羅(鬼神・悪鬼)は自我だろう。その詩でくりかえされる「俺は一人の修羅なのだ」が印象に残る。

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