玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

床屋さん

2005年10月28日 | 捨て猫の独り言
 床屋さんとはまるで縁がない。幼かった子供たちも散髪は家ですませた。私はいまだにそうだ。お抱え理容師は腕をあげた。外出できないお年寄りの訪問ヘアカットもできるまでになった。

 お抱え理容師が長旅に出て困った。白内障の手術のあと一週間洗髪禁止といわれた。美容室であお向けになって若い男の子に洗髪してもらって1500円とられた。一日置いてこんどは安くあげようと考えて床屋に飛び込んで1800円とられた。あととり息子の理容師で中学生の2人の子供をかかえて大変だと痛いぐらいに肩をもまれた。理容組合も安売りに対抗して料金設定自由化のながれにある。昔は羽振りがよかったとしきりにぼやいた。私が見栄をはって事前に値段を交渉しなかったのが失敗だった。

 いよいよ散髪のため大学構内にある床屋さんに出かけた。そこの設備のすべては学園のものだ。料金を市価より千円安く設定することが学園との契約である。学生たちは今では10分1000円のヘアカットに流れた。ここは教職員がちらほら来てくれるだけである。20年間自宅の店とここの2ヵ所を夫婦でやってきた。今はここだけをおかみさんが一人でやっている。

 私の周辺の同僚でこの店の常連客の名をはじめて聞かされた。なぜか名前だけのこのささいな事実に少しとまどう。私はもう二度と来ないかもしれない。 「家で散髪の方でも調整のため年に一度お見えになる方もいます」 さすがにぬかりはない。 「3ヵ月半の船旅ですか」 と聞かれて 「私の散髪で節約した分を今回の旅費に当てたようです」 と答えたら巨体をゆすってお笑いになったあと 「あ~あ、おっかしい」 といった。

 病院の手術台と違って床屋さんの椅子は 「よきにはからえ」 の王様気分だ。いいものですね。ついまどろんでしまう。

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ソ連邦解体直前の旅④

2005年10月24日 | ソビエト旅行

 「罪と罰」 を読まれた方は多いと思う。大学生ラスコーリニコフは非凡人の思想で金貸しの老婆を殺し、しかも殺人の現場に偶然来あわせた、つつましい忍従の女性であるその妹まで殺してしまう。ラスコーリニコフはついに大いなる苦悩のあとセンナヤ広場で大地に接吻する。自己犠牲の権化である聖なる娼婦ソーニャが物陰から真っ青な顔で彼を見つめる。この物語は時代の産物だと思えてくる。

 レニングラードに八日間も滞在して、それぞれエルミタージュ美術館などに単独で出かけるようになる。そんなある日、私はこの街の大動脈と呼ばれるネフスキー大通りのはずれにあるアレクサンドル・ネフスキー修道院のドストエフスキーの墓地をたずねた。その墓地の奥にある寺院では礼拝がおごそかに行われていた。

 人々は礼拝のときにローソクをささげる。中央の燭台に遠いときは、前の人の肩に合図して先に送ってもらう。ローソクがつぎからつぎへとリレーされる。片隅に異形のものを発見して息をのんだ。死んだ人を正装させ飾りつけて棺にいれて公開しているのである。しばらくすると棺が新たに運びこまれて三つになった。礼拝堂には聖歌が流れ続けていて、棺の蓋はとられたまま、旅行者である私もあいかわらずそこに立ち会っているのであった。革命後ロシア正教会は試練と迫害の時期を迎えた。しかし第二次大戦中に政策の転換があり、今では準国家宗教の地位を得て活動を行っている。

 これは地方都市でよく経験したことだ。夕食のときシャンパンを注文するとまずはありませんとの返事である。すかさずS氏が袖の下をつかうと、悪びれることもなく極上シャンパンが運ばれてくる。寡黙なもう一人のイーラをまきこんだ5人はよく集まって行動した。閉店後の国営レストランのそこだけ明るい片隅で粋な店長のおどろおどろしい話をさかなに強い酒を飲んだことが一度ある。その後もたびたび4人はおいしいシャンパンを飲むことができた。これはS氏がいなければ不可能であった。(シャンパンのこの段落は今回加筆)
 
 露文科の大学生と二人でラスコーリニコフの下宿をさがした。作家は小説の主人公をこの街の実在の家に住まわせたのである。迷い歩いたあげくさがし当てることができなかった。その翌日モスクワ駅から23時発の列車で最後の目的地の首都に向けて出発した。レニングラードにはモスクワ駅があり、モスクワにはレニングラード駅がある。8月中旬のモスクワは肌寒くすでに秋であった。(完)

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ソ連邦解体直前の旅③

2005年10月20日 | ソビエト旅行

 そんな風にして彼女は一日の三分の一を私たちにつきあってくれた。彼女が自分の車室に帰ると私たちは彼女を 「おしゃべりイーラ」 とよぶことに決めた。この旅の全行程に付き添ってくれているガイド嬢もイリーナさんという名だった。ウラジオストク大学をでたばかりであった。二人のイーラを区別する必要があったのである。
 
 「大変だ。おしゃべりイーラが猫になちゃった」 というS氏の声で目を覚ますと、目的地に近づきつつある列車の狭い通路に濃いアイシャドウをした別人のイーラが佇んでいて艶然と微笑むのであった。

 島尾敏雄氏はロシア人についてつぎのように述べている。その観察眼はさすがだ。 『はなやいだ洗練は感じられないが、そぼくで鄙びたい田舎くささを漂わせながら、やわらかに語りかけてくるまなざしが私のこころをつかんでしまう。こうと思い定めたらわき目もふらず、度合いをこえてもやりとおすようなからだのしんにひびいてくるがまん強い親切』

 専制君主ピョートル大帝がネヴァ川デルタ地帯の沼地に建設を命じたセント・ペテルグルブ、そしてドストエフスキーが住んだペトログラード、そして第二次大戦中のドイツ軍による悲劇的封鎖を体験したレニングラードとこの都市は時代と共にその名を変えている。この都市が経験した目まぐるしい変遷は他に類をみない。

 19世紀のロシアの病める知性の代表者ドストエフスキーはロシア国民の最大の独自性を 「無性格」 と呼ぶ。これはロシアの共同体の中ではぐくまれ、自分を無にして人類の中に消え去ろうとするナロードの思想である。僧ゾシマは言う。ロシアのナロードは貧しいがゆえに、その滅私、その信仰心と兄弟愛ゆえに、四海兄弟の理想を実現する資格と使命を負うていると。要は個人と社会とをいかに調和させるかにかかっている。その理想を西欧にみるか、古代ロシアにみるかで西欧派とスラブ派にわかれた。

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ソ連邦解体直前の旅②

2005年10月17日 | ソビエト旅行

 私たちの車室には年の若い順に、露文科の大学生、私立大の講師、社会科教諭、それに私の四人が乗り合わせていた。その中で教育学専門の大学講師のS氏はロシア語がとても上手であった。独学で習得した。まず耳に入れ、それから書き上げる訓練を重ねた。わずか2年でロシア人と話せるようになった。これまでに三回ソ連邦を訪れてぃる。誰もがその若々しい才能をうらやんだ。

 彼はいつもそうなのだが 「お客様をお連れしました」 といって我々を喜ばせてくれた。このとき23歳のイリーナさんを車室に案内してきた。ロシア女性の中ではむしろ小柄な方であった。茶褐色の髪を巻いてうしろにたばね、そばかすのまじった色白の細長い顔立ちだった。化粧を全くしていないせいか、まるで少女のようだ。彼女はチェルノブイリの近くの立ち入り禁止区域での特別な用を終えての帰りだという。瞳を輝かせ、頬を紅潮させてほとんど一人で早口で喋っている。講師のS氏も急ぎ通訳するがそれが終らぬうちに彼女は別の話に移ってしまう。他の四人が日本人であることを全く忘れてしまっているかのようだ。すこし黙ってもらうために飲み物を勧める。ところがちょっと口をつけただけで寸暇を惜しんでまた話はじめる。そんな一方的な交流であった。そのうちに彼女が真剣に話していることのすべてを理解できたかのような気分になったのは不思議だ。

 話しつかれてわずかな沈黙がうまれるとあなた方はなぜ黙っているのかと詰問する。日本の話になるとパチュムー (どうして?) を連発してくる。まるで学校に上がる前の子供のようだ。日本語をならいたいとまで言いはじめた。私もどれほどロシア語をならいたいと思ったか。白樺林の向こうに陽が沈みかけていた。彼女は組んだ両足を両手で抱え、遠くを眺めながら 「夕陽をごらんなさい」 と言うのであった。

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ソ連邦解体直前の旅①

2005年10月14日 | ソビエト旅行

  《 00年の夏3週間ゴルバチョフ率いるソ連邦を旅行した。そのときの駄文を職場の広報紙が掲載してくれた。よほど紙面作りに困ったらしい。チェルノブイリ原子力発電所事故のあと、ソ連邦解体の前年である。日本では人気のゴルバチョフがソ連邦では全く支持されていなかった。いまでも不思議である。その後は酔っ払いのエリツェンだけになおさらだ。焼き直しもので恐縮です。タイトルは「レニングラードにて」 》


 しばらくまえにテレビで二年間ほど中国語講座をきいたことがあった。中国語の美しい声調にひかれた。その直前の番組はロシア語講座であった。その番組に登場しているロシア人の言動がとても華やいで見えた。中国語番組のきまじめで抑制のきいた話ぶりとちがい、ロシア語番組はどことなく開放的な雰囲気である。旅行まえにいつもは身につけないジーパンを買ってしまったのもその印象が後押ししたのだろう。

 旅の五日目私たちはキエフからレニングラードに向かっていた。まる一日の汽車の旅である。軍用列車さながらに高々とがっしりした車体を連ねた急行寝台である。駅にとまると客は低いプラットホームに降りたち、風景をたのしんだり、たばこをすったり、りんごや洋なしやすももなどの買い物をした。くだものを売り歩いているのは近くの農家のバブーシカ(おばあさん)である。かわの白いりんごはとても小さく、赤ん坊のにぎりこぶしくらいだ。日本のりんごとはくらぶべきもない。それにきずものが多いが、ここではそんなことを気に病んではいけない。

 地球の陸地の六分の一を占める広大な国と小さなりんごのとりあわせをどことなくほほえましい。果物といえばそのほかにすいか、桃、うり、ぶどうなどを食べた。どれも充分な甘みがある。旅行中は野菜不足になりがちだから安く手に入る果物は貴重であった。

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今時の学校

2005年10月09日 | 捨て猫の独り言
 教師との距離がゼロに近ずきつつある。仲間のいる教室に入ってくるのりで職員室に入ってくる。教師に対しては友達感覚で妙になれなれしい。教師のあだ名は知っているが、本名を知らない場合もでてくる。あだ名で呼ばれたい教師が多数派だ。ちなみに私はヨシコーだ。私は他の教師の所在などをあだ名で問われたら答えないことにしている。もうペット状態の教師もいる。そこまでやるかと思うが単刀直入にその教師を批判するというわけにいかない。ペットは飼い主を教育できない。こんな職場のストレスもある。

 ある特殊な事例をあげる。場所は職員室で、相手は高2の女子だ。こちらは慎重にことばを選びながら、生活改善などを話している途中に、やおら手鏡を取り出して髪の手入れなどが始まる。皆さんが見かける電車の中の光景を今や職員室でも見ることができる。ハレの世界とケの世界との区別がなくなった。

 大多数の生徒が仁義を知らない。個人的にルール破りのお目こぼしをしても、二人だけの秘密を守れない。秘することできれば次回もチャンスがあるはずなのに。それどころかあの教師は遅刻を甘く見てくれた、だからあんたもそうしろと言う。これはまるで恐喝行為だ。こんなことでは教師も建前に戻らなければ我が身があぶない。ますます学校が窮屈な場所になるばかりだ。悪を恥じる気持ちを持つべきだ。

 へなちょこ平等主義とはこのことか。授業中の私語を注意すると 「他の者もやっていますよ、どうして私だけを注意するのですか」 と情けないことを言う。 袖振り合うも他生の縁 (知らない人とふとした交渉をもつのも、前世からの因縁があってのこと) は死語になった。人と人の関係を希薄にしたいのだ。

 授業中の質問に対して男子生徒が間髪いれず 「わかりません」 と答える。こちらもただちに 「わかりません。すみませんの2つあれば学校では生きていけるね」 と返したら教室がどっと沸いた。


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ピースボート便り

2005年10月06日 | ピースボート世界一周
 今も尾をひくベトナムの枯葉剤にふくまれるダイオキシン、日本のお父さんに会いたい、9・11後の世界を考える、日本国憲法の意味を考える、雑穀好き、キッチンから世界を変える、韓国の新しい言論紙「ハンギョレ新聞」誕生の経緯と今、ケニアの現状を知ろう、アメリカのダンスを習おう、もっと知りたいグリーンベルト運動、アメリカのエイズは今、日本の戦後史に見る農と食、食のグローバル化のなかで変質したものは、マイノリティについてもっと知ろう

 在日韓国人3世金くん(19歳)の世界一のジャグリングショー、仲間はずれにされて反発心が生んだ頑張り話、菊千代師匠が女性第1号として真打になるまでの経過や日本語や韓国語併用での落語(加えて英語もやるそうな)

 寄港地先々で乗船して来る講師や演者は私たちにたくさんの課題をつきつけてきます。もっとも参加するかしないかは自由です。千名ほどの参加者もそれぞれ個性的で自主企画の場所とりの抽選会もしばしば行われています。

 私の場合英語の集中講座をとったので午前中はほとんどそれでつぶれます。当日プリントを渡されぶっつけ本番で、どんなに困っても英語で通さねばならず、いやもうとてもいい訓練になります。それに宿題まで。私ばかりが四苦八苦しているわけではないので皆さんと結構楽しんでもいます。寄港先で乗りこむ外国人のレクチャーも通訳がつくものの英語のシャワー。むずかしい聞き取りの訓練です。

 シンガポール、セイシェル、ケニヤを寄港して、おつぎはエジプト、ギリシャ、ローマです。朝5時の起床ではじまり、ウォーキング、ラジオ体操、太極拳で汗をかき朝からシャワーを浴びます。毎日一万歩以上歩いています。とりいそぎご報告いたします。

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思い出のベネチア

2005年10月02日 | 捨て猫の独り言
  阪神のリーグ優勝の日その喧騒とはべつにNHKテレビでは世界遺産ここにいきたい!ベスト30が放映された。視聴者の投票によって決定したベスト30という。どのくらい自分がおとずれた場所があるか気になってひとりで静かに見た。その朝、まだまだ世話をやきたがる母親に私からお願いしてお帰りいただいた。80過ぎの両親から無事帰宅これから風呂だとついさきほど電話があった。あんしんした。2週間あまりの滞在だった。わが家の庭と車がみちがえるほどきれいになった。

 その日はことさらしずかな秋の夜である。ベスト30のうちこれまでに私がおとずれたのは知床、屋久島、シェ-ンブルン宮殿(オーストリア)、ボンペイ、ベネチア、フィレンツェ、バチカン市国の7ヵ所であった。3年まえの夏におとずれたベネチアのサンマルコ広場にはことさらの思い出がある。永年勤続のごほうびに職場から海外旅行の費用が出る。あと一人ぶんを奮発して夫婦でパック旅行に参加した。遠因については別の機会にゆずるとして、引きがねになったのは写真のことである。団体旅行で行く先々で親切に撮影タイムをもうける。私がそれに同調しない。写真を撮るために来ているのではない。それに対してケチってどうするのという食いちがいである。 
 
 ベネチアの自由時間のサンマルコ広場で壁に背をもたせて腰をおろし人目もはばからず泣きはじめた。十年に一度あるかないかのマグマだまりの爆発だ。自然現象をまの当たりにしているようだ。夕方には予約してある歌手つきゴンドラに乗るために指定された場所に集合せねばならないが、それまでなら気の済むまで泣いてもらおうと開き直った。秋から初冬はサンマルコ広場は高潮のため水びたしになるという記事など見るたびに私は思い出す。

 旅とは非日常の別名です。今回ピースボートのクルーズの一人旅に私はよろこんで送り出しました。残された私は私でこのように一人でのつつましい生活を楽しんでいます。私はかわいそうではありません。わが父母よ、どうぞご安心ください。







































































































































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