玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

職安の求職活動支援

2005年03月29日 | ねったぼのつぶやき
 昨年の11月一杯で定年退職をして、現在失業保険をもらっている身です。去年、今年辺りを境に同じような状況になる方も多いでしょうから、私の場合をひきあいに出して、私の知っている限りの情報を提供しようと思います。

 定年退職の場合(私の場合勤務年数34年ですが20年以上)支給日数は最長150日で1日6916円。(これが上限でそれ以上は出ない) 年金と失業保険が併せて支給されていた夢の時代が、数年前まであったことは皆さん承知ですよネ・・・・そんなことをやってきたから,財政が逼迫しないほうがおかしい。

 さて実際の給付が始まって半ばごろになると、それまでは自主的に行うよう指導されていた求職活動を(職安もしくは分室で個人的にパソコンを使って適当に検索していれば良かった)、その活動を履歴書を基に職安と共にやりましょうということらしく、私の場合その日は3月31日と設定されています。

 正直にいえば少なくとも一年間は休みタイ。その間ユックリしながら、退屈するようだったら働こうカナ。働くにしても出来れパートぐらいで休み、遊びしながら程度が丁度いいカナ。

 ぐらいに思って、求職支援活動の手前、共に働きたいと言ってくれる知人の強い希望もあって、その施設に出向いて面接なるものを受けました。上記3点を言葉を選びながら伝え、出来得れば来春からの方が有難いのですがと申し出ました。(今まで面接をする立場だったのでなおのこと、そんな勝手は許されませんよネ、実は断ってもらっていいんです。職安の都合でやっているだけなんですから)と、内心思っていました。

 それはいいですねと話が進むうちに、どうも途中からかみ合わなくなってきました。それもそのはず、先方は今春から是非,常勤でとの前提で話されていたのでした。同席していた知人も、「当人は来年からしか頭にないし、私もそれでいいですから」といってくれたのですが。

 そんな週末があけ、本日社会保険事務所に今後働くことを前提に、給料と年金の併用の場合を電話で尋ねてみました。サラリーは提示された概算により、速見表で年金の減額を調べてもらったところ、10万円はシッカリ減る計算になるようです。つまるところ、提示されたサラリーより10万円安くなっても常勤として働くか。ホドホドのところでパートとして働き、年金の満額受け取りを期するか、それとも全く働かないか、いずれか一つ選択しなければなりません。

 想定外(さいきん流行っていますネ)のことなので、返事は保留のままですが、31日ももうすぐ。果たしてどんな求職支援活動になるのか、楽しみであるような、不安であるようなそんな気分です。

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塚田新市氏のこと

2005年03月26日 | 捨て猫の独り言
「くしきの六期二十四年」は291ページの自費本である。鹿児島県串木野市長を退任して7年後に出版された。この本のずしりとした手応えは、上質紙のせいばかりでなく、氏の実績の内実の重さから来ているように思われる。昭和46年に56歳で市長に就任。直後から手がけたのが、串木野新港、漁港外港、地下石油備蓄基地、中核工業団地、公共下水道処理施設の五つのプロジェクトである。これらは後に、日本計画行政学会が選ぶ「計画賞」の最優秀賞になった。いかにして、国県に働きかけ、市・市議会および串木野市民が一致協力して、大事業を成し遂げたかが、つぶさに記されている。

塚田語録

こんどの市長は、職員にきびしすぎる。課長達も市長の前に出ると、萎縮して思っていることの半分もいえない。市長と助役だけがいきりたつばかりで、仕事は空回りしている。職員はついていけない。と、ざっとこんな批判が、ちらほら聞こえてくる。串木野市職員は、いま倍増の仕事を抱え、自ら鍛えつつ急速に成長しつつあると思う。しかし自己満足はいけない。わが串木野は豊かさを求めて更に飛躍しなければならない。そのために全職員が持ち場、持ち場でアイデアを生み出し、論議をつくし、実現に向かって、助役や市長を駆りたてる気合、気力を漲らせる、すると職場に、きびしさのなかに楽しさが生まれるであろう。市民の側に立って、全職員が仕事の実現のために、市長に挑戦することが市勢発展の本道であることを強調したい。そうなることこそ、市民の皆さんの期待でもある、と信じたい。

真に保革無所属の心情こそ地方自治の本道であると思う。保守に徹することが革新に通じ、革新に徹することが保守に通じる。つまり、市民福祉に徹することである。

一般に反対意見がなければ議会は何をやっているんだとみられる風潮がありますよね。しかし、私に言わせれば、「まず反対ありき」の議員こそ、がんたれ議員ですよ。議員の質は、彼らが、その事業の内容を理解しているかどうかにかかりますな。そういった意味では議員に恵まれました。

財源の配分など行政システムから見れば、確かに三割自治かもしれない。それでも、市町村は県政や国政を具体的に展開する場なのだとの立場に立って、これらの仕組みを最大限に利用すれば市民生活の幸福は実現できる。首長の手腕一つで、三割自治どころか五割自治にも、十割自治にもなるんですよ。

発刊に寄せて

私は相撲道に精進して、今日まで六十年になります。生涯の唯一惨敗の市長への挑戦がより私を心豊かにしたのです。今静かに己を省みることができます。本当に凄いそして強く逞しい方に出会ったことを終生の私の誇りとし、感謝の意を表します。(元串木野市議会議長・北山信義)

苦学力行、という言葉はもう今では死語に近いが、塚田さんはまるでその手本のような青年時代を過ごし、その間に鍛え上げた精神と肉体が六期二十四年の全力投球を支えた。新たな行政課題についてはもちろん、外国語にしても、激務の中でこつこつと寸暇を惜しんで勉強する。挨拶文は一字一語を丹念に吟味する。英国や中国との交流事業などでみせた天性の国際感覚と実行力、それらを裏打ちする、しつこいまでの緻密さ。近年鹿児島では得がたい個性を備えた指導者のひとりである。(南日本新聞社社長・大園純也)

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父の記録

2005年03月24日 | 捨て猫の独り言
stendogurasu事実の記録から、想像力を働かせることで先の戦争を追体験してみたい。4年まえに84歳であった父が、孫娘(私の長女)へ出した手紙の中に書いた自分史をここに再録してみた。父は耳が不自由だが、今でも健在である。

[1934年17歳] 旧制鹿児島県立二中4年終了、陸軍士官学校予科入学(市ヶ谷) [19歳] 本科に進む [20歳] 航空兵科(所沢)で「飛行機操縦術」の教育開始 [21歳] 埼玉県入間郡豊岡町へ移転、陸軍航空士官学校となる、同校卒業、浜松飛行第7連隊(重爆隊)附となる、浜松陸軍飛行学校で「戦技教育」を受けた後に原隊復帰

[22歳] 飛行第60戦隊附に補せられる(飛行機は九七式重爆撃機)、中支の漢口に着任、以後重慶、成都、昆明付近の各飛行場の爆撃など日中戦争に参加 

[1941年24歳] 陸軍大尉に任ぜられる、太平洋戦争始まり、マレー、シンガポール、フィリッピン等の作戦に参加 [25歳] 浜松陸軍飛行学校教官に補せられる、召集佐尉官(戦闘隊戦隊長要員)として、明野陸軍飛行学校(三重県)へ入校「戦技訓練」を受ける、12月20日に結婚 

[26歳] 陸軍少佐に任ぜられる、飛行第77戦隊長に補せられる(飛行機は通称はやぶさ)、ところが、赴任先であるニュウギニアのホーランジャ飛行場に、同日アメリカ軍が上陸し部隊は壊滅、ジャングルを退却、シンガポールで部隊を再建しようとしたが第77戦隊は解散し教育飛行隊となる 、飛行第105戦隊長に補せられる(飛行機は、まだ乗ったことも無い通称飛燕)
福生飛行場(横田基地)で飛燕の操縦を習得の後、台湾の台中飛行場へ20機を空輸した、途中隊長機がエンジン故障で沖縄の伊江島近くの海に不時着水、強運にも怪我もなく生還、後日遅れて台湾に到着

[1945年27歳] 台中飛行場から宜蘭飛行場(台北南東約40キロメートルの台湾東海岸)へ移駐、沖縄作戦に参加、有為の若い部下15名の方々が特別攻撃で戦死、哀惜の極み、8月15日終戦 [28歳] 2月24日に田辺港(和歌山県)に上陸復員し一市民となる 

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「エイッ!一列前進!」

2005年03月19日 | ねったぼのつぶやき
hina 
 今まで最後列でどちらかといえば遠慮がちにやっていたけれど、曲のボリュウムが大きく指導員の声が届きにくい。それに勘もいくらか戻って見苦しくないほどに追いついてきた。私よりももっと高齢の方々も臆せず参加している。と言うわけで「エイッ!このへんで一列前進!!」と自分に号令をかけた。

 エアロビクスは勿論有酸素運動だから、フッフッと息を吐き出しながらやる。軽快な今様の音楽に乗りながら、次々と変化する指導員の動きに遅れをとらないように体全体でリズムをとって動く。15分おきに水分補給の時間があり、タップリ汗をかく。運動の中身は単に動くだけではなく、筋力のアップ、バランスの保持、柔軟性の獲得と様々なメニューが組み込んであり、一つ一つの動きを繋いて組み立てて動くので、その順番を頭に入れておくのが一番難しく、体ばかりではなく頭も使う訓練にもなりそう。ともかく飽きないばかりか気分転換、運動不足解消にはもってこいだ。今では週3回月、水、金の10時から11時までは、私の生活時間の中で最優先事項となっている。

 同じ時間帯に、窓越しに見える部屋で他のグループが同様の体操をしている。動きはユックリで年齢はもう少し高いようだ。タマタマ給水時間にトイレに行ったところ、このグループの休憩時間とかちあったのか、トイレが順番待ちになっていておかしかった。皆さんもいかがですか。市町村が公民館や体育館を使って結構やっていますよ。

 母が存命のとき何かの話からエアロビクスの話になり、「カネッ忙しゆう働いて十分動いてンのに未だ運動をせんとイカンカネエー」と言ったことを思い出す。「普段使う筋肉はキマッチョッデ使わん筋肉を使わんトネー」と答えておいたのだが、母の質問もまことに然りであった。母らの時代には殊更に運動などせずとも沢山の労働がひしめいて待っていた。吹き出る汗を心地よいと感じるいとまどころではなかった。

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2年後のご挨拶

2005年03月11日 | 捨て猫の独り言
卒業の季節、今年の退職者の挨拶に触発されて2年後の私の挨拶を試みました。少し変ですか。

自ら希望し、縁あって成蹊で働く機会を得て32年が経過いたしました。はじめは中学生と楽しく過ごしました。夏休み直前に、1年生は海へ、2年生は山へ、3年生は京都、奈良へと出かけました。普段の授業、ホームルーム、生徒会などの日常活動が、関連づけられて海、山、修学旅行の宿泊行事において、自治活動として、集約されていきます。小集団(班)での議論を積み上げる努力をし、それを習慣化すること。一つの流れが生まれると、もはや成蹊の生徒はしらけてなんかいませんでした。そんな、盛り上がりを経験しました。

遡って1960年代には、遠山啓氏が、保護者を巻き込んだ民間の教育運動を展開し、水道方式(計算練習の理論化)等の成果をあげました。いずれも岩波新書ですが「数学入門上下」「現代数学対話」「数学の学び方・教え方」は私の座右の書です。70年代には、学級通信が盛んでした。私も、便乗して「あごらE」という月報を中2から中3の2年間発行したことがありました。

教員交流で10年ほどして、高校に移りました。生徒諸君と同時に進級するのですから違和感はありません。私が受けた高校の数学の授業は、説明はあまりなく、入試問題が並んだテストの繰り返しでした。鍛錬主義ですね。成蹊では文系コースでも最後まで数学を学ぶという方針でやっています。幅広く学ぶことは成蹊の特色のひとつです。私は、ある時期に民間の数学教育研究会に参加していましたが、長続きせず悔いを残しました。それでも研究会の成果は公表されましたから、大いに自分の授業の参考にしました。

これまで、自由闊達な環境の中で過ごせたことは、幸せなことでした。とてもいい生徒たちに囲まれ、見識を持った保護者の方々に見守られ、そして寛大な同僚諸氏の中で、学び、働くことができましたことを心から感謝申し上げます。

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ヤット片付いた部屋

2005年03月09日 | ねったぼのつぶやき
 アルバム整理に約1ヶ月かかった。
日曜日は、捨て猫さんがいることもあって、テーブルの上を汚すわけにもいかないので程々にしていたのだけれど、長い時間をかけて飽きずにやったものだと自分ながら驚いている。当初は冗談めかして「帰ってきちゃった」といいながら帰宅していた我が家の捨て猫のほうこそ最後は呆れ、いつまで続くのかと気にしていたのではないかと思う。

ヤット片付いた部屋を先日久しぶりに隅から隅まで掃除機をかけてやっとスッキリさせた。しかし一見スッキリなったのだが、1ヶ月もアルバムと格闘したものだから、殆ど毎晩夢の中まで出て来て、未だに私を悩ましてくれる。例えば、隙間無く貼ったつもりなのに、つかみ損なって2枚一遍にめくったのか、出来上がってみたら左右両面が空白だったり、肝心の写真が貼れていない箇所がいくつも発見されたり、貼りたい数とスペースの調整が上手くいかなかったり、貼りたかった写真が整理が済んでからゴッソリ出てきたりといった具合である。

さて当初の目的であった軽量化と分冊化のほうはどうであったか。軽量化の方は約3分の1位は処分したけれど未整理分を新しくしつらえたので、アルバムの冊数としては殆ど変わらないが、未整理分を気にしなくてすむ分まだマシかなと思う。分冊化の方はバッチリである。元来浪費家ではないし、今後も生活のスタイルはスリムにをモットーにしているので、アルバムの数もそうそう増やしたくないと思っている。

ところでアルバム整理は時系列的に行うので自分の誕生から(といっても小さい頃の写真は少なく、大方は学校の集合写真であるが)学生生活、結婚、育児期、職業生活と順を追って貼りながら、「今まではある程度敷かれてきた枠のなかを走ってきんダナー。しかしこれからは全く枠もタガも無い世の中を歩くんダナー」と当たり前ながら意外感を伴って実感しているところである。

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